運の悪い男と間の悪い女
誰かに香織を助けて欲しいけど、
誰かになんか願ってはいけないと思った。
不確かすぎるから。「いつ」「誰が」助けてくれるかもわからないなら、待っていられない。
手首をおさえつけていた香織の力が緩んだ。
睨み合っていた瞳から、傷ついた気配が遠のく。消えたわけじゃない。隠しただけ。
凶悪な光はなりをひそめて、いつもの優しく寂しげな微笑みに戻った。
「抵抗しないの?」
声が。
普段通りの香織。
「……しない」
最前までの恐怖で口の中が干上がって、うまく喋れない。だけど、なんとか絞り出す。
「どうして」
抑制のきいた低い声で問われて、静香は香織を見上げて答えた。
「もし香織がどうしてもこういうことしたいなら、受け入れようと思った」
香織は、不意に手をはなすと、乗り上げていた身体をずらして畳の上に座り込んだ。
脱力したように、隣の部屋との境にある襖に背を預ける。
「無理して」
「香織こそ」
起き上がって、だらりと片膝を立てて片脚を伸ばした姿勢でぼさっとしている香織を見つめる。
高校生くらいの頃の、繊細過ぎて壊れそうな美貌とはやや印象が違う。綺麗なのは変わりないが、女性に見間違うようなことはない。年齢を重ねて、どことなく男性らしくなった。
(ひげ……)
昨日から放置しているのか、うっすら伸びている。そういえば伊久磨もだった。
男性と朝を迎えたのが初めてで、何もかもが新鮮だった。さすがに口に出しては言えない。
少し悩んでから、思い切って、香織の横に座ってみた。
肩が軽くぶつかる。
「誰の顔が思い浮かんだ?」
「……伊久磨くん」
聞かれて、答えて、両膝を抱え込んで頭を埋めるように俯く。
「好きなんだ」
「うん」
「俺より?」
やめて、という気持ちを込めて身体を傾けて頭突きした。「痛っ」痛いわけないのに非難がましい声を上げられる。頭突きついでに、頭を肩に寄せたまま、半身を預けて体重をのせた。
「香織と他の人は比べられないよ」
「それ、伊久磨に言ったらあいつすげー拗ねると思うぞ」
笑った。触れ合ったところからぬくもりとともに伝わってくる。
(香織が声をあげて笑っている)
それだけで、ものすごく幸せだ。
「伊久磨くん、拗ねるかな。嫉妬とか、しそうになくない?」
されてみたいなぁ、と思ったのは悟られないように慎重に、軽く言ってみた。いやいや、と言った香織に、腕で頭を軽く押し返された。
「そんなことないと思う。俺が『静香は特別だ』って言ったら、『お前の彼女は絶対に納得しない』って言ってたし。それってきっと逆も言えるよ。静香が俺を特別だって言ったら、あいつ絶対許せないんだと思う」
「そういうものかなあ……」
絶対に許せないとか。
もしそんな反応があり得るとしても、かなり先のような気がする。
「むしろ、速攻で捨てられそう……。『好きなひとがいたなら言ってくれれば良かったのに。時間を浪費させてすみませんでした』とか。ああ、言いそう……すごく言いそう」
前夜の会話をなぞってみて、静香は再び膝に顔を埋めた。「俺と付き合うことで、静香は得るものが何もありません」なんてことを平気で言う男だ。
(逆に聞きたいよ。君は何を得ているんですか、と)
悔しいような悲しいような気持ちに襲われて、とにかく居たたまれない。悔しいのはもちろん、自分だけが好きだからだ。
しかし、隣から香織にこつんと肘打ちされてしまう。
「いや、ない。そんな風に割り切れるわけがない。『静香は俺の彼女では?』とかぐずぐず言う。あいつは結構ぐずぐずした性格だ」
「それはさ……『俺の彼女【役】では?』とか、なんか隠れた一文字があるよ。ぐずぐず言うにしても、『関係を終わらせたいときは速やかに申し出てください』であって『別れたくない』ではないんだなぁ」
力なく笑って横を見上げたら、香織に見つめられていた。
穏やかなまなざし。唇に優し気な微笑を浮かべながら、囁き声で言われた。
「キスしよっか」
「だめ。さっきの一回は事故ってことにして忘れるから」
なんでまた、と思いながら言い返したのに、手を伸ばしてきて頬に触れられた。そのまま、香織の方へ顔を向かされる。
「伊久磨とはしたでしょ?」
「見てたの?」
思わず言い返すと「あ、やっぱり」と言って笑われた。鎌をかけられただけらしい。
「どっちのキスが良かった?」
呆気にとられて見返してから、ごくごく正直に答えた。
「聞かれたから言うけど、伊久磨くん。他の人とはしたくない。香織でも」
香織は笑みを深めて、やけに慈愛に満ち溢れたまなざしをくれて言った。
「答え出てんじゃん。『香織と他の人は比べられないよ』じゃなくて。比べられるし、決まっているし。静香は伊久磨が好きなんでしょ。だったらもう、俺を同列に置くのはやめなよ。……身体もね。同情で俺に与えようとしないで。好きな男にしか許しちゃだめだ」
「うん。それはまあ正しくて……。だけど……」
もし香織を救う方法がそれしかないのだとしたら。自分に出来るのがそれしかなかったら。
言えなくて口をつぐむ。
敏感な香織にはきっと伝わってしまって、呆れたように笑われた。
「やっぱりもう一回キスして、襲っておこうかな」
冗談じゃないぞ、とばかりにぐいっと顎をひかれる。
あ、される。
予想外に動きが早くて、抵抗が間に合わないような気がして、諦めそうになった。
そのとき。
さーっと音がして、廊下からの襖が開いた。
二人で肩を並べて座りながら、今まさに唇を重ねようとした瞬間を。
そこに現れた蜷川伊久磨に、しっかりと目撃されてしまった。