ひとりにしないで(後編)
喪服をきちっと着こなして、茶色の髪を結ばずにおろしたまま背筋を伸ばして歩いてきた香織。
手には、大輪の百合の花束。
まるで幽霊を見るかのように。
椿の……と言って絶句するひとがいる中、悠々と進んできて言ったのだ。
「このたびはご愁傷様でした。お悔やみ申し上げます」
母は、無言で頭を下げた。ほとんど顔も合わせずに、香織と同時に。
顔を上げた香織は、頭を下げたままの母を見なかった。
「花」
手にしていた花束を、突き出すようにして押し付けてくる。
白い花弁から甘い芳香が立ち上った。
「焼香はしていっても良いんですか」
母の方に伏目がちにちらりと視線を投げて、低い声で尋ねる。顔を上げないままの母は「おねがいします」と消え入りそうな声で言った。
華道師範で、現役で教室を開いていた祖母の葬儀は、年齢の割に付き合いが広く、参列者も多かった。
焼香の間、親族は祭壇のそばに立ち、焼香を終えた参列者と少しだけ話したりしていた。香織はその流れに逆流してきた形なので、引き返して焼香の列に加わりに行った。
椿の花のように品のある立ち姿。
色白で秀麗な面差しをしており、瞼を伏せると睫毛が頬に優美な影を落とす。非の打ちどころがないとはかくやという。
顔を上げた母は、唇を閉ざしてじっと見つめていた。
異変が起きたのはそのすぐ後。
客と話していた父が、香織に気付いた。表情を変えて、焼香の参列者の並びに分け入っていく。斎場のパイプ椅子をガタガタと倒しながら。
(お父さん)
何かものすごく悪いことが起きる前触れのように。
百合の花束を手にしたまま走り出そうとした静香の横で、立ち尽くしていたはずの母が先に駆け寄った。
「やめて……!!」
母の悲鳴が響く。
父が香織の胸倉を掴む。殴りはしない。ただ、「なぜ来た」と詰る声が聞こえた。
(香織)
走り寄った母は、父に振り払われた。
背の高い香織は黙って父を見下ろしていた。温度のないまなざしだった。冷ややかですらない。関心が何もない、そういう。
父に対して、ではなく。
この世のすべてに対して。何にも心を動かされることがないのだというように。
(香織……!!)
誰かに香織を助けて欲しいけど、
誰かになんか願ってはいけないと思った。
不確かすぎるから。「いつ」「誰が」助けてくれるかもわからないなら、待っていられない。
(あたしが香織を守らないと。いつも守ってもらってもらっているだけじゃ)
「香織はあたしの友達なんだけど!! 中学からずっと仲良くて……っ」
場が騒然としつつあるのを感じながら声を張り上げて、走り寄る。
顔色の悪かった父の顔から、まさに血の気がひいた。
「静香、やめなさい」
床に座り込んだままだった母が、しわがれた声を上げた。
なんなのこの二人。
多少反抗期だったのは、あるかもしれない。
葬儀の席で揉め事を起こした父、止められなかった母。どちらに対しても軽蔑に限りなく近い感情が湧いた。
相手が香織だったから、余計だ。大切な友人。かけがえのない香織。
香織はぼんやりと愁嘆場を見ていた。
その上で、抑揚のない声で言った。
「父の香助がお世話になったみたいなので、お焼香だけでもと思ったんですが。帰ります」
すべてから興味を失ったように背を向ける。
帰ってしまう。
百合の花束を抱えたまま、ほとんど何も考えずにその背を追った。
「静香!!」
父と母に同時に名を呼ばれる。行くな、という意味とは理解したが、ただただイラついてそちらは絶対に見ようともしなかった。
足を止めさせたのは、肩越しに振り返った香織の一言だった。
「静香、やめな。戻って。俺のことはいいから」
「でも……」
何かがおかしい。うまく言えないのが歯がゆいけど、おかしい。
顔を歪めた静香の前で、香織は不意に淡雪が溶けるような儚い笑みを浮かべた。
そのまなざしは、静香を通り抜け、母に向けられていた。
「お葬式くらいしかお目にかかる機会がありませんね。前回あなたに会ったのは父の葬儀のときだ」
凛然とした声。
立ち上がった母が、目に涙を浮かべて香織を見ていた。
* * * * *
「俺の母親、生きているんだよね」
喫茶「セロ弾きのゴーシュ」で香織にそう打ち明けられた。痣の残る顔に引きつった笑みを浮かべて。
「生きている……?」
何も不思議ではない。香織は自分と同じ年齢だ。静香の両親が健在である以上、香織の実の親だって似たような年齢だと考えられる。少なくとも、平均寿命にだって全然到達していないはずだ。
だけど、どこかで。出産前後に命を落としているのではないかと思っていた。だから、生むには生んだけど、育てられなかった。母方の家庭ではなく、育てられる環境にあった実の父親が引き取った。
(でも、だって、生きているなら……。お父さんが亡くなったこととか、知らないの……?)
