天上の雪
家族を喪った頃の記憶は曖昧だ。
長いこと闇の中にいた。
今になって、その頃の自分に「もっと何かできなかったのか」と言うのは、無理な話というものだ。何しろ、生き延びられるかどうかの瀬戸際だったのだから。
(喉元過ぎたらなんとでも言える。自分にはあれが限界だった)
限界。
大人になったら、何になる?
何にでもなれるんだ、可能性は無限大だ。
(小学生の低学年くらいか。ケーキ屋さん、花屋さん、スポーツ選手、医者。職業なんかそんなにたくさん知らないから似たり寄ったり。今の子どもはYouTuberが上位なんだっけ)
そのうち、少しずつ道が決まっていく。それは、悪いことじゃない。無限なんて無と同じだ。「何もかも」より「何かひとつ」本当に大切なものを手に入れられたら。それ以上は何を望むと。
気が付いたら大人になって、会社員になっていた。
生きる為に「何か」になっていた。
そのことに疑問なんか覚えないようにしていたのに、西條聖というひとは易々と言う。
「蜷川は将来何になりたいんだ」
「将来」
割り箸を割ったところで、横に座った聖に目を向け、動きを止めてしまった。
結局夜までふらふらだった由春と幸尚に代わり、聖が采配を振るって営業は事なきを得た。終わりよければすべて良し(良くはない)。
閉店後、聖と遅い夕食がてら、牛丼チェーンに来た。
すぐに目の前に届いた牛丼を前に、聖は紅ショウガをのせると、ぱきっと綺麗に割り箸を割ってさっさと食べ始める。
何を言えばいいかわからぬまま、伊久磨ももくもくと食べ始めた。
(将来? 現にいま大人で会社員だ。「海の星」が潰れない限りはステラマリスの社員だ。将来……?)
ただでさえ小さい会社だ。上の役職といってもたかが知れている。この先三十年、四十年と由春と毎日顔を合わせて、二人で……?
店を、会社を大きくすればその限りではない。ただ、それにしても焦点は人材の確保だ。「海の星」と同格ではなくても、もう少しカジュアルな二号店を出すということも考えられるし、状況によってはそちらのスタッフの指導くらいは伊久磨ができるかもしれないが、料理は作れない。
いや、スタッフの指導が自分に出来るのだろうか。大人数で働いた経験が無い。
たとえば、会社的に「古参」だとしても、どこかから経験豊富で優秀な人材が現れれば、負ける恐れは十分にある。
ちょうど、体調不良の由春がいなくても営業が成り立ってしまったように。
西條聖がいて。
(岩清水さん以外の料理人を知らない。そしてお客様の反応を見ても、岩清水さんが出来る料理人なのはわかる。だけど、同じくらいできる人もきっとたくさんいる。西條さんのように)
伊久磨と同じように家族を喪いながらも、自力で道を切り開いて、己の腕を頼みに生きる男。
聖になりたいわけじゃない。
なれなかった、それがすべてだ。
落ちてしまった暗闇から這いずり出て、どうにか日常生活と呼べるものを送れるようになるので精一杯。
今でも周りから心配されている。
損傷した箇所が治り切っていないお前は、いつ故障するかもわからないと。
(俺は弱かったんだろうな。あんなことがあれば潰れて当然だと思い込もうとしていた。だけど、潰れないひとだっているんだ)
辛さはひとそれぞれとはいえ、強度に優れた人間もいる。
困難にぶつかってもすぐに立ち上がり、立ち向かって、凡人の手の届かないところで戦っている。
人より前に出たいと思ったことなど無いが、後塵を拝すとはこういうことかと。
食べるという名目があったおかげで、話す必要がないのが良かった。会話なく、食べることに集中しているふりができる。
これが酒を飲みつつということになったら、それなりに自分も何か言う必要があったかもしれない。
何もない。
「ごちそうさま。出るか」
ほとんど同時に食べ終わって、聖に声をかけられる。
「はい。この辺タクシーはあんまり走ってないんですけど、ホテルまではどうしましょう。駅前ですか」
席を立って、マフラーを巻き付けながら問いかけると、聖は「そうだなぁ」とのんびり言った。
先に出て、ドアを手でおさえて、聖を待つ。
氷点下の冷気が立ち込める外に出て並んで歩き出したところで、横から見上げられた。
けぶるような青い瞳。目が合うと、ぐっと緊張する。気のせいではなく、聖はものすごく真っすぐに目を見てくる人間だ。
「落ち込んでる。楽しいことくらいあるだろ?」
炯々と瞳が光る。口の端が笑みの形に吊り上がっている。
「楽しいこと」
聞き返してしまう。何も思いつかなくて。
聖は寒さを打ち消すほどに温かな笑みを浮かべた。
「朝会ったときの蜷川は悪くなかったよ。何か良いことあっただろ」
朝なんて、もうはるか昔過ぎて思い出せない。良いこと?
