雪の降る音(前編)
連絡したのに返事が来ないのは、相手の問題。
連絡したいけどしにくいとか、その辺は全部本人の問題。
連絡したくないは、末期。
「仕事中かもしれない」「フリーランスは、仕事内容にもよるけど大体、よほどのとき以外は電話とる」
「電話が好きじゃないって言ってた」「好きじゃなくても持っている以上は使っている」
「迷惑だと思う」「お前が思っているだけだ。今日電話されるのは迷惑だって本人から言われたわけじゃないだろ」
突如として「(※二匹の)猫について語る人」になった蜷川伊久磨の抱える問題について、岩清水由春は容赦しなかった。
スーパーで適当に買って来た総菜や店から持ってきたワインなどを炬燵の上にもそもそ並べていたところで、台所から戻って来た由春がガタガタ言い出したのだ。
「飲む前に電話しろ。絶対電話しろ。お前がフローリストに電話するまで誰も何も飲まないし食べない」
これが、伊久磨には飲ませない食べさせないと言われたら全然痛くもかゆくもなかった。
だが、よりにもよって。
香織はともかく、海の星の面々はランチタイムの後に食事をしているが、いわゆる夜ご飯は営業が終わった後だ。つまり、昼過ぎ以降何も食べていない。
自分が、私用の電話をかけないという理由で、このまま上司と同僚を飲まず食わずにしておくのはいかがなものか。
香織はともかく。
「……………………外で」
衆人環視の中で電話をかける気にならず、立ち上がる。いってらっしゃい、と幸尚に明るく言われた。
「凍死するからコート着ていきなよ」
すかさず香織に声をかけられる。
(そんな長話にはならないと思う)
彼女と自分の間に、何の話題があると。そもそもどういう用件で電話をかけるかも決めかねているのに。
だが、反論して会話に発展するのも億劫で、部屋の隅に畳んで置いていたコートを手にする。
「伊久磨さ、真っ黒じゃん。道路出たら車にはねられて死ぬよ」
居間を出て行こうとしたら、香織に再び言われた。
身に着けるものは、いつもすべて黒ばかりの伊久磨だ。夜道を歩けばもはやただの動く闇。自覚はある。
「庭に。靴もって出る」
「雪積もってるから死なないでね」
「わかった」
返事をしてしまったら、重ねて言われる。
普段通りに会話をしてしまった。
そう思ってから、(いや、普段通りか?)と思い直す。
(凍死。轢死。凍死。俺が死ぬ話しかしてなくないか?)
偶然か何か意味があるのか。
よくわからないな、と思いながら伊久磨はその場を後にした。
伊久磨が完全に外に出て行った音を聞き、由春が「さて、食うか」と悪びれなく幸尚に声をかける。
いささか鋭さの欠けた伊久磨は、もちろんそんな中の様子には思い至らず、ただただ電話をかけて何をどう切り出そうかを考えていた。
結局、外に出てからひと思いに電話をかけてはみたものの、コール音が鳴っている間、何も思いつかなかった。
* * *
蜷川伊久磨
スマホの画面に現れた文字列を見ただけで、心臓がばくばく乱れた鼓動を打ち始めた。
(電話……!? 初めてなんですけど!? 電話!? 電話するんだ!?)
日常的に、業務内容から考えても、彼は電話くらいするだろう。静香だってする。
ただし、二人の間で「電話」というイベントが発生したのは初めてだった。
もはや完全にイベントである。
なお、発生させた要因は、ひとつしか思い浮かばない。最悪の連想が脳裏をかすめる。
別れ話。
それ以外ある? 何かある? という。
(物凄く先延ばしにしたいけど、そういうわけにもいかないし。あと……)
声が聞きたい。
自分でも本当にどうしようもないなと思いつつ、電話をかけてきてくれたことが、やっぱり嬉しい。
ちょうど電車を降りて改札を抜けたところだったので、辺りを見回しつつ思い切って通話にした。
「はい」
――静香? 蜷川です。
(静香って呼んでる……)
これが「齋勝さんですか」だったら、その時点でしゃがみこんでいたかもしれない。
ひとまず、良かった。ものすごく良かった。
もっとも、自分で想定していた以上に電話の声が好きで、主にそちらの理由で膝から力が抜けかけていた。
そんな場合ではないと、足早に駅を出る。
――いま電話大丈夫でしたか。どこ?