これまで一度も母親の話は聞いたことがなかった。定期的に会っている気配もない。
どこかで生きてはいるが、香織を育てる気はまったくない。そういうことだろうか。
「なんで……。生んだだけ? 何しているの?」
「家庭があって、旦那との子どもを育てている」
「……」
言葉もなく、静香は額をおさえた。
――長生きしなかったくせに、やりたいように生きた親父のつけがまわりまわって俺にきて、結構迷惑。死ぬのは仕方ないにしても、もう少しまともな家庭環境を残してほしかった
(香織のお父さん、たしかにちょっと迷惑なひとだ。事情があるひとに手を出したんだ……)
水沢湛に聞いたことがある。香織と、香織の父の見た目は恐ろしく似ているらしい。であれば、若くして亡くなったそのひとは、病弱とはいえ、それはそれで嫋やかな美青年だったことだろう。
「まったく気持ちがわからないわけじゃないけど。子どもが欲しかったんだと思う。俺も子ども欲しいんだよね」
ぼそりと言われて、静香はがばっと顔を上げた。
「香織が!?」
よほど驚いた顔をしていたのか、手を伸ばしてきた香織に前髪を軽く整えられた。それから、おかしそうに言われた。
「べつに、静香との間に欲しいわけじゃない。静香に俺の子どもを産んで欲しいって意味じゃないからね」
「ああああ、うん!? うん、大丈夫!! そこはわかっている!!」
動揺しすぎて、かんだ。焦りはしっかり香織に伝わったようで、くすくす笑われてしまった。
静香との間に欲しいわけじゃない。静香に俺の子どもを産んで欲しいって意味じゃない。
女として見られていないのは知っていたけど、ここまではっきり対象外だと告げられたのはこのときが初めてだった。
思い知らされた。そして決意した。
香織離れしなければ、と。
今の自分は「恋愛」しなくていい香織の優しさに甘えすぎている。だけど、もし「子どもが欲しい」が香織の本音なら、「産んで欲しいわけじゃない」自分の存在は邪魔だ。害悪でしかない。
可及的すみやかに香織を解放して、健やかな恋愛をしてもらおう。
焦りまくった末に、香織離れを決意したことすら、香織には見透かされているかもしれない。
だけど、本気で幸せになって欲しいと思っているから。
いつか香織が恋をして、結婚したいとか家庭を持ちたいということがあったら、全力で応援したい。
できれば、相手が香織と同じ気持ちで子どもが欲しいと思ってくれればいいのだけど。
「しかし、父親があれだったせいか、自分にまともな恋愛ができる気もしないし、『家族』にも半信半疑というのはある。このままずっとひとりなんじゃないだろうか。ひとりは、いやだな」
それはまるで、知らぬ間に思考が独り言としてもれてしまったかのような呟きだった。
(ひとりは)
いやだな。
「それを言ったら、あたしだって負けていないね。まともな恋愛なんかできる気がしない。このままずっとひとりのような気がする。自分が誰かを好きになったり、恋愛するなんて想像もつかない」
「……そう?」
聞き返してきた香織は、なぜか目を輝かせていた。唇には笑みが浮かんでいた。
恋愛の意味で好きだと思ったことはないけど、心の底から好きだと感じる優しい笑み。
いつまでも見ていたい。
「それじゃ、約束する? 俺と静香の両方ともが四十歳まで独身で、なおかつそのとき相手がいなかったら、家族になるって。どう? 老後対策」
「いいかも。あたし孤独死は嫌だから、当然香織があたしより長生きしてね?」
「どうかな。平均寿命は常に女性の方が上じゃなかったっけ」
他愛のない、ついでみたいな会話だったけれど、その約束は以降時折、思い出したように二人の間で話された。
いつか家族になろう。
それはつまり、結婚しよう、という意味だと。
* * * * *
「お葬式くらいしかお目にかかる機会がありませんね。前回あなたに会ったのは父の葬儀のときだ」
――相手は結婚が決まっていたひとで。香織くんを生んで香助さんに託してから、すぐに本来の婚約者と結婚したの。その時の揉め事はちょっと思い出したくないというか、両方の家を傷つけたと思う。……相手のひとは、幸いというか結婚相手の子を妊娠して生んだわ。それでなんとか結婚生活も続いたみたい。わたしが知っているのはそのくらい。
「セロ弾きのゴーシュ」の樒梓に、後からこっそりと言われた。
そのときから、少しだけ予感があったかもしれない。
香織の誕生日は四月で、自分は三月。かなり早産だったとも聞いている。
可能性がないわけじゃない。
(家族になろう)
結婚しよう、とは言わなかったのだ、香織は。それに気づいたのはだいぶ後だったが、あえて訂正しなかった。むしろ「結婚」を強めに言うようにしていた。
戸籍がどうなっているかは見ていない。見る必要はなかったし、自分ではどうしても確認できなかったから。
「申し訳ありません、椿さん」
騒ぎに巻き込んだことか、それとも何か別の意味があるのか、深々と母が頭を下げる。
香織はちらりと見ただけで、踵を返して斎場を出て行った。
もちろん、振り返ることはなかった。
抱えていた百合から、むせ返るほどの甘い匂いが立ち上っている。
お兄ちゃん、と。
この先も、一生呼ぶことはないだろう。
だけど、もしかしたら。
椿香織と自分は兄妹なのかもしれない。
燻っていた疑問がほとんど確信に変わったのは、このときだった。
Things are never quiet as scary when you've got a best friend.=親友がいれば恐れるものはない。
という言葉を、二人に贈ってあげたいような。
過去編、椿香織と齋勝静香の高校生編でした。
次回から本編続きに戻ります。
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