ひとりにしないで(前編)
ひとがひとを殴る音をはじめて聞いた。
バキっとか、ゴキャっとか、とにかく生で聞いてはいけない音だった。
(死んじゃう)
助けなければと思うのに、怖くて立ちすくんだ先で、椿香織は揺らぐこともなく立っていた。
殴られているのに。
女性的ですらある繊細な容貌と、すらりとした細身で錯覚しがちだが、香織は成人男性の平均を軽く上回る長身だ。殴りつけてきている相手より背が高く、伏目がちに視線を向けていても見下ろしているかのようだ。
傲慢とか、そういうんじゃない。ただ見ているだけなのだ。自分を殴る相手を。
殴られる理由などないと、真実を明らかにせぬまま。
(香織じゃない。香織は悪くない。香織じゃないのに、どうして。どうして言わないの)
怖くて見ていられない。
目を瞑って俯いた。聞いてはいけない音は何度も耳に届く。何度も何度も。
やめて。
壊れてしまう。香織が、壊されてしまう。あの優しい顔が、綺麗な指が、細くてしなやかで姿勢の良い立ち姿が。滅茶苦茶にされてしまう。
香織。言って。言いなさい。言わないとだめ。自分ではないのだと。その一言で。
あなたは加害者ではなく、被害者でしかないのだと知らせることができる。耐えないで。お願い。
その痛みは不当。
「死んじゃう……やだ……香織……、お願い。ほんとうのことを、言って……香織……」
恐怖にすくんだまま身動きもできないのに、涙が出てきた。
幸いなのは、声も出たこと。
違う。香織は悪くない。
(言える。あたしが言おう。香織が言わないなら、あたしが)
何かが壊れるようなひどい音がした瞬間、顔を上げた。
「香織じゃない!! 香織に罪をかぶせているひとがいます!!」
叫んだ。
大きな声を出したら、身体の中にカッと血が巡る感覚があり、足が前に出た。
走ろう。香織のもとへ。
どんな殴られ方をしたのかわからない、口から血を流している香織を見たら頭が真っ白になって、無我夢中で駆け寄った。
ぶつかる。
受け止めるように腕を回されて、軽く抱き寄せられた。
「罪っていわないでよ」
口の中が切れているのだろうか、話しにくそうに、それでいていつも通りやわらかく笑うような口調で言われた。
「香織じゃないのに。香織じゃないのに!! どうして言わないの!! 香織がそんな目に……」
香織の前にひと一人が身体をねじこんだせいで、殴っていた人物が手を出しかねて動きを止めている。
(もっと早く。こうすべきだった)
必死に香織にしがみつきながら、振り返って、睨みつける。
「警察に行け!! 傷害で有罪になれ!! こんな風に、無関係な香織を傷つけて、この先普通に生きていけると思うな!!」
自分でもびっくりするほど、冷たい声が出た。
(蔑んでいるんだ。死ねばいい。死ねばいい。香織を傷つける人間なんか死ねばいい)
相手は惚けたように立ち尽くしている。四十絡みの男。父親世代。
「静香」
香織から、小声で名を呼ばれた。それ以上の声が出ないような、苦し気な響きだった。
耳にしただけで、涙が溢れてきた。
「馬鹿なんじゃないですか。なんでそんな嘘信じたんですか。嘘に決まっているじゃないですか!! 香織が!! あんたの娘に手なんか出すわけないじゃないですか!! あたし知ってるんですけど、生物の斎藤先生ですよ。浮気で不倫で、生徒に手を出したの!! 強姦とかじゃないです、学校中みんな知っている。だって茜さん本人が言ってました!! 先生としたって、言ってたんだから!!」
自分の中のどこからそんな声が出て来るのか。
怒りが激し過ぎて、止まらない。
身勝手な恋愛の末に、妊娠した同級生。
家族に問い詰められて、相手が教師だと言い出せなくて、まったく無関係な椿香織の名前を出した。
中学の頃から髪を染めて伸ばしていて、家出を繰り返していて、派手で素行不良だから。
(何も知らないで。死ねばいい。こんなバカげたことで香織を不幸にする人間なんか、死ねばいい)
