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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
12 失恋ラプソディ
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失恋するかもしれない

 笑顔で別れを告げて、駅まで走った。

 走っているうちに、どんどん涙が出てきて馬鹿みたいだと思ったけど、涙の止め方なんか知らない。

 冬の冷たく澄んだ空気の中、きらきらと雪に反射する太陽の光が綺麗で、自分だけがひどく汚い。


(感情が滅茶苦茶だ)


 コートの袖で涙を無理やり拭って、駅のみどりの窓口で東京行きの切符を買った。

 幸い、あまり待つことなく乗れた。

 席は二人掛けの通路側。窓際には誰も座っていなかった。次の駅から乗って来るのかもしれない。

 ひとまず一人だ、と思ったらまた涙がどっと出て来た。

 必死に口をおさえても、ときどき嗚咽が漏れてしまう。うっ、うっ、と。両手で口を塞いで、俯く。だらだらと涙が出続けている。あまりに痛くて、目を瞑った。


 自分がきらい。


 運が悪いとか、間が悪いなんて言い訳だ。結局、ぜんぶ自分が悪い。

 伊久磨の表情を、見ることができなかった。どう思われたかなんて考えたくもない。

 考えなくてもわかる。

(好きになりかけていたのに)

 ほら。傷つきたくなくて、すぐに自分自身すら誤魔化そうとする。


 好きになりかけていた、どころじゃない。好きだった。好きだ。好きでいて良いなら、いまも好きだ。

 だけど、言い訳できなかった。追いかけることもできなかった。自分の中でも整理がついていないもので、納得してもらうことなど、できるわけがないと。

 諦めた。

 話し合うこと。自分をわかってもらうこと。納得させること、ぜんぶ。


 彼を好きなのに。もしそれが香織を裏切ることになるとしたら、手を伸ばすこともなく諦めるしかないと、あの瞬間本気で思った。

 香織には「諦めろ」なんて言われていない。むしろ背中を押された。

 それなのに、もう何もかも信用しきれない。


 香織は本気だったんじゃないだろうか。


 恐怖は本物だった。おそらく、あのとき受け答えや呼吸のタイミングひとつ違えば、全然展開が違ったのではという疑念が消えない。

(香織が怖かった)

 動転していた。

 その後、「いつものように」「いつも以上に」近寄って様子を見たのは、怖がっているのを悟られないためだったように思う。自分でもよくわからない。何かの防衛反応だったのはほとんど間違いない。

 香織はいつも通りに見えたけど、やっぱりどこか空気が荒んでいた。

 二度目のキスも、本気だったのでは。


 本当にひどいことは未遂に終わり、ひとまず良かったけれど。

 もし身体を奪われかけていたとしても、あのタイミングで伊久磨が来たのなら、助けてもらえた可能性が高い。

 ただし、その場合は何もかもが完全に壊れただろう。

 香織と伊久磨の関係も。


(それはダメ。あたしのせいであの二人が壊れるなんて。香織の気持ちはわからないけど、伊久磨くんはべつにあたしのこと好きじゃない。だけど優しいから、香織を怒るだろうし、許さないかもしれない)

 その最悪を回避する方法は……「合意の上」だったということにすることだ。

 伊久磨は呆れるかもしれないが、香織を卑劣な加害者と糾弾することはないだろう。自分は……


 うっ、とまた涙が溢れ出す。


 いやだ。伊久磨と付き合うと決めたのに、香織と「合意の上」で関係を持ったなんて思われたくない。

 そこで思考がぶつっと途切れる。


 好きなのは伊久磨。彼氏だ。そこまではわかる。

 一方で、香織は自分以上に大切な相手だ。襲われるのは嫌でも、どうしてもとお願いされたら手を取ってしまいそうな気がする。拒む自信がない。

 そして、香織自身の考えは実はまったくわからない。


(香織に彼女がいるときは、香織に近づかない。距離を置く。そのつもりできた。実際、仕事が忙しくてここ数年滅多に帰っていなかったし、存在を意識しないこともできた)

 だけど。

 自分自身があまりに恋愛に疎く生きて来たせいで、考えたこともなかった。

 自分に彼氏ができたときの香織の反応を。

 考えたとしても、すぐ打ち消しただけだろう。香織は自分のことを恋愛対象としては特に好きじゃない、女としては見ていない、なんとも思っていないと。はっきり言われたこともあるし、事実ずっとそうだったのだから。


