壁ドン(バイオレンス)
煉瓦色のコートを身に着け、艶やかな黒髪を束ねて肩に流している。髪が長い。
背は由春くらいだろうか。顔が小さいせいもあってか、均整の取れた体躯と姿勢の良さが知れる。
いやに整った横顔だなと思ったところで、ちらりと視線を向けられた。
切れ長で涼しい目元。瞳が青い。本物かコンタクトかわからないが、澄んだ青をしている。
「こんにちは」「Hello」
伊久磨が声をかけたのと、相手から声をかけられたのは同時だった。
唇に笑みが浮かんでいる。
(英語対応?)
お店はまだ開いてません、と伝えるべきなのだろうか。一瞬黙り込んでしまってから、すぐに続けた。
「I'm afraid we are just getting prepared. So ……」
「準備ほんとにできてるのか」
(くっそ。日本語だ)
普段ほとんど使うことのない英語を思い切って口にしたのにこの返答。
相手に意味が通じているのがまた、追い打ちのように恥ずかしい。
めげそうになった伊久磨に畳みかけるように、その男は面白そうに目を炯々と光らせて言った。
「キッチンで由春死んでない?」
「シェフのお知り合いですか」
男は、コートの角型のトグルボタンに手をかけ、上から外しながら、軽い調子で頷いた。
「そう。呼ばれた。こっちに来るとは言っていたんだけど、予定が早まって昨日着いた。夜に電話が来て、てっきり店に食べに来いって言うのかと思ったら『朝から来い』って。もしかしてと思うんだけど、俺をアテにしてるのかな」
アテにしてと聞いて閃くものがあり、伊久磨はすかさず確認する。
「料理人の方ですか」
「由春とはドイツとフランスで一緒だった」
「スタッフの蜷川です。お名前をお伺いしたいのですが」
「西條。西條聖だ」
コートを脱いだ聖は、黒のセーターにブラックデニムの飾り気ない姿であったが、もはや後光が差して見える。
握手を求めたい気持ちで、伊久磨は真剣に目を見て告げた。
「西篠シェフ。お待ちしておりました。キッチンへどうぞ」
正直誰だかよくわかっていなかったが、今はこれ以外の解決方法がないのは明らかだった。
* * *
「この店いつ潰れるんだ。客なんか入ってないだろ。腕が落ちたなんてもんじゃない。由春、俺と友達みたいな顔しないでくれ。寄るな」
ナヴァランを一口食べた聖の反応である。
ううう、うぉ、うぇぇ、とひたすらゾンビのような呻き声を上げていた由春は、長台詞が言えないのか、一言「愛している」としみじみと聖に向かって言った。
「Pardon?」
恐ろしく歯切れよく、聖はにこやかに返した。
由春は気持ち悪そうに両手で額をおさえて、声を絞り出す。
「聖が来るっていうから、ほら、思わず同情して手を貸したくなるような危機的状況をだな」
「こんな腐れ三流店になんか関わりたくない。酒臭いなお前。どっか消えろよ。ほんと邪魔。生きているだけで邪魔。お客様と従業員に申し訳たたないと思わないのか。いやありえない。最低」
腐れ三流店って言われた……とは思いつつも、遠慮容赦なく由春を攻め立てる様にはうっすら感動を覚えてしまっていた。
(すごいな。技量的に拮抗していたり、自分に自信があるとあそこまで言えるんだ)
正直今日の由春はいつもの由春ではないので、「生きているだけで邪魔」と生存まで否定しないで上げて欲しいなとは思うもののの。
今日来店するすべてのお客様に申し訳が立たない状態とあっては、言われても仕方ない。
(仕方ないのか?)
「そうする。寝てていいなら寝てる。あと頼む」
けだるげに言って、由春はふらりと歩き出した。
途端、聖に胸倉掴まれて、すぐそばの背丈よりも大きい冷蔵庫の扉にガタンと押し付けられていた。
(あ、壁ドン)
イケメンはやることが違う、と感心する中、聖の陰々滅々とした低音が響いた。
「間に受けるな馬鹿。椅子でも持って来て座ってろ。ここお前の店だろうが。しっかり見とけ。どうしても寝たいなら目玉だけ置いておけよ。いまから俺がくりぬいてやる」
ぐつぐつぐつぐつ、と火にかけられた鍋から良い音がして、湯気が立ち上っていた。
誰も何も言わない中、聖が振り返る。
表情が、挨拶を交わしたときとは明らかに違う。触れたら切れるとはかくやという鋭さで、さして張り上げてもいないのによく通る声で言った。
「包丁は持ってきていない。どれ使えばいいんだ」
本当に目玉をくりぬくのかな、と伊久磨は経過を見守ってしまった。
一方、ようやく胸倉から手を外された由春は、胸元に手を当て、よれたコックコートを整えつつ調理台に向かう。
「その辺の。予備はたくさんある。聖、ナヴァラン無理そうだからスープ頼む。材料はなんでもいい。俺は今日味付け無理だから鶏モモ肉の悪魔風の仕込み……。あ、サラダのドレッシングも無理だ。聖が」
悪びれなく指示を出す由春の隣に立ちつつ、聖は溜息をついた。
「俺はお前のいまの味を知らない。この店の料理として出していいのか」
「味はあいつに。盛り付けとか仕上げは俺が」
由春がちらりと伊久磨に視線を投げる。同時に、聖も顔を上げて目を向けてきた。
青い目。きらりと光ったように見えた。
「で、幸尚もダウンなんだけど。佐々木、昼のデザート代われ。伊久磨は今日の予約数ならホールひとりで大丈夫だろ」
伊久磨同様、あっけにとられたように聖を見ていた心愛だが、何も言い返すことなく「はい」と返事をする。
由春は幸尚に向かって「どうする」と声かけた。
青白いを通り越し、むしろ青黒い顔をしていた幸尚だったが、何やら凄絶な笑みを浮かべて言った。
「たまに有休使うのもいいかなって思ったんですけど。昼間っから家に帰る気にはならないんですよね。実力派シェフの仕事見たいんで、金払ってランチしていこうかな」
わかったわかった、というように由春ががくがくと頷いた。
「事務所で寝てろ。あとでなんか食わせる。聖が」
裏口近くの手洗い場できっちりと手を洗った聖は、由春を振り返り「コックコートの予備は」と声をかける。答えようとして、吐き気がこみあげてきたのか横を向いてしまった由春。
早々に見切りをつけたように、聖は伊久磨に目を向けた。
西條のコートを腕にかけて待機していた伊久磨は、心得ていたとばかりに頷いた。
「すぐにご用意します。うちのシェフのですけど……サイズ的には大丈夫そうですね」
「問題ない。一緒に暮らしていた時期もあるけど、こいつはよく間違えて俺の服を着ていた。間違えたのかわざとなのかよくわからなくて、むかついたついでに半殺しにしたこともある」
にこり。
嘘か本当かわからないことを、実に爽やかに言い終えて。
聖は「笑う」ことを唐突に思い出したように、微笑んできた。