澄み透って撃たれる(前編)
もし無人島に何かひとつ持って行けるとしたら。
(くだらない質問)
興味がない。「わたしはスマホです。助けも呼べるし時間も潰せるし」「充電できないよ」「あっ」
そういう会話。楽しいか?
何、とか。どうしてとか。考えるのも面倒。
だけどもしどうしてもと聞かれたら、考えるまでもなく答えは決まっている。
岩清水由春。
理由? 一緒にいると、生存率が上がりそうだから。生きてさえいれば救助されるかもしれないし。
救助が来るまでのつなぎだよ、あいつなんて。
だけどとにかく、殺しても死にそうにないし。
周りの人間のことも絶対に見捨てないから。
奴の中に優先順位があるとしたら、自分は結構下の方だって自覚はあるけど。
さすがに無人島で二人だったら、生かそうとしてくれるだろう。
そのくらいには、信じている。
優先順位は低いから、他に誰かがいたら後回しにされるだろうけど、ね。
* * *
「由春。米あるか。イタリアンで行こう。サラダとサルティンボッカ、リゾット。デザートはパンナコッタ。蜷川、予約にNG食材のあるお客様は」
澄み透って撃たれる。
清冽な声がキッチンに響く。
格別威圧的でもないのに、自分の意志をよく通すひとの声だ。
人生で一番深酒した翌日、まわらない頭と濁った目で見ても、西條聖が特別な人間なのは知れた。
計算されつくした動き。急いでいる素振りもないのに無駄がなく、見飽きない。まるで流れる水。
そこにいるだけで、空気の清涼感が増す。彼の周りが、明るい。
光をまとう立ち姿。
――聖さんは特別。
以前「海の星」でバイトしていて、一時期付き合っていた西條揚羽が言っていた。その時は、実際に会うことがあるとは思っていなかったから、話半分に聞いていたが。
曰く、五歳で親に捨てられたとか。遠縁の写真家と一緒に暮らしていたとか。
高校の時の同級生だった揚羽の姉と二十歳で結婚して、西條姓を名乗るようになったとか。
――ときどき、不思議なことを言うの。うまく言えないんだけど、何かひととは違うものが見えているような、聞こえているような。だから、人を寄せ付けないところがあって。お姉ちゃんは聖さんのことは大丈夫だったんだけど。
曖昧で不確かな寝物語を思い出す。「お姉ちゃんは大丈夫だった」とはどういう意味だったんだろう。
(うちのシェフも大丈夫そうに見える)
ふらふら歩き回っては邪険にされたり叱り飛ばされたりはしているが、由春自身は、聖を苦手にしている節はない。
むしろ、なんだかんだ言いながら、聖から絡んでいるように見える。
「なんでそんなに飲んだんだ。せっかくの再会でも、ゲロまみれの口にキスなんかできない」
どこまで本気かそんなことを言って由春を小突いている。
「やめろ。ちょっとの衝撃で吐く」
由春はふらついて口元をおさえた。
聖は形の良い眉をぐっとしかめて、あの澄んだ声で撃つように言い放つ。
「失せろ。物は揃ったし後は俺がやる」
まかせる~、と覇気の欠片もない様子で言って由春が事務室に戻って来た。
避けようとしたが、いつもより二人ともてんで動きが鈍くて、境目で立っていた幸尚の肩にどん、と由春がぶつかってしまう。
(衝撃で吐くんじゃねーの)
普段なら躊躇いなく口にしているセリフが声にならなかったのは、自分も同じ状況だったせいだ。
喋る前に吐く。呼吸もそろりそろりとしないといけないくらいの深刻な嘔吐感。
由春はぶつかった拍子に「うぉぉ……」と呻きながらその場にしゃがみこんでいた。
惨状。紛れもなく大惨事の前触れ。
二人とも、ひどく緩慢に、慎重に動く。慎重でも、同時に動いたのは悪かった。
立ち上がりかけた由春に幸尚がつまずく。
「うわ」
諦めきった声を上げたのは両方。回避できずに由春が倒れ、幸尚も転んだ。
吐かないように。二人とも無言で床にごろごろ転がる。最低of最低。