 まさか、あんなに傷ついた目をして押し倒してくるなど考えもしなかった。

 思い出した瞬間、ぞくりと来て肩を腕で抱いた。

 そのとき、とんとん、と肩を指先で叩かれた。

 切符の確認かな、とコートの袖で涙を拭ったところで、声をかけられる。


「静香。デッキ出るぞ」

 名前。

 聞き覚えのある声。恐る恐る顔を上げる。

 灰色の髪が頬にかかっている。眼鏡もかけていて、表情がよく見えない。そもそも座った位置からでは見上げるほどに背が高い。


和明(かずあき)さん……」

 絞り出すような声で、名を呼んだ。


 * * *


 デッキでは、チェロがケースにおさまって所在なさげに待っていた。


「音大の頃の知り合いが、レストランでピアノを弾いてて。チェロ合わせ。難しい曲はないから、その場で大丈夫って適当言ってて。年末年始は都内でプチリサイタル。どうせ暇だろって。ひでえよ」

 座席に座るとチェロが邪魔だからという理由で、指定席は取っているがなんとなくデッキにいたらしい。

 喫茶「セロ弾きのゴーシュ」の店主・(しきみ)和明。昔馴染みだ。

 いつもながらの、やる気があるのかないのかわからない話ぶりは健在。健在という表現が相応しいかはともかく。


「静香、結構前から見ていたんだけど。ず~っと泣いているからさすがに……。落ち着けそう?」

 チェロを挟んで並んで立つ。樒はドアに背を預け前を見ている。静香は、ドアに額をぶつけるようにして窓の外を見ていた。

「落ち着……きたいんですけど……」

 ぐずっと鼻をすする。「鼻水すげえな」と遠慮なく言われて、ポケットティッシュと紺色のハンカチを渡された。ありがたく受け取って、ティッシュで鼻をかんでから、ハンカチで目をおさえた。


「俺あんまり優しくないから聞くけど、何あったの?」

 聞くのは、優しくないのか。

 変な言い草だなと思った。声をかけてきた時点で十分優しいくせに、そう思われたくないらしい。

 いかにも樒だ。

「興味本位で聞いているって(てい)ですか」

 目元を覆っていたハンカチを外してちらりと視線を向ける。

 背の高い樒の横顔を見て、伊久磨とどちらが高いのだろう、などと考えた。

「なんでもいいけど、面倒くさいだけ」

 樒には、本当に面倒くさそうに言葉少なに答えられる。

 静香は思わずくすりと笑みをこぼした。


「その……、失恋するかもしれないんです。好きなひとができたんですけど……、たぶん。だめにしちゃった」

 声にしたら落ち着くかと思って口にしたのに、全然そんなことはなかった。

 いい加減涸れたと思っていたはずの涙がぶわっと溢れてきて慌ててハンカチでおさえる。


「ふぅん。相手とは話したの?」

 本気でつまらなさそうな、気のない調子ながら先を促される。泣いているのに苦笑が浮かんできて、静香はゆっくりと答えた。

「話すっていうか……。言い訳できないところ見られちゃって。あながち誤解だけでもなくて」

「香織?」

 ノータイムで聞き返されて、否定も肯定もできずに俯いた。それが答えになると知りながら。


「なるほどねぇ。静香は昔から香織には気を遣っていたからね……。あーなるほど。それでサンタマリアの様子が」

「サンタマリア?」

 なんの話だろうと顔を上げて聞いてみたが、顎を手でいじって遠くを見ている樒には答えてもらえなかった。

 その横顔をじっと見る。昔から、と口にする樒は椿の家と静香の因縁をなんとなく知っている節がある。聞いたことはないが。

 だから、思い切って言った。この場限りにしてもらえると踏んで。


「あたしはたぶん、香織からいろんなものを奪って生きてきたんです。……家族とか。家庭とか。香織がすごく欲しかったもの。知らなくて……」

 自分が生まれたおかげで、「なんとか家族の形を維持した」という両親。その関係は、子どもの目から見ても言い知れぬ緊張をはらんでいて、さほど良好ではなかった。自分がいなければ二人は別れていたかもしれない。そして、母親は、香織の元へ行ったのかもしれない。

 香織に直接責められたことはないけれど、その思いはずっと胸にある。自分さえ生まれなければ。

 生きているだけで迷惑をかけてきたのに。

 この上、香織を苦しめることなど何一つしたくない。

 それこそ、いつ、誰が幸せにしてくれるかわからないのだから、自分こそが彼を幸せにしてあげなければ、と。


 ハンカチが涙を吸って重く湿ったころ、それまで黙っていた樒がぼそりと言った。


「俺からするとさ。親の代のこととか。感じる必要がない責任を感じて、関係を無理矢理維持しようとしているのは静香の方じゃないかと思うんだよね。そういうのを同情って言うんじゃないの。少なくとも友情じゃあ、ないんだなあ。ま、俺からすると、ね」


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― 新着の感想 ―
[良い点] ここの静香さんの心理描写が堪りません! ここに至るまでの過程、この第十二話の展開も意外でしたけど、本当に!マヒロさんは上手い!! 最初、とことん真面目なお仕事小説だと思っていましたが、ここ…
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