許せない。
「静香、いいんだ」
香織がひそやかな声で言った。振り返って見上げたら、微笑を浮かべていた。いつも通りの。
呆れるほどの優しさで。
「何も良くない……。いいことなんか何もない……」
傷ついた香織の頬に手を伸ばして触れる。
不思議と、植物を育てるのがうまいと言われる手だ。自分ではよくわからないけれど、この手に何か力があると言うのならば。
触れたところから傷が癒えて消えてくれればいいのに。
手に頬を摺り寄せるようにしながら、香織は小声で言った。
「死ぬ前に殺されるより全然良い。俺を父親ってことにできるなら、生むって、南野さんが言っていたから」
微笑に大きな揺らぎはなく。だけどほんのりと諦めが沁み出している。言葉でどう言っても、もうだめだとよくわかっている。そういう類の笑みにゆっくりと変わっていく。
(……あたしが諦めさせた)
黙っていられなかったから。
本当のことをぶちまけたから。
「違うのか」
香織に殴り掛かっていた、同級生の父が力なく言った。声が震えている。唇が震えている。静香の視線の先で、手足までがくがくとさせていた。
拳に血がついているのに気づいた。誰の血か。
(許さない)
「いっそ、生ませてからDNA鑑定でもなんでもすればいいんじゃないですか。香織は無関係ですよ。父親は妻子ある教師です。もう教師続けられないと思いますし、家庭も壊れていると思いますけど。身勝手なことをした人間なんか自滅すればいいのに。あなたは警察に捕まればいい。ゴミみたいなあんたの娘に頼まれて、犠牲を買って出た香織をここまで傷つけて」
死ねばいい。
その一言は、声にはしなかった。だけど発されないだけで、ずっと胸の中にある。
抵抗しない人間を、正義面して踏みにじる奴が許せない。
「わかった、静香。ごめん。俺が悪かった」
香織に、謝られた。
声にひそやかな絶望が滲んでいる。傷つけた。たぶん、この場の誰より自分が傷つけた。香織のやろうとしたことを力ずくで折って、血を流してでも守ろうとしたものを踏みにじった。
誰よりも、自分自身が。
(だけど。間違いだなんて認めてあげない。間違えていたのは香織。いっときの気持ち、自己犠牲で自分を捧げても誰も救われない)
大きく溜息をついて、香織は相手に淡々と話しかけた。
「ごめんなさい。嘘をつきました。ま、嘘をついたというか、聞かれたことに答えなくてミスリードしただけともいうのかな。……子どもは堕ろすんですか」
心が傷つきすぎて、声が平淡になっている。なんでもないように話しているように聞こえるけど、これは無理をしているときの声だ。
ごめん香織。香織の邪魔をしてごめん。
香織の守ろうとしたものを捨てさせてごめん。
「娘はまだ学生だ。とても生み育てることなどできない」
状況が少しずつわかってきたのだろう。それでも、香織に対して振り上げた拳を下ろしきれないように、キツイ口調で男が言った。
その男をじっと見て、香織は不思議なくらい淡く優しい笑みを浮かべた。
「俺の父親は、俺を引き取って育てましたよ。まだ高校生だったらしいですけど。だから、俺もその気になればできる気がするんですよね。里子に出すなら検討してみてください。子どもを育ててみたい」
途中から、明らかに露悪的で挑発を帯びていった声。
堪らずにシャツにすがりついて「やめな、香織」と呼び掛ける。
言われた男の顔が、再び怒りに染まる。噴き出したまま行き場のない怒りの、向ける先を見つけたとばかりに。
また殴られる。今度こそ、純然たる椿香織に対する怒りを持って。
それは回避せねばと、咄嗟に叫んだ。
「警察に電話します!! 被害届を出します!! これ以上殴ったらもっと罪が重くなりますよ!!」
本当は相手の罪なんかどこまでも重くなればいいと思っていた。
破滅してしまえばいいと。
だけどそれ以上に、やっぱり香織にはもう傷ついて欲しくなかった。それがそのときのすべてだった。