真剣に考えていると、聖が手を伸ばしてきてコートの上から尻ポケットを叩いてきた。
「スマホ見てごらん」
言われるがままに取り出してみると、まさに着信中。
齋勝静香
「えっ、ごめんなさい。何か用事がないとかかってこないひとから電話で。三分ください。寒い中ごめんなさい」
「いいから、早くとりな。待ってる」
まだ聖とこの後どうするか話し合いの途中だったが、その言葉に甘えて通話にした。
「はい。静香? 何かあった?」
――あ、いや~。何かあったわけじゃないんだけど。あの、ちょっと聞きたいことがあって。えーと、伊久磨くんって、いつもこのくらいの時間に仕事終わっているの?
声が。
まだ何度も会ったことがないひとなのに、声を聞くだけでものすごく安心する。
「仕事は、そうですね、大体は。シェフと夕食がてら飲んでいることもありますけど。今日は……、新しいシェフが」
――新しいシェフ? 海の星、ひとを増やすの?
「いえ、助っ人といいますか。岩清水シェフの知り合いの方が来てくださって。今日は、オープン以来の危機というか。昨日、シェフとパティシエの若いのが揃って飲み過ぎたらしくて、使い物にならなくて。もう店開けられないと思っていたら、西條さんっていう方がキッチンに入ってくれてなんとか。ほんと、今日こそはだめかと思ったんですけど」
つい先ほどまで、喉がつかえたようにうまく喋れなかったのに、考える前に言葉が出て来る。
話せる。
一度声を失った自分は、まずそこからだったのだと不意に思い出す。
(高望みするところだった。焦るな)
自分とあまり年齢が変わらないのに、たしかな技量のひとを見ると、どうしても比べてしまう。
――そっか、昨日みんなで集まっているって言ってたもんね。伊久磨くんは大丈夫だったの?
「あの……、実は椿邸で飲んでいたので香織もいたんですけど。様子が変というか。彼女とうまく行っていないらしくて、なぜか一番若いパティシエにすげー説教されてました。俺は途中で帰りましたけど、香織も飲み過ぎたみたいです。あんまりないんですけど、そういうこと」
――香織の彼女さんか……。この間あたしが聞いたときは、誤魔化されたんだけど。今度帰ったとき、そこちゃんと聞いてみないとね……。
静香の声が暗くなる。
同時に、伊久磨の脳裏に二人が寄り添っていた光景がフラッシュバックする。
まだ、解決したとは言い難い。
兄妹だから。「付き合ったり結婚することはこの先絶対ない」としても。
触れ合ったり、肉体的に結ばれる可能性を否定することはできなくて。
想像しただけで、ぎりぎりと胸が痛む。
自分よりずっと近い仲のふたりに対して覚える感情は。
(……嫉妬だよな。これは)
たとえ肉親なのだとしても、香織が静香に触れるのは嫌なのだ。
言えない。
――伊久磨くん……。伊久磨くんともきちんと話したい。まだお互いに知らないことが多いよね。この間は時間無かったけど、今度はたくさん話そうね。
痛む胸を持て余しながら、伊久磨は静香に見えないと知りながらも微笑んだ。
「はい。静香のことを知りたいです」
少し離れた位置に立ち、通りをときどき過ぎていく車をぼんやりと見上げていた聖は、ひらりと舞った雪につられたように暗い夜空を見上げた。
軽い粉雪が、ハラハラと舞い降りる。
頬に、鼻に、唇に冷たい雪を受けながら、聖は自分のスマホをポケットから取り出して空にかざした。
青い瞳でまっすぐに天上を見上げて、囁くように言う。
「俺もたまに電話が欲しい。そっちの天気はどう? 雪降ってる?」