椿邸オーバーキルその後
シェフとパティシエが使い物にならない。
「どうしてそういうことになるの……?」
呆然としている佐々木心愛に対し、蜷川伊久磨は釈明の言葉を持たなかった。
とりあえずコックコートを着込み、キッチンに立って、仕込みなど通常業務らしい行動はとっているが、二人とも代わる代わるにふらふらと裏口から出て行く。
「何あれ」
「二日酔いです。吐いてますね」
「えええええ……ええええっ。やだ、想像しちゃった」
目を見開いて見上げてきた心愛に対し「しないほうがいいですよ、もらいゲロします」と伊久磨は眉間に皺を寄せて神妙な顔で答える。
うっ、と呻き声を漏らしながら心愛は両手で口元をおさえた。
「吐くのは仕方ないにしても、ちゃんと雪で隠してきてほしいですよね」
こう。雪をかぶせて、と手で何かを包み隠す仕草をする伊久磨を見ながら、心愛は口をおさえたまま小刻みに首を振る。
「やめて。春先に出てくる。新鮮に冷凍保存されて、春先に出て来るからそれ」
何がとは言えない。
しかし、伊久磨は深く頷いて、なぜか妙に悲しい調子で切々と語り出した。
「ありましたねそういうこと。冬になって見かけなくなった野良猫が雪がとけたら出て来るとか。冬越せなかったんだなって。見ると、結構泣きますよあれ。胸にきます」
明らかに亡骸の話をはじめた。
桜の木の下には死体が、というフィクションめいた何気なさで雪の下のリアル亡骸の話を始めた。
「蜷川くん、また猫だよ。猫の話から離れて。というか、猫って何だったのかな。昨日の」
もはやキッチンの男二人を視界に入れないように背を向けて、心愛が伊久磨に尋ねる。
その心愛と視線を合わせて、伊久磨はふわりと穏やかに笑った。
「昨日の朝見かけた猫が、可愛すぎて、ちょっと」
愛し気に目を細め、唇に甘い笑みを浮かべて。
そこだけ春風が吹いているような。
亡骸から一転して、生きた「猫」の話。
しかし、心愛は特に納得した様子もなく首を傾げる。
「そういう感じとはまたちょっと違う……」
あれは明らかに何か病んでたよね? と言おうか言うまいかの心愛をそのままに、伊久磨はすたすたと歩いて由春の正面に立つ。
「シェフがそこまでひどいの初めて見るんですけど。味わかるんですか」
「全然ダメ。ちょっとお前味見してみろ」
言い訳すらせずに認めて、ぐつぐつと煮えていた子羊のトマト煮込み「ナヴァラン」を軽くレードルでかき混ぜてから小皿によそって差し出してくる。
受け取って、軽くすすって、伊久磨は目を見開いた。
「え……。一鍋これですか。塩加減ひどいですよ。どうにかリカバリーできないんですか」
「塩味全然わからない。無理」
腕を組んで頷く由春。悪びれた様子はない。
(無理? 全然ダメ? 何言ってんだこいつ)
呆れが限界突破しながら、伊久磨は小皿をステンレス台に置いて思わず小言を口にしてしまう。
「きっぱり言えばいいってものじゃないですよ。悪酔いするまで飲むから。仕事があるのはわかっていたじゃないですか。良い年した大人が。それを言えば、香織も……。あんなになったのは初めてなんですけど、仕事」
前夜の光景を思い出して、伊久磨は頭痛を覚えつつ、溜息をついた。
死屍累々。
電話を終えて戻ったら、全員ものすごく飲んでいた。止められる勢いではなかった。とにかく飲んでいた。
――いい大人の飲み方じゃないんだけど。何してんだ?
呆然として言った伊久磨に対し「お前はいいんだお前は」「すっかり笑顔っすね」「いや伊久磨はほんと手が早いよな。知らなかったよ」と三者三様に責められ、話にならなかった。
(香織)
滅茶苦茶あてこすってきているけど兄妹なんだよな? ということは、まださすがに本人には聞けなかった。少なくとも他にひとがいる場面や、飲んでいる状態では。
ただ、朝の静香をめぐるやりとりはひそかに棚上げになったらしく、なぜか幸尚から彼女との関係を説教されていた。
――それ俺も気になっていたんだけど。香織の彼女って実在なんだ?
伊久磨が素朴な疑問を口にしたら場が(主に香織が)大荒れで座布団が飛び交った。全員のテンションがおかしかった。
その後、由春と幸尚に見切りをつけ、伊久磨はさっさと自宅に帰った。静香に写真を送る任務があったので。
さて、翌日仕事の三人はいつまで飲んでどんな状態なのかと出社したら、由春も幸尚も出社はしてきていたものの、端的に、ひどかった。
「椿は水沢が引っ立てていった。それはもう見事なドナドナ。あ~……気持ち悪い」
眼鏡の上から顔をおさえて、由春がごく普通に最低の弱音を吐く。
「いや、意味わからねーし。とにかく、まずはどうにかナヴァランを生き返らせてください!! ランチまでに!! それをお客様にお出ししたらさすがに店の評判落ちます」
最終的に由春を叱りつけてから、幸尚に目を向ける。
(こっちもこっちで死んでいるんだよな……)
あきらかに表情が暗い。
目元など真っ青だ。仕事を上がったあとも、それなりに夜の街で遊んでいるのは知っているが、翌日に影響あるほど飲んだり遅刻したりといったことはなかった幸尚が。
「無理。吐く」
呟きとともに裏口へ足を向け、出て行く。
「昨日、結局みんなで飲んだわけ? それで蜷川くんだけ無事なのは逆になんで?」
飲んだ件はひとまずお目こぼしらしいが、不思議そうに心愛に聞かれる。
(「愛の力」ですかね)
写真送る任務があったので、と真顔で言ってみようかと思ったが、気の毒そうな顔をされるだけの気がして言わなかった。だいたい、自分は愛のない男だと言われているし、静香だって愛が必要なのかどうかは不明だ。邪魔にならない程度に彼氏を続行したい、願いはそれくらいだ。
たとえば、毎晩電話をかけるとか。
(邪魔か。早速邪魔だよな。さすがに嫌われそう)
わりと近々に会う約束もあるのだし、今は我慢しなければと思う。
一昨日再会するまではただの名目上の「彼女」だったのに、自分でも驚くくらいその存在が大きくなってしまって、戸惑いもある。
この思いを静香に知られてしまったら、きっと重すぎていやがられるはずだ。いましばらくは、隠し通さねば。
「今日の営業できるんですかねこれ。ランチ、満席じゃないですけど、もう予約は止めますし新規もとらないほうがいいかな。とはいっても、夜までに復活できるんですか」
予約は入っているし、刻々と時間も過ぎているのに出せる料理がない。
海の星始まって以来の最悪の状況。
夜もまだ席に余裕はあったが、予約サイトは閉じてきた方がいいかもしれない。
そう判断して、伊久磨はキッチンを出てホールに引き返す。エントランスのカウンターに置いてあるパソコンのもとへと向かって歩き出す。
そのとき、予想もしていなかったものが視界に飛び込んできた。
まだオープンしていない店内に、すでに人が入り込んでいた。