「あの、仕事終わって最寄り駅に着いたところ。これからその辺で何か食べて家に帰る」
――家は駅から近いんですか。こんな遅い時間に歩いて大丈夫ですか。
「マンションまでは徒歩十分ちょいかな。遅いときはこんなもんだし、そっちと違って、こっちはこの時間でも駅前なんか結構ひとはいるよ。明るい道通って帰るし、そんな危ない思いをしたことがあるわけでも……あ」
一回だけあったなぁ、というのが頭をかすめて、変なところで言葉を切ってしまった。
――どうしたの? 「あ」ってなんですか。前見て歩いています?
「えっと、そういえば痴漢がね、一回だけあったなと。ちょうどいまくらいの時間かな、マンションにもう少しっていう、住宅街のちょっと暗い道でさ。自転車で追い越していったひとの腕が胸にぶつかって。なんで今のひといきなり腕伸ばしたんだろうって思ったんだけど。怖いような気持ち悪いような……。後から人に言ったら『痴漢でしょ。警察行っていいんだよ』って言われて、あー、そうなんだって思ったら急にぶわって怖くなって」
聞かれたから答えたのに、気付いたら伊久磨は無言になっていた。
「伊久磨くん?」
――聞いてます。食事はこれからで、その辺で食べて帰るって言いました?
「そのつもりだったけど、いいかな。家にも何かあるし。このまま電話で話しながら帰ってもいい?」
話が飛んだなと思いながら、何気なく聞き返す。
――話しながらだと、注意力落ちませんか。それとも、その方が痴漢よけになるならもちろん電話は切らないでください。電話しかできなくてすみません。
謝られた。
(電話しかできなくて?)
信号待ちしていた横断歩道を渡る。まだ人はそれなりに歩いている。その流れに乗りながら、ふっと夜空を見上げる。
この空の下に、彼もいる。
「伊久磨くん、いま外? 寒くない?」
――あれ。どうして外だってわかったんですか。雪が降る音でもしました?
くすっと笑う声が。スマホを通して耳元で。くすぐったくて、じんわりと胸が熱くなる。
「なんとなく、そばにいるような気がして」
電話しかできなくて、と言った彼は、もしかして「そばに行きたい」という気持ちを言葉にのせてくれたんじゃないかと。
(痴漢に遭ったなんて言ったら、そりゃ心配するよね……。うん。あの性格だし。心配させないようにしないといけないのに、つい言っちゃった)
同情をひこうとしたつもりもなかったのに、考える前に話してしまったのだ。
それを言ったら、何を話そうかすら考えていないのに、会話が成立してしまっている。
――たしかに寒いな。少し歩きます。
「そうだ、伊久磨くんはいま帰り? ごはん食べたの?」
――これからですよ。ああ、そうだ、待たせているんだ。いや、待っているかな……食ってそう。
「あ、誰かと一緒なんだ。ごめん、長電話できないんじゃない?」
――誰かといっても、うちのシェフとパティシエです。俺が電話かけるまで飲まず食わずで待っているって言っていたけど、電話が終わるまでとは言われていないので。
よもや彼が女性といるとは思っていなかったが、なんとなくほっとしてしまった。仕事が終わって会社のひとと食事をとるところだと理解した。
それからふと、電話? と気付く。
「電話かけるまでって……。えーとそれは」
何故介入を受けているのだろうか、と疑問を覚えて尋ねてしまう。
少し間を置いてから、伊久磨は妙に神妙な声で告げてきた。
――その……、俺が猫の話ばかりするので。さすがに怒られました。
耳を澄ませてしっかり聞いていたはずなのに、いま何か話が飛んだような気がした。
猫の話?