雪の降る音(中編)
「そもそもの問題として、椿と彼女はどうなっているんだって話だ」
「そもそも俺と岩清水はそんな話をする仲だとは思わないんだけど」
ひとつの炬燵に入って、仲が良くも悪くもない会話をする二人を、幸尚がにこにこと眺めていた。
夕食を済ませていた香織は、食べ物に手を伸ばすことなく、付き合いだと言いながら湯呑に注いだワインを飲んでいる。もっとも、付き合いと言うわりに最初の一杯はほとんど一息に飲み干してしまっていた。
由春が二杯目を注ぐ。
最年少であっても、幸尚は時間外的な意味で、仕事の場を離れた飲み会でかいがいしく動くことはない。好きに食べて飲んでいる。
「さっきの話」
由春はそこで一度切って、香織をちらりと見た。二人だけで交わした会話を思い出させるかのように、一拍間を置いてから続ける。
「もう彼女とは終わりそうってことでいいのか」
はーっと香織が苦笑を浮かべたまま大きなため息をついた。
葡萄柄の京焼のような湯呑をセレクトしているのは、ワインに気を遣っているのか偶然なのか、普段の香織の生活をうかがい知れない海の星の二人には伺いしれない。
少しの間湯呑を両手で抱えて沈黙していたが、香織は「あのね」と口を開いた。
「終わりそうっていうか、はじめ方がわからない感じ。遠距離ってさ、『もともと付き合っていたけど、何かの理由で離れ離れになる』のが普通かなって思うんだけど。今回は、最初から遠距離なのはわかっていて、お互いなんとなく、付き合いたいような、無理だとわかっているような関係というか」
「SNSですか」
幸尚がすかさず言う。香織は小さく唸ってから、自分の中で考えを整理するかのように話し始めた。
「最初は、新幹線で隣り合って座っていて、相手が間違えてここで降りたの。そんなきっかけがなければ会話をしなかったと思うし。だからといってその瞬間に運命を感じたとか、そういうんじゃないんだよね」
「昭和? 昭和の話を始めたのか?」
由春が茶々をいれ、「はいはい」と言いながら香織が湯呑を差し出す。ワインの瓶を持ち上げて由春が注ぐ。
「とりあえず、普段は東京のひと。偶然知り合っただけなんだ。俺も用事で東京に行くことはあるから、そのついでに何回か顔を合わせて。ただ、良い年した大人だし、俺と二人で会うことは問題ないか、確認した。それで、『既婚者でもないし交際している相手もいないから問題ないです』と言われて、『この関係は交際とみなしてもいいんじゃないか』という話になったから、一応彼氏彼女なのかなと」
由春が腕を組んで斜め上を見上げ、考え込む仕草をした。幸尚はのほほんと焼き鳥にかぶりついていた。そのついでに「タレが甘すぎるんですよね」と呟くも、返事をする者はいない。
やがて、躊躇いがちに由春が言った。
「たしかにそれは、始まっているとは言い難い気はする」
「そ。進むきっかけがない。おいそれとこっちに遊びにおいでとも言えない。この距離だから、最初から泊りがけになるのはわかっていて、俺からそれを言うのはなんというか」
「それは相手の性格次第かもしれないが、何か……きっかけだな」
仲が良いのか悪いのか傍目にはよくわからない由春と香織で、珍しくわかり合った空気になる。
経過を見守っていた幸尚が、何気ない調子で口を挟んだ。
「ニナさんとフローリストさんは最初から遠恋ですけどうまくいきそうですよね」
湯呑に口をつけていた香織がむせた。
自分のコップにワインを注いでいた由春は「あ、そういえば」とはじめて思い至ったかのように呟く。
げほげほごほごほと、明らかにどこか変なところにワインが入ったかのように咳込み続けていた香織であったが、呼吸を整えてから幸尚に目を向けた。
「あれはまた別じゃない。静香はこっちに実家があるから、帰ってくる理由も拠点になる場所もあるでしょ。『会いに来て』がいきなり『一緒に夜も過ごそう』というお誘いにはならないわけだし」
口元を手の甲で拭いながら香織が言うも、幸尚には全然納得した様子がない。
「逆に聞きたいんですけど、中高生でもないのに、そのお誘いの何が問題なんですか。付き合うって話がまとまっているなら、そういうの込みでって普通じゃないですか。それは別、って気取っている時点で、お互いべつに男女の関係を進めたいわけじゃないのかなって。本来友達止まりの関係だけど、遠距離で男女だから『交際』を理由にしてみた。だけどしっくりきていない。そういう感じ。香織さん、本当に相手のこと好きですか」
何か言おうとして、言えなかったように香織は苦笑を広げた。
やがて、すべてを諦めたように小さく笑った。
「それを言われると……。俺いつもだよ。『香織は本当は私のこと好きじゃないよね』って言われるの」
待ち構えていたかのように。
幸尚は、まったく手を緩めることもなく、軽い調子で尋ねる。
「本当に好きなのはフローリストなんですか?」
ついには香織は片手で額をおさえて、黙り込んでしまった。
幸尚は自分のコップに注がれていたワインを一口飲んでから、気負った様子もなく続ける。
「ニナさんにとられて良かったんですか? 納得してるんですか?」
由春は声をかけそびれたように幸尚をぼんやりと見ていた。
香織は額をおさえたまま、湯呑の中の赤ワインを見つめつつ掠れた声で言った。
「納得も何も……。静香はそういうんじゃないから」
場の空気を気にした様子もなく、値引きシールの貼られたおにぎりのラップを剥ぎながら、幸尚はさらに言う。
「そういうんじゃないって何ですか。あの人、香織さんの従姉妹か何かですよね。すごく似ているし。親族に反対されているとか? だけど、従姉妹は結婚できますよ?」
両肘を炬燵の天板につき、香織は両手で額から目元をおさえて返事をしなかった。
お前ほんと容赦がねえな、と由春は幸尚に向けて呟く。
「容赦ってなんですか。いま何か、容赦が必要な場面でした? オレ結構わきまえてますよ。店でもハルさんと佐々木さんのこと、あんまり口出ししてないですし。正直、ハルさんあのひとに気を遣い過ぎだと思いますけど、オーナーなんだからやりたいようにやればいいです。ついていけなくなったら、オレは辞めますから」
「幸尚……、それは」
言葉に詰まった由春に対し、幸尚は淡々とした調子を崩さずに告げた。
「あの人はたしかに、パティシエとしての技量もあります。だけど、それはきちんとした場所で修業できたからだと思います。オレも状況が許せば東京に行ったり、海外に行ったりしたい。環境があれば負けるとは思っていません。今まではそれが出来ないできましたけど、最近そういうの結構ムカついているんです。どこかへ行きたい」
投げ出すかのように、最後に一言。抑制された声なのに、まるで叫びのように。
そんな自分に気付いたように、不意に笑み崩れる。
「はいはい、すみません。仕事時間外にマジになっている場合じゃないです。ハルさんも香織さんも飲みましょう。仕方ない、特別サービスとしてたまにはオレがお酌しますんで」
明るく言って、ワインの瓶を手にした。