優しい味
(あ、美味しい)
さつま芋入りのきび粥。ひとさじすくって食べて、甘さがじわっと身体に沁みる。
シェフとパティシエが引き続き使い物にならなかったので、まかないは聖が作った。
「悪夢みたいな店だ。やめるなら次の就職先探してやる。蜷川の動きは悪くないが、もったいない。独学には限界がある。研修は行っているのか。あ、二日酔いのゾンビに合わせて病人食みたいなので悪かったな。足りなかったら言えよ」
粥の他には、蒸した鯛にねぎとピリ辛のしょうゆタレをかけたもの。箸をつけてみたが、味は抜群に良い。
客席で向かい合って座り、矢継ぎ早に喋る聖に伊久磨はなんと返そうか考えながら、とりあえず食事の感想を伝えた。
「薬膳みたいですね。胃に優しそうだし、身体があたたまる」
「そうだ、よくわかったな。補益・助陽・散寒・解毒・清熱……あいつらボロボロすぎるだろ。あそこまで無茶な飲み方する奴じゃないと思うんだけどな」
心愛は先に休憩をとって、キッチンでディナーのスタンバイに入っている。
ボロボロの二人は事務室にまかないを運んでおいたので、今頃同じものを食べているはずだ。
「西條シェフは、どうしてこちらへ? この時期に旅行ですか」
朝のスタンバイから、ランチタイムの動きを見ていても、かなりできる人間だということはわかった。普段の由春と比べてまったく見劣りがしない。
初めてのキッチンで、火器の火力や器具の配置など、不慣れな状況であったことも考えれば、万全のパフォーマンスならば相当だろう。
寝ていると言っていた幸尚まで、結局事務室との境目にもたれかかって見学していた。
(わかる。見飽きない)
由春は動きのすべてに華があるが、聖はとにかく、淀みなく流れる水のようだ。
静謐。
それでいて、格別の存在感がある。
侵し難く、遠い横顔。だが、話し始めると気負った様子のない普通の青年だ。
「写真展の準備があるんだ。知り合いの写真家が、北から南下してきて個展を開いている。全国何か所か回る予定で。俺も帰国したばかりで手が空いていたから、事務方みたいにスタッフに入っているんだけど、たまたまここには由春もいたから。長めに滞在の予定で」
(シェフが写真展のスタッフ?)
よくわからない、という表情をしてしまったせいか、聖はさらに言い募った。
「まだ勤め先を定めていない。どこで働くかも決めていないんだ。東京か北海道かもね。ああ、俺、出身が北海道なんだ。札幌。しばらくふらふらするつもりだったんだけど、写真展のことがあったから由春に連絡したら、すぐに来いって。で、昨日になってまた突然電話がきて、長期滞在するならちょうどいい知り合いの家があるから、年末年始はそこでって。ホテルとっているから別にいいって言ったんだけど……」
そこで話を区切ってから、聖は椅子の背もたれに背を預けて微笑みかけてきた。
「何かわけがあるみたいだ」
長期滞在の、知り合いの家。年末年始。昨日。
並べてみて、結論はひとつ。
「和菓子屋がどうとか、言ってませんでしたか」
「言ってた。広い日本家屋で旅館気分を味わえって」
自分の家でもないくせに、また何を言っているのか。
伊久磨は無言で粥をすくって口に運んだ。鯛も。もくもくと食べてから、顔を上げた。
「西條さんはそれで良いんですか」
名を口にしてから、ふと記憶が刺激される。
偶然、と思いつつも一瞬動きを止めてしまった。
それは表情に何か出たとしても、本当に些細な変化だったはずなのに、聖には面白そうに微笑みかけられた。
「俺の義理の妹がここの大学の獣医学部にいた。その頃、ちょっと海の星でバイトさせてもらったらしいね」
「あ、そうなんですか。いまちょうど思い出したところだったんです。そんなに長い期間じゃないですけど、去年の冬くらいまで西條さんってバイトがいました。たしか、シェフの知り合いの伝手がどうこうって聞いていたんですけど」
(義理の妹……、義理の妹?)
どういう意味だ。血縁じゃないと? という疑問をまたもや読まれてしまう。鋭い。
「死んだ妻の妹だ。俺は妻の苗字を名乗っているから」
反応しそびれた。聖は両手を開いて、くすっと笑う。
「聞かれて困ることは何もない。妻は病死だ。俺が大学を卒業する頃だな。それで、地元に留まる理由もなくなって、海外に出た。何をするか決めていなかったときに由春に会って、巻き込まれて……。もともと料理はすごく好きだったけど、きちんと修行を始めてから年数は経っていない。向こうで運よく名前のあるレストランをいくつか経験できたから、日本に戻って困ることはないと思って帰って来たが」
穏やかな、水の流れのような話し方をする。
(大学卒業してから修行をはじめて、日本でも名前の通っている海外のレストランを経験して……優秀だな)
同じ頃に同じように家族を喪い、ぼんやりしてどこにも行けずに、なんとか就職をした自分とは出来が違い過ぎる。
それにしても、大学卒業時点で結婚していたというのは少し早い気もするが。病死ということは、先が長くないのがわかっていて、決断したのだろうか。わずかの時間でも一緒にいる為に。
しかもそれで相手の苗字を名乗るとは。
死んだ後も確実に縛られる生き方だ。
年齢の頃は伊久磨より少し上、由春と変わらないくらいに見える。死に行く女性に身を捧げるにはあまりにも若い。相手は本当に、そこまで望んでいたんだろうか。
そうは思いつつも、生きる力強さが自分とは圧倒的に違うように感じて、少しだけ眩しい。
「さて、俺も夜の準備があるから。蜷川は休んでいていい。由春の馬鹿は動けるようになるのかな」
言うだけ言うと、さっさと自分の食事を進めて席を立って行く。
目の前から聖がいなくなった瞬間、どっと力が抜けた。
気付かないうちに、ひどく緊張していたらしい。
(あの若さで、あの貫禄。経験か……)
有耶無耶になってしまったが、聖は言っていたのだ。
独学には限界がある、どこか他の店に就職する気はないのか、と。
限界……。
冷め始めた粥を、急いでかきこんだ。