ああ、いかに私が叫んだとて
静かに出ていこうとしていたのに、香織を見つけてしまった。居間の炬燵にいた。
(服装が昨日のまま)
珍しい。
香織は生活の乱れを嫌うところがある。夜寝るときはそれなりに楽な格好をするはずだ。さらに言えば、冬場でもそれこそ日の出前の暗い早朝から工場に立っているはず。目にも鮮やかな真っ白な作務衣姿で。髪もきっちり結んで。
朝から、前日の夜と同じ服装で炬燵に入っている姿など、伊久磨の記憶にある限り見たことがない。
「出るけど。どうした? 具合でも悪いのか」
そばに片膝をついて、声をかける。微動だにしなかったので、寝ているのかと思ったが、ちらり、と視線をくれた。ついぞ見たことがない剣呑な光の宿った瞳。
何事かと見返した伊久磨の前で、ゆっくりと香織は笑みを広げた。どこか歪さを感じる笑みだった。
「静香は」
「まだ部屋だ。今日は午後から東京で仕事だって言ってたから、もうすぐ起きて来ると思う」
聞かれたことに答えたが、香織の表情には変化がない。聞こえていないのかと思って、繰り返そうとしたときに、ふっと香織は唇に笑みをのせて言った。
「なんで静香なの?」
傷が。
昨日香織の目の中にあった傷が、いまだ生々しく血を滴らせて伊久磨をとらえていた。
伊久磨は唾を飲み込んで、言葉を探した。口の中が渇いていて、話し始めは声が掠れてしまった。
「同情だと思う」
それ以外にない。
「お前が静香に?」
はっきりと、香織の浮かべた笑みが「冷笑」になった。伊久磨がはじめて見る表情だった。軽口を叩いたり、人が悪そうなことを言うことはあっても、椿香織の本質は繊細な優しさだ。こんな笑いは似合わない。
何かが壊れ始めているのを感じつつも、伊久磨は正確なところを伝えようと言葉を尽くす。
「逆。静香が俺に。彼女はべつに俺を好きじゃない。ただ、同情と自己犠牲で付き合っている。俺が付き合って欲しいと言ったから、断り切れなくて」
香織の顔から、笑みが消えた。
「それ本気で言ってる? 静香だよ。『断り切れない』で付き合っていたら、今頃男に食い荒らされてる。本人もそれがわかっているから、普段は警戒心強いよ。あの見た目だしね。これまで結構怖い目にもあっているみたいだ。俺の言っている意味わかる? 静香、あれで男は苦手なんだ。寄せ付けない」
男は苦手。怖い目にもあっている。
静香の、捉えどころがなかったり、ピアノを聞いて泣いたり、よく食べたり、笑ったり。そういうイメージにはあまりにもそぐわない。
それでいて、わからなくもない。むしろわかりすぎる。
人間離れした、危うい綺麗さ。同情で手を差し伸べてしまう向こう見ずさ。間の悪さで何もかも裏目に出てしまう運の無さ。
目を離したら、どうにかなってしまいそうな、不安定な存在感。
今すぐ引き返して、抱き締めたい。腕の中に閉じ込めて、どこにも行かせたくない。
激しい衝動に耐えながら、伊久磨は声を絞り出した。
「大切にしたいと思っている」
「『彼女はべつに俺を好きじゃない』って何? それなら解放しなよ。それが何より、静香を大切にしている意思表示になるんじゃない?」
言われた意味を考えて、考え抜こうとして、中断した。伊久磨は首を振って言った。
「別れろという意味なら、別れるつもりはない。それは香織が口出すところじゃない」
香織が瞬間的にひどく苛立った気配を感じた。
「口は出すよ。俺が二人を引き合わせたんだ。それで静香が不幸にされるなら責任を感じる。伊久磨が静香の弱みに付け込んで男女の仲を迫るような男だとは思わなかった。静香にはそういうことしちゃだめだ。見ればわかるだろ。静香は特別なんだ」
(言った)
口を閉ざし、はっきりと敵意を持って睨みつけながら耳を傾けていた伊久磨は、香織の最後の一言に溜息を飲み込んだ。代わりに、告げた。
「それ、彼女にも言えるのか。静香じゃなくて、お前の彼女に。絶対に納得しないぞ。まかり間違えば恨まれるのは静香だ。香織だってわかっているだろ、静香のあの間の悪さ。付き合いの短い俺にだってわかるんだ。本人がどうあれ、静香はあの容姿だし、恨みを買いやすい。それをわかった上でお前が静香を『特別』だと言うのなら、それはもう恋愛感情があると認めるようなものだ」