「そこで吐かれると何かと……片付けが……」
さすがに人にやらせるとは思わないが。
「お前こそ吐くんじゃねーぞ……」
立ち上がれないまま、憎まれ口を叩き合った。そのまま、吐き気が落ち着くまで二人ともじっとしていた。床はひたすら冷たかった。冬だ。
◆Insalata
◆Saltimbocca
◆Risotto
◆Panna cotta
由春からひらりと落ちた紙が指を掠って、拾い上げてみたら流麗な筆致でメニューが書かれていた。
(サルティンボッカってなんだっけ……よくわかんないけど、美味そう)
体調が万全だったら絶対食べたかった。
もっとも、この状況でなければ聖はきっとキッチンには入らず、お客様をしていたはずだ。そう思うと、仕事ぶりを見る機会があったのは幸運だったかもしれない。
「幸尚……、西條さんとはなんで別れたんだ」
相変わらず床に転がったまま、由春が声をかけてきた。
天井を見上げて、なんだっけ、と考える。
「向こうが大学卒業して、就職で北海道帰ったからです。理由は特になし。遠距離の先が無いのをお互いよくわかっていたので」
ぼそぼそと、吐き気を誘発しないようにだけ気を付けながら、答える。
遠距離の、先が無い。
他に言いようがない。どうしても付き合いたければ揚羽が残ってこの近くで仕事を探すべきだった。
もしくは自分がついていけば良かったのかもしれないが、現実感がない。北海道に行って仕事を探すところから始めるなら、東京の方が良い。海外も良い。
要するに、選ぶほどの恋愛じゃなかった。
――聖さんは特別。
あの一言が効いていたというのもある。おそらく勝てない。彼女が本当に好きな相手は自分じゃない。
(見て、わかった。見るからに光と風を背負って立っている。自信とか)
普段の由春と同類だ。
もっとも、今日の由春はオーラの欠片もなくむしろどことなく薄汚れている。聖が摘まみだしたがっていたのもうなずける。
「なんで昨日……、飲んだんですか」
今度は幸尚から、聞いた。
昨晩は全員変だったが、営業できなくなるほど由春が羽目を外すとは思っていなかった。
少し間を置いてから、呻き声が言葉らしきものになった。
「椿につられたかも」
つられるほど、入れ込んでないくせに。
とはいえ、香織もおかしかったのは確かだ。伊久磨ともぎこちなかったし。本当にフローリストをめぐっていざこざしているのだろうか。どう見ても現状「彼氏」の伊久磨の圧勝なのだが。
(幼馴染? 従姉妹? わかんないけど。時間はたくさんあっただろうに)
動かなかったから、機会を逃した。後から騒いだって遅い。諦めが悪い。
無性に腹が立った。
香織もまたこの土地に縛られて、どこにも行けない人間だ。その境遇に簡単に負けて、好きな人はぽっと出の男にかっさらわれ、遠距離の彼女とも進展できない。
このままここにいたら、自分もそうなるしかないのかと。
重ねるほど似ていないはずなのに、詰ることを止められなかった。
あれ。
(でもニナさんは遠恋うまくいきそうなんだよな……。なんでだ……?)
あんなに何も欲しく無さそうな顔をしているくせに、香織からフローリストは奪っているし、「海の星」でも由春の信頼を得ている。
どうしてだろう。
いつの間にかひとから必要とされて、居場所を確保している。
生きるのに一生懸命だから?
自分は? それほど劣るのだろうか?
「吐きそう」
今さらの呟きをもらして、両手で顔を覆った。
いまだに床にゴロゴロしているのは由春も同じだったが、不意に「あのなぁ」と呼びかけられた。
ん~、とひとまず呻きで返事。
いま少し間を置いてから、由春が切り出した。
「年明けから、『どこか』行くか。いくつか話は進めてきたんだ。行きたいところがあれば行っていい。その方がお前の為になる」
言うのが遅くなって、悪かったな、とひそやかな声が続いた。