ひとりにしないで(中編)
「それでその怪我なの。よくやるわねえ」
喫茶「セロ弾きのゴーシュ」の店主、樒梓は目を大きく見開いて、しげしげと香織を見ながら言った。
少し白髪が出て来た髪を首の後ろで軽くまとめた、四十歳絡みの女性。白いシャツに藍色のエプロン。女性の平均より背は高く、カウンターの中に立つ姿は、背筋が伸びて姿勢が良い。
「ほんとだよ。黙って殴られてさ。被害届出しちゃえばよかったのに。どんな理由があっても殴っちゃだめだよ。最低だよ、南野さんの父親」
緑色のメロンソーダにアイスクリームと真っ赤なチェリーがのったフロートをストローでかきまぜながら、静香はぶつぶつと呟く。
「最低は最低だけど、興味深かったよ。『父親』ってこういう感じなんだって」
ミルクも砂糖も入れないブラックコーヒーを一口飲んで、香織はおっとりと笑った。騒ぎから数日、顔の腫れはだいぶひいたが、それでもまだ元通りではない。見るたびに悔しくなる。
目を逸らして、ソーダフロートの赤いチェリーを睨みつけて、静香は言った。
「どうかな。あれは父親の中でもかなり最低最悪の部類じゃない? 娘に手を出されて怒っているっていうより、誰か『悪者』を責めて自分はまともだって主張しているみたい。『娘はとんでもないけど、それをとんでもないと思う程度に自分は常識人です。さらに言えば娘だって悪くなくて悪いのは全部この不良です』みたいな。馬鹿みたい」
香織の見た目は、罪を被せやすく見えただろう。茶髪長髪で、ちょっと見ないくらい整った顔立ちをしている。こんな男ならば無造作に女に手を出したりもするだろう、そういう。見た目で決めつけた。
静香にも覚えがある。
中学のときに隣の席の男子に「齋勝は処女じゃねえよな」と、いきなり言われたときの怒りと恐怖。
部活の顧問の教師と、夕方遅くまで話し込んだ日から数日後、廊下で女教師にいきなり呼び止められたこと。「あなたが齋勝さん?」と。なんですか、と聞いても「べつに」と言ってにやにやと笑われただけ。自分が「顧問の愛人」という噂が流れていると知ったのはずいぶん後のことだ。
人目をひく容姿であったために、イメージで勝手なことを言われる。
ほとんど話したことがないバスケ部のエースが、自分のことを好きだと部活中に言ったというだけで、バレー部の女子に囲まれトイレに閉じ込められたときは、誰に何を釈明し、誰を恨めば良いのかと。
持って生まれた顔を傷つけようとは思わなかったが、他人から向けられる視線は穢れのように思っていた。
十代の初めにしてケチがついていた人生が、それほど悪くないと思えるようになったのは、中学で椿香織に出会ってからだ。
香織は、静香を「女」として扱わない。少なくとも、そういった空気になったことがただの一度もない。
それでいて、側にいてくれると、効果が抜群だ。勝手に周りが彼氏と勘違いしてくれる。中学から同じ高校に進んで共に過ごす中、香織も静香もそれを明確に否定しないできた。
香織はモテる。自分のせいで彼女ができないのであれば、非常に申し訳ない。その気持ちはある。
一方で香織に放り出されたら、またしょうもないいざこざに巻き込まれるのかと思うと、手放せない。悪いとはわかっているのに、香織といるのが楽でやめられない。
自分が誰かを好きになる可能性は全然思い浮かばなかったが、香織に彼女が出来たらすぐにでも距離を置こう。それだけは決めていた。
不思議と、自分と香織が結ばれる未来図は見えなかった。ときどき、自分以上に大切に思うし、香織を傷つける人間なんか破滅してしまえばいいとすら思うのに、その感情が「恋愛」の「好き」になることはなかった。何より、香織が一切自分を「女」として扱わないせいかもしれないが。
そんな中、飛び込んできた噂話はまさに寝耳に水。香織がクラスメートの女子を妊娠させたというものだった。
(ありえない)
根拠はない。ただ、無責任に女の子の身体に触れて、妊娠させるなど香織のイメージからかけ離れすぎている。
おかしい、間違えていると関係者を問い詰めているうちに真相は明らかになったが、香織は相手から頼まれた通り「父親」を名乗り、殴られてしまった後だったのだ。
少し、間に合わなかった。
「堕ろさせないでください、って最初に言ったのは悪かったね。育てられるわけないだろ、なんてことしてくれたんだって騒がれちゃって。だけどさ、『育てられるわけがない』はちょっとむかついたんだ。『俺の父親は俺を育てましたけど?』って。ま、結局それがまた悪かったんだけど。高校生で女孕ませた男の息子だなんて、なんかもう『さもありなん』ってやつ?」
のんびりとした調子で言う香織を、梓と静香で言葉もなく見つめてしまう。
「その……、お父さんが亡くなった話は聞いていたけど。お母さんの話は聞いたことなかったな、と」
ややして、静香はぽつりと言った。梓に気がかりそうな目を向けられたが、気付かなかったふりをして顔を逸らして香織だけを見た。
香織の家庭が何やら複雑らしいのは知っていた。特に、父親の死に関わる水沢湛に対しての反発は大きく、普段さほど感情的にならない香織が、ひとが変わったように怒ったりもしているのを見ている。
コーヒーを飲んでいた香織は、カップを置いて、静香に目を向けてきた。
聞いたことを、後悔した。
背筋が冷えて、息が止まった。
威圧されたわけではない。ただ、見たこともないほど、香織の瞳の奥に生々しい傷が見えたのだ。
それを包み隠すように、香織は目を伏せて小さく笑った。
「長生きしなかったくせに、やりたいように生きた親父のつけがまわりまわって俺にきて、結構迷惑。死ぬのは仕方ないにしても、もう少しまともな家庭環境を残してほしかった」
言葉をかけ損ねて、息を止めたまま見ていると、カウンターの中から梓がいなくなった。
席を外した、ということか。
聞こうか聞くまいか悩んで、悩んでいてもはじまらないと、静香は意を決して尋ねた。
「高校生で相手を妊娠させて……、それが香織で、引き取って育てたって……」
顔を上げた香織は、微笑を浮かべていた。
「そう。親父は身体が弱くて、高校は休みがちでなんとか卒業。その後は自宅みたいな店で働けるだけ働くっていう生活だったから、実は子どもを育てやすい環境だったみたい。周りのパートさんもなんだかんだ手を貸していたみたいだし。うちの店、長く勤めているひと多いから。古参のパートさんみんな俺のオムツを替えた話をするんだ……。最悪だろ?」
「うわぁ」
正直な反応をしてしまった。
予想通りのリアクションだったのか、香織は両手を広げて、にやりと笑った。
それから、コーヒーを一口飲んだ。
ちらりと店内を見回す。もともと客は他にいなかったし、梓もどこかに行ってしまった。
静香とは目を合わせない。
飴色の木製椅子の背もたれに背を預け、足を組む。その上で手を組み合わせて片膝を抱える。見間違えでなければ、手が小さく震えている。
(香織?)
カウンターの奥に並んだカップ&ソーサーの棚を見つめながら、静香とは目を合わせずに香織はぽつりと言った。
「俺の母親、生きているんだよね」
震えを抑えつけようとしたのか、組み合わせた手に力を込めたらしく、抱えた片膝がびくりと小さく跳ねた。