言っているうちに、絶望的な気分になってきた。
静香と香織には自分には立ち入れない絆がある。だけどあくまで友達で、男女を越えた何かだ。そう信じていたのに。
これではまるで。
香織は、静香を。
「恋愛感情はないよ。そういうんじゃない。そうじゃないけど……、どこかで高を括っていたのはあるかもね。静香は誰のものにもならないと思っていた」
話しながら、香織は意志の力で、いつもの表情を取り戻そうとしているように見えた。
伊久磨もまた、自分の中に渦巻く疑念を必死に抑え込もうとした。
椿香織は大恩人で、いま一番伊久磨がその幸せを願っている人物と言っても言い過ぎではない。
まさか自分が、彼の幸せを踏みにじることなどあってはならない。
であるならば。
もし齋勝静香と付き合うことが香織の何かを損なうのであれば、別れなければならないのではないだろうか。
それは受け入れられない。どうしても、いまは考えられない。心が拒否している。
そうであるがゆえに、無理やりに信じようとしたのだ。香織の感情は恋愛感情ではなく、自分は香織を追い詰めてなどいないと。
「静香のことは大切にする。傷つけないようにしたいと思っている。男として」
「大切にする」とか「傷つけない」とか。
先の見えない今の関係で、そんなことを言うのがいかに傲慢なのか。不都合に目を瞑っているだけ。本当はわかっている。早く別れて静香を解放すべきということ。可及的速やかに。
それが無理なこともわかっている。
できない。まだ手を離したくない。
(……もう少しだけ)
葛藤に胸を焦がされながら、伊久磨は肩で大きく息をつく。
香織は、いつものように柔和な笑みを浮かべて、うん、と頷いてから言った。
「わかった。言い過ぎた、ごめん。昨日お風呂にも入らなかったし、一回家に帰るんだろ。急いだ方がいいぞ。引き留めて悪かったな」
* * *
洗面をすませ、着の身着のままとはいえなんとか身支度を整えて、静香はコートを腕に抱えて居間に向かった。
香織は炬燵に入ってぼんやりとしていたが、静香が近づくと気配に気づいて顔を上げた。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。突然来ちゃってごめんね」
「別にいいよ」
くすくす、と香織は品の良い明るい笑い声をたてる。その流れで「座れば」と言われた。
いつも通りの香織にほっとして、静香はコートを置いて炬燵に足を入れた。
穏やかな表情で静香を見ていた香織は、なんでもない調子で口を開く。
「なんで伊久磨なの?」
不意打ち気味であったが、ある程度は予想出来ていた。自分の友人同士が付き合っていると聞いたら、何かしら聞きたくなるだろう。
静香は、少し考えてから、力なく小さく笑った。
「伊久磨くんは、シェフに言われたからあたしと付き合っているだけ。『恋愛しないと仕事にならない』って。それで焦ったみたいで。べつにあたしのことが好きなわけじゃないんだ」
香織の表情がはっきりと強張った。
「岩清水が? なんて言ったの?」
責めるような口調。その反応も予想できていたので、静香は慌てて言い募った。
「その、あたしはね。自分で言うのもなんだけど、間が悪いんだよね。何やっても裏目に出るし。自分では考えて行動しているつもりなんだけど、浅はかっていうのかな。関係ないひと巻き込んだり傷つけたり。昨日も最悪で。もう死にたいくらい嫌な日だったんだけど。……伊久磨くんといたら、自分の人生もそんなに悪くないんじゃないかなって、思ったんだよね」
香織はまだ全然納得していない表情だ。「わかりにくいよね」と笑いつつ、静香は続けた。
「恋愛かどうかはまだ自分でもはっきりわからないんだけど、あたしあのひとのこと、好きみたいなんだ。伊久磨くんって、優しいから。誰にでもね。そこをシェフには『自分がないだけだ』って怒られていたけど。だけど、あれでもし、あたしのこと好きになってくれたら、って。きちんとあたしのこと見てくれたら、すごく大切にしてくれるんじゃないかなって」
