雪の降る音(後編)
――猫の話?
聞き返されて、伊久磨は思わず瞑目する。
避けて終われるとは思っていなかったが、調子よく話しているときに出すべき話題ではなかったような気がして。
椿邸の庭。積もった雪を踏み分けて、雪吊りの施された松や、ほとんど雪に埋もれた石灯篭の横を通り過ぎながら、なんとか言葉を探す。
「今朝……」
口にした瞬間、光景がフラッシュバックして、絶句してしまう。
そんな場合ではないと、唾を飲み込む。
「なんと言って良いかわからなくて。その……、入ってはいけない関係に、自分が割り込んでしまったような。もし……」
俺が邪魔なら、そう言ってもらえれば。
そこまで、声に出来なかった。理由はわかる。言いたくなかったから。
――伊久磨くん。あの……、あたしまだ失恋したくないから言い訳したいんだけど、していいかな。というかさせて。ごめんなさい。直接会ったときに言いたいんだけど、そんなこと言ってて事故で死んだり何かあって二度と会えなかったりして、言えなくなるの嫌だから言う。香織とは一度も話し合ったことないし、戸籍も確認したことないけど、あたしと香織って兄妹かもしれないの。
ハラハラと暗い空から粉雪が舞っていた。
髪や頬や肩に音もなく降り積もるのを感じつつ、スマホを耳に当てたまま、伊久磨は歩き続けていた。
返事は、声は、すぐには出なかった。
――香織の母親の話って聞いたことあるかな。無い前提で話すけど、あたしの母親と、香織の母親、同じかもしれないの。たぶん、親世代の事情を知るひとに聞けば誰かしら教えてくれると思う。あたしは結構大きくなるまで耳に入らなかったけど、香織は早いうちに知っていた可能性が高い。信じてくれるかどうかわからないけど……。だから、あたしと香織が付き合ったり結婚することはこの先絶対ない。今はちょっと距離が近いけど、シスコン・ブラコンの最後の時期だって見逃して欲しい。見逃すって変かな……。ごめん、ちょっと違うね、えーと……。
キキーっという耳障りな音がスマホの向こうから聞こえた。うわ、という声も。
「静香。ちゃんと前見て歩いてます?」
――ああうん、ごめん。うわって言っちゃった。いま自転車が追い越して行ったの。
「どこか触られてません?」
――うん、大丈夫。
思わずのようにもれた笑い声が、スマホ越しに耳に届いた。
それだけで、心臓のあたりが締め付けられるような、あたたかくなるような感覚があった。
(兄妹……)
足を止めた。
言葉が、遅れて沁みこんでくる。
自分は家族を喪い、香織もまた何か事情を抱えてひとりであるのは知っていた。
だけど。肉親とよべる存在がいたのかと。
涙腺が刺激されたが、泣いている場合ではないので耐えた。いま涙を流したら、そこから凍り付いてしまう。
「俺の頭が鈍いみたいで、いまの話、すぐには理解できないです。だけど、受け止めたいと思います。話してくださってありがとうございます。……静香、いま無理していませんか。泣いていませんか。大丈夫ですか」
何故そんなことを聞いてしまったのか、わからない。
少しの間沈黙があった。
歩くのをやめたせいで、粉雪が音もなく身体に降り積もっていく。埋もれそうだった。
――嘘って。疑ったり、しない?
声が震えていた。泣いているような声だった。
きちんと歩けているのだろうか、と心配になる。
「疑う根拠が何もない、です。静香は俺に嘘を言う必要が無い」
――あるよ。嫌われたくないから、突拍子もないこと言っているだけかもしれない。
(嫌われたくない?)
好かれていると、信じたくなる。
好かれるようなことは何もしていないのに。まだ、何も。
クリスマスに顔を合わせてさえ、恋人らしいことはできなかった。ただ、助けてもらっただけだ。
「嫌う理由がないです。俺は静香が……。その、また会いたいと言ったのは、『彼氏だから』じゃないです。あ、いまのはなんか違うか。そうですね、もしお付き合いしていなくても、言ったと思います。何かしら、無理やり理由をつけてでも、俺はあなたに会いたいと思っています」
* * *
(俺は静香が、何!? なんでそこでやめるの!? 何言おうとしたの!?)
