猫の威嚇
手にしていた茶色の紙袋を炬燵の上に置く。
目を合わせることなく。
それから、顔を上げた。目が合うようで、合わない。何を見ているのかよくわからない。ただ、顔の向きからすると何が視界に収まっているかは一目瞭然である。
誰も何も言わなかった。
伊久磨はくるりと踵を返して背を向け、後ろ手で襖を閉めて出て行った。
微かに、玄関の引き戸を開けて閉める音も聞こえたから、完全に出て行ったのは間違いない。
「……伊久磨無言だったんだけど」
止めていた息を吐き出しながら、香織が言った。
「何か置いて行ったね」
静香は見た通りのことを言った。
炬燵の上に、紙袋。
「あの、近くのパン屋さん。朝の七時から開いているんだ。たぶん、家帰って着替えて、出社ついでに焼き立てパンを買って、朝ご飯として置きに寄ってくれたんじゃないかな~……と……」
焼きたてのパンは、大変美味しいのである。特に、香織はその店のクロワッサンが好きだ。伊久磨はもちろん香織の好みをよく知っている。朝、店頭に並んでいたパンを一通り買ってきてくれたのだろう。
ふらり、と静香が前のめりに畳に手をついて炬燵に這い寄った。
「そうなんだ。すごく良い匂い……食べていい? ていうか実は時間あんまりないから食べるね」
「食べるの!? いいけど!!」
時間がないと聞いて、ひとまず皿を出して飲み物でも用意しよう、と思いながら香織は立ち上がる。
それから、ハッと我に返って紙袋に手をかけている静香を見下ろした。
「ていうか、追わないの!? 伊久磨無言だったけど!?」
見上げてきた静香は、困ったような笑みを浮かべていた。
「仕事あるから、追っている時間はないかなー。新幹線乗らないと」
「……仕事!!!??」
思いっきり聞き返してしまったが、瞬間的に「あ、それは仕方ない」と香織も思ってしまった。静香はフリーランスということもあり、代えはいないだろうし、顧客からの信頼は大事だ。
仕事がなければ生きていけない。仕事の約束は守らなければならない。理解できる。
「たくさん入ってるなぁ。さすが伊久磨くん。香織何食べるの? あたしメロンパンもらうね?」
いやしかし、なぜ静香はこうも平和そうにパンを食べようとしているのか?
納得いかないものを感じて、香織はついついあわあわと炬燵の横に落ちていた自分のスマホを拾い上げて静香に差し出した。
「あの、せめて電話しな。俺のスマホからでもいいから、電話しな!!」
「いいよ!! たぶん伊久磨くんもこれから仕事で時間ないだろうし、電話で説明できる気がしないし。あの……今度会ったときにちゃんと言う」
なぜか苦笑しながら言われた。しかもメロンパン食べ始めた。
呆然と見つめてから、「えっ、えっ」と香織は変な声を出してしまう。一息置いて、ようやくまともに言葉が出た。
「何言ってんの!? ほんと、何言ってんの!? 今度っていつの話だよ!? あいつ完全に誤解して出ていったよ!! 俺と! 静香が! キスしようとしてたって!!」
するつもりなんかなかったのに、と地団太踏みそうになっている香織に対し、静香はメロンパンをほぼ食べ終わりかけながら「ん~」と言った。
「ところがキスはしちゃったんだよね……」
絶句。
たしかに、した。だけどあれは。あれはあれで意味があったし、見られたわけでもないし。
心の中で猛烈に言い訳をしている香織の前で、メロンパンを食べ終えた静香は、クロワッサンを手にして言った。
「現に浮気はしたわけだから、下手な言い訳はできないと思うの」
はぐっとクロワッサンを一口で半分ほどかじって、もぐもぐと咀嚼。
(一口でかっ。ていうかよく食うな!?)
この状況でその食欲と勢いはかなり相当健康的だな? というかやけ食いなのかもしかして。
頭の中では感心と疑問が手を繋いでぐるぐる踊っている。
それから「いやいやいやいやいやいやいや」と我に返って騒いでみた。飲み物、と静香に言い返されて、ひとまず何かと台所に向かう。
丁寧にお茶を淹れる気にもならずに、ペットボトルの緑茶を持って引き返し、静香に差し出す。
それから、自分の考えをしっかりはっきり述べた。
「浮気はしてないよね!? 事故ってことにしたし事故でいいよもう!! したのも未遂も全部事故だよ、頼むから!! 説明して!! じゃないと伊久磨今晩あたり川に浮いて死んでる!!」
ペットボトルの封をあけ、気持ち良いくらいごくごくと飲んでから、静香は香織に視線を向けて言った。
「川で死んだのは香織のお父さんだよね?」
「いや、川では死んでないんだな~。あくまで肺炎こじらせて病院で死んでたわ。最後の頃なんか『だめ』って周りに言われたけど、俺ずっとベッドで一緒に寝ていたもん。周りがどんなにだめって言ってもうちの親父ってほら、ちょっとネジ飛んでたから『仕方ないなぁ、ふふっ』みたいなとこあったし」
父親の死ぬ間際の思い出を、勢いよく立て板に水の如くまくしたててから、口をつぐむ。
「辛いこと思い出させてごめんね」
静香に片目を瞑って謝られ、ふわぁーっと猫が威嚇するときみたいな変な声が出た。
「死んだ親父のことはどうでもよくて!! 今現在滅茶苦茶辛い現実がね!? 伊久磨が!! あいつ落ち込みやすいから!! ちょ、彼女、どうにかしなよ!! 頼むから!! いまのあいつを助けられるのって彼女しかいないでしょ!!」
何もおかしなことは言っていないし、すべて正しいことしか言っていないはずなのに。
静香は「んー」と言ってから小首を傾げた。
「あたしはいまそこまで伊久磨くんの中で重くないから。大丈夫だよ、仕事しているうちに忘れるよ。あたしと仕事を天秤にかけたら伊久磨くん、確実に仕事を選ぶね」
「それ静香!! いま自分が伊久磨と仕事を天秤にかけて仕事を選んでいるからって、相手もそうだと思わないで!! そういう、自分に都合のいい考えはどうかと思う!!」
叫んで。
叫び損。
結局静香は続けざまに六個パンを食べ、ペットボトルを二本飲み干し、一息ついてから椿邸を出て行った。
(六個かよ……)
パンが八個入っていたら、ひとり四個ずつという発想はあの女にはないのか。ないらしい。
ついでに、伊久磨に対してはどこまでどういうフォローする気があるのかもまっったく不明だった。勘弁してほしい。
嵐が通り過ぎたような椿邸で一人残された香織は、自分のスマホを見つめて溜息をつく。
予感があった。
(絶対……、岩清水から電話くる。まじ勘弁。あいつ声大きいんだって)
伊久磨がおかしいけど昨日は大丈夫だったのか、と事細かに聞かれるに違いない。
シェフは過保護なのだった。