「伊久磨が優しいのは間違いないけど……。静香は優しい男がいいの?」
不思議そうに聞かれる。
そんなに変なこと言っているかな、と思いながら静香は軽く首を傾げて答えた。
「ふつうじゃない? あたしさ、男の人から『その見た目で処女のはずがない』とか中学くらいのときから平気で言われててさ。ずっとそういう自分が嫌で……。なんでそうなるんだろうって。男子と話しているだけで女子にも嫌われるし。まあ、香織の家出に付き合ったりなんだりしているうちに、そういうクラスの雰囲気もどうでもよくなったけど。他に誰がいなくても、香織だけは味方だって思っていたから」
古い話を。
もう滅多に思い出さない、セピア色に沈みかけた記憶が不意によみがえって、静香は小さく笑った。
その静香をじっと見つめていた香織は、無言で立ちあがって、静香のすぐそばまで歩み寄り、膝をついた。
「俺じゃだめだったの?」
「え?」
静香の顔に、影が落ちる。
(近い)
これまで「男の人」とも「怖い」とも思ったことがない「味方」の香織が。
表情を消し去って静香を見下ろしていた。
「優しい男が良いなら、俺でよくない?」
「香織は……でも……そういうんじゃない。お互いに、そう言っていたじゃない」
実際に、香織には彼女がいた時期が何度かある。静香のことは女性としては全然眼中になさそうだった。納得していた。
今さら。
何を。
「うん。俺もそう思っていた。静香は特別だったし、誰のものにもならないと思っていたから。ねえ、伊久磨とはしたの?」
「したのって。あの……、まだ全然そういうんじゃないし」
おかしい。逃げないと。頭ではわかっていたのに身体は全然言うことをきかず。
引き寄せられて、唇を奪われていた。
頭が真っ白になりながら、闇雲に香織の身体に腕を突き立て距離を取ろうとする。
一度唇を離した香織は、酷薄そうな笑みを浮かべてにこやかに言った。
「キスしちゃった。静香も俺もお互い相手がいるときにこういうことしたら浮気だよね」
浮気。心臓がぎりっと痛んだ。したくない。そんなこと。
伊久磨を裏切りたくない。たとえ伊久磨が自分を好きではないのだとしても、自分は。
「香織、おかしいって。何しているの。だめだって、離して」
抵抗しているのに、力が強くてびくともしない。
やすやすと畳の上に押し倒されて、のしかかられてしまう。
「香織!!」
叫んだ。
まるで聞こえていないかのように、香織はいつも通りの優しい声音で言った。
「もっと早くこうしておけば良かった。俺のものになってよ、静香。他の男には渡せない。伊久磨でも」
それとも、伊久磨だからダメなのかな、と。
独り言のように続ける香織。
静香はもがきながら必死に声を張り上げて名を呼ぶ。
「香織!! だめ!! やだ!! やめて!!」
――俺と付き合うことで、静香は得るものが何もありません。せめてマイナスにはならないようにしてください
――また会いたいんです。それ以外の意味はありません
――静香。静香……起きて
――よく寝ていたから、起こさないで行こうと思ったけど、起こしてしまった。やっぱり声が聞きたくて
――別れを言うのが辛いので。寝たフリをしてもらって良いですか
――いってきます
たとえあなたがあたしのことを好きではないとしても。
あたしはあなたが好きです。
いつの間にか、好きになっていました。
好きになって欲しいと、願ってしまうほどに。
あなたが好きなんです。
第11話「いかなる天使が聞こうぞ」はこれにて終了です。
香織_:(´ཀ`」 ∠):
すみません、「ビューティフル・ティー・タイム」から入った方には「ヒェッ」という展開になりつつありますが、えーと……
なるべく間をおかずに続きもお届けしたいと思います。
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