スマホを握りしめて、問い詰めたいのを堪える。
変なところを触って通話が切れないように、気を付けてスマホを握り直しながら、息を整えて聞いた。
「いまのところ、無理ではない理由で、年末年始実家に帰ろうと思っています。海の星の休業、予約サイトで確認したんだけど、29日からお正月の3日までだよね? 仕事があるからずっとは無理だけど、31日にはそっちに帰省して、4日まで実家にいるつもり。だから、その間会おうと思えば会えるんですけど。あ、いや、会ってもらえないかな!? 会いたいんですけど!!」
頑張った。
これ以上ないくらい頑張った。素直になった。
スマホが沈黙した。
本当に、雪の降る音が聞こえそうなくらい、静まり返った。
「伊久磨くん? 生きてる? 凍死してない?」
――大丈夫です。生きてます。びっくりしただけで。そんな大きな声出して大丈夫ですか。
(うわ~~、余裕そう。ごめんね余裕ない年上で。失恋したくないって言ってるんだけど、たぶん伝わってないよねこれ。ごめんね~~。重いね~~、あたし)
気まずさのせいかやけに早足になっていて、マンションの一階にたどり着いていた。オートロックを解除して、三階の部屋までエレベーターを呼ばずに階段をがんがん駆け上がる。
――家に着きました? 音が変わった気がする。階段?
「そう。待って、いま部屋に入っちゃう」
鍵を開けて部屋に滑り込み、すぐに鍵をかける。
それから、ぱちっと廊下の電気をつけて、その場に座り込んだ。
「部屋に着きました」
――良かった。部屋の中に誰かいない? つけられたりは?
「大丈夫大丈夫。一人暮らし長いから、その辺用心してるし」
部屋の中はどうだろう。そんなこと言われると怖いな、と思わず背後を振り返る。右側に洗濯機とミニキッチン、左側にユニットバス。突き当りの部屋は真っ暗だ。
「部屋の灯りつけるまで電話切らなくてもいい?」
――もちろん。ブーツ脱ぐ間はスマホを置いていても大丈夫です。待ってます。
一緒にいた少しの時間に、装備アイテムを把握されていたらしい。そこまで見ているんだ、と思いながらスマホを置いて急いでブーツを脱ぐ。
スマホを拾い上げて、廊下を進む。厚いのれんをかきわけて、部屋の灯りをつけた。
いつも通りの。各種観葉植物を取り揃えた見慣れた部屋。
「誰もいない。大丈夫」
――どういう部屋なんですか。植物多そう。
「そうだね。いざとなったら販売に回すように。あと、自分でも育ててみて、手入れ方法とか勉強しているのもあるし」
言いながら、その場に座り込む。廊下と部屋の境目に、段差があるのでちょうどいい。
「そういえば、猫の話聞きそびれた。猫ってなに? 猫飼いたいの?」
――そんな気がしたような覚えもありますけど、今はべつに。
要領を得ない。なんだったんだろう、と思っている間に、スマホの向こうで、あ、という声が上がった。
「どうしたの?」
――そういえば今日、よく来るお客様からクリスマスプレゼント頂いたんです。ポケットになんかあるなと思って、入れたの忘れていました。
ほほう。
突然の告白に、妙に臨戦態勢になってしまった。なにしろ、彼がお店のお客様から交際を申し込まれているところを目撃した後なのである。
「伊久磨くんモテるよね。何もらったの?」
(あたしは何も持って行きませんでしたよすみません。ほんとに気が利かない女です)
――モテるって。年配の男性客です。よくランチにひとりでお見えになるんですよ。「君はたまにすごくついていない顔をしているから、厄除けがいいんじゃないかと思って。お守り」って言ってました。厄除けのお守りだと思います。
すました調子で言われて、つい噴き出してしまった。お守り。年配の男性から。
(どんな心配のされ方しているの)
一度笑ってしまったら、しばらく笑いが止まらない。その間、スマホの向こう側では沈黙が続いていた。憮然としているのかもしれないと、ようやく笑いがおさまってから提案した。
「それ、あとで写真で見せて? あたしも厄除けが必要な気がするから、ホーム画面にしておく」
――わかりました。送ります。
即座に返されて、約束が結ばれた。
その後少しだけ話して、電話を切った。いい加減、外を歩き回っている伊久磨が凍死してはいけないと思ったので。
お守りの写真が送られてきたのは、深夜になってからだった。
『厄除けだと聞いていましたし、自分もそのつもりでした。もしかしたらお客様が買うときに間違えてしまったのかもしれません』
言い訳がましい文章が添えられていて。
なんだろうと思って写真を開いていみる。そこには厄除けとは違うお守りが映りこんでいた。
《恋愛成就》
第12話アフターss「Joker」これにて終了です。
いつの間に「アフターss」で定着してきましたが(※させようとしている)、最近はss?みたいな長さに……
いつもブクマや評価ありが……あーっ、ブクマ減ってるー!!って気づいちゃう系零細企業いや書き手ですけど泣いてません。
そんなこと言ってもブクマや評価はもう入れてしまったという方は「感想」という手がありますのでお気軽にどうぞ!!
(※あっ、いや、無理しないでくださいpvも十分な応援になってますありがとうございます!!)
しかし状況が良くなったり悪くなったり忙しいのですけれど、明日どの面下げて出社しよう、なんて考えながら毎日書いてます。
わたしが出社しているわけではないんですけどね(๑˃̵ᴗ˂̵)
お読み頂きありがとうございます。
またお待ちしております。