ひずみ
すごく高級そうな猫が二匹、仲睦まじくじゃれていたので、離れ離れにしたら可哀想な気がするけど「二匹か。二匹は難しいな」って家に連れ帰るのに踏ん切りがつかず、今日も「あ、売れてなくてまだいる」ってショーウィンドウながめて、ホッとしたり切なくなったりするんだけど。
「ある日突然、売れたか、それとも大きくなり過ぎて売り物にならずに下げられたのか、とにかく見えるところからいなくなるんだ。後悔しても遅い。こんなことなら一匹だけでも確保しておけば良かったんじゃないかと思うんだけど、二匹揃って売れたか、下げられたかしたのかと思うと、それはそれで離れ離れにならなくて良かったな……って思うし、できればもちろん揃って買われてすごく大切にしてくれる家の猫になっていたら良いなと思うんだ」
ステンレス台を挟んでこんこんと薄暗い声で話し続ける蜷川伊久磨に耐え切れず、一番最初に真田幸尚がブッチキレた。
「ニナさん!! クソ忙しい日に何言ってんすかわからないんですけど!! この生活していて、一人暮らしの男が猫飼えるわけないでしょう!! 家に長時間閉じ込めている間に冬は凍死、夏は熱中症死の危険がありますし!! なんで猫!?」
じっと見返して伊久磨は、「そうだよな」と言い置きホールに戻っていく。
幸尚は、その後ろ姿を叫んだ勢いのまま見送り、がばっと岩清水由春を振り返る。
顔を逸らして海老のワタを抜いていた。集中しているふりだ。
「ハルさん!! 何をどうすればクリスマスの夜を一晩友人の家で過ごしたひとが、ペットショップの猫の話ばかりする独身男になって出社してくるんですか!!」
「知らねぇ」
即座に返してきたが、勢いがない。
「ペットショップ行ったんじゃないですよね!? 昨日は椿邸ですよね!?」
「椿邸と見せかけて、ペットショップだったのかも」
「開いてねえからあの時間!! そういう、中途半端に話合わせようとするのやめて欲しいんですけど!!」
「よしわかった。真剣に話を合わせるようにする」
「死ねよ!!」
ぎゃーぎゃー言い合っている最中に、ホールで掃除機をかけていた心愛が戻って来た。
ちらり、と視線を向けられて男二人、何事もなかったように作業に戻る。
その様子を、心愛がちらちらと見ていた。エスプレッソメーカーにコーヒー豆を補充したり、予約リストを眺めたりしているが、何度も顔を上げて粛々と下ごしらえをしている二人を見ている。
「ねえ」
やがて、たまりかねたように言った。
「蜷川くん、猫飼いたいのかな」
もくもくと鍋からあがる良い匂いの湯気が空間を漂い、とんとんとんと由春が包丁を振るってまな板を叩く音が響く。
男二人とも返事をしなかった。ややして、幸尚が「ハルさん」と言った。
「俺か? いま俺に言ったのか?」
仕事に集中していて気付かなかったな、というわざとらしい調子で言いつつ由春は顔を上げる。
「どっちでもいいけど」
心愛は薄く笑みを浮かべて由春を見た。
表情が、少し暗い。もちろん営業が始まれば何も感じさせない明るい笑みを浮かべるのだろう。だが、いつも顔を合わせている間柄だと、微細な変化も目に付く。
「佐々木、少し休んでていいぞ。もう準備は終わっているだろうし、座っていろ」
使い終わったまな板を布巾で拭いて、由春が言った。言われた心愛はにこりと笑った。
「この職場、タイムカードがないんですよね。どこかに休憩時間として書きつけておけばいいですか」
時間給なので、休めと言われたら仕事時間外扱いですよね? とすかさず言い返した形だ。
溜息を飲み込んだ表情で、「五分、十分の話だ。事務室下がっていろ」と由春は答える。
ギスギス。軋みを上げる古い床板みたいに。いつか誰かが朽ちた部分を踏み抜いて怪我をする。
「ホールにいます。あ、そうだ。女性用トイレの生理用品が少なくなっていたんですよね。今日のアイドルタイムに買いに出ます。何か他に買うものがあればついでに」
由春は眼鏡の奥でわずかに目を細めて、そっけなく答えた。
「メモを伊久磨に渡しておけばいい。今日の夜の打ち上げもあるし、元から買い物に出る予定だった」
心愛は由春を見ながら、小さく笑った。
「蜷川くん、様子変ですよ。車運転したら事故ります。今日なんか、昨日の雪で道路状況悪いですし」
真顔で、由春は心愛を見つめる。それから、ふう、と堪えきれなかった溜息をついた。
伊久磨の様子が変なのも、道路状況が良くないのも事実だ。
わずかに逡巡してから、「わかった」と頷く。そして続けた。
「調子悪い奴らで、忙しい日の最後に飲んでも明日に影響が出るだけだ。今日の打ち上げは中止な。27日の夜に忘年会兼ねてやろう。28日は昼で終わりだし、その後は俺が時間ない」
「私が飲めないことなら気にしなくても。みんなで楽しく飲めば良いじゃないですか」
すぐに心愛が食いついた。由春は軽く首を振って「佐々木の話はしていない」と言い切った。
それから、鋭い視線を投げかけて、低い声で告げる。
「昨日の件、俺は正直まだ怒っている。お前も謝ったから、これ以上話題にするつもりはないが。だけど佐々木、最近おかしいぞ。自分でもわかっているだろ。仕事に影響が出てお客様に迷惑をかけるようなら家に帰す。家に居場所があるかどうかまでは知らん」
ハッと心愛が息を飲んで由春を睨みつけた。
「そんなこと、ハルさんには言われたくないです」
由春は目を逸らさずに、ほとんど威嚇するかのような凶悪なまなざしで答える。
「言われないような生活をしろ。口だけの奴はいらない。男だろうと女だろうと、行動の伴わない奴が、信用されるとは思うな」
「……『俺に』信用されるような働きをしろ、っていうことですか。わかりました」
「わかっていない。『お客様に』信用される仕事をしろと言っている」
睨み合いを先にやめたのは心愛で、ふっと顔を逸らして背を向けホールに出て行った。
その後ろ姿を見ていた幸尚は、独り言のように冷ややかに呟いた。
「あのひと、いつまでうちの店に置いておくつもりなんですかね、オーナーは」