夜から朝
お風呂とか良かったの、と布団に並んで座って話していたときに静香に聞かれた。
着替えを持っていなかった静香はともかく、伊久磨も着の身着のままだ。
「たぶん風呂は入ろうと思えば入れたけど、男二人、女一人だから香織も言い出しにくかったんだと。今日はこのまま寝て、明日家でシャワーしてから仕事行きます。静香は」
伊久磨が入浴中に静香と二人きりになるとか、静香に風呂をすすめるとか。香織としてはどちらも微妙だと思ったに違いない。それは静香にもなんとなく伝わったようで、話はすぐに移り変わった。
「あ、うん。あたしも朝はすぐに出ると思う。昼過ぎには東京着いてないと。夜に仕事が入ってるの。クリスマスディスプレイを総入れ替えするお店の現場が」
予定を聞く限り、一緒にいられるのは本当に朝までの数時間だった。しかし、それも睡眠に費やさなければならない。
「寝ますか。お互い明日は仕事です」
名残惜しくても、いつまでも話しているわけにはいかないと、伊久磨から申し出た。
ミスなどしたら、心愛が絶対に許さないだろう。心愛の言い方は悪かったが、不快感は理解できなくもない。せめて仕事で報いて信頼を回復しなければ、何もかも後味の悪い出来事になってしまう。
「うん。お布団、面倒だろうし、そのままでいいよ。あたし服着てるし、そのへんで寝られる。なんだったらコートも着れば完璧」
言うなり、静香は立ちあがって、ハンガーにかけていた白いコートを羽織って戻って来た。見た目の防御力が上がった。
(警戒?)
少しだけ心にダメージを受けた。
「それを言うなら俺も同じです。布団は静香が使ってください。もう一組出してもいいけど……。この家、さすがに香織ひとりでは管理が出来ないので、通いの方に掃除や洗濯を一部お願いしているんです。だから、香織の負担になるわけでもないんですが」
結局、椿邸に厄介になる分には変わりない。
「通いの方って、お手伝いさんってこと?」
「そうとも言うのかな。先代の『おめかけさん』と言われたことがあるそうで、すごく怒ってましたけど。年配の方です」
思い出して、伊久磨は笑みをこぼした。
椿邸で暮らしている間、伊久磨もずいぶんお世話になっている。食事を作り置いてくれるときに一緒に台所に立ったり、洗濯物を干すのを手伝ったりと何かと話す機会はあった。感覚的には祖母に近い。
「なるほど。あたしは香織のこと、全然知らないんだな……」
お手伝いさんまでいるとは、と静香が感心したように呟いた。
そこで会話が途絶えて、場が静まり返ってしまう。
(寝ないと)
布団の上から畳の上に移動しようとしたら、不意に。
がつんと静香が寄りかかってきた。
「一緒に寝るという解決法はどうでしょう」
「ない」
頭の中ではもちろん考えていたが、見透かされたような恐怖に瞬殺却下してしまった。
寄りかかったまま、伊久磨の手に手を重ねて、静香は再び言った。
「もう少し真面目に検討して。二人ともちょっと大きいから、お布団におさまらないかもしれないけど。抱き枕のふりをしてあげる。人間だとは思わないで」
だめだと言い返そうとしたら、重ねた手をぎゅっと握りしめられた。反論は許さないとでもいうように。
(抱き枕のふり、とは)
手を出さないで欲しいと言う意思表示。それでいて、一晩中身体を重ねていても良いと言っているようにも思える。
ひどく長いこと、悩んだ。
体感的には長くても、せいぜい2、3分だったかもしれない。
LED電灯のリモコンを空いた手で掴んだ。
「灯りを消します」
伝えて、リモコンを操作する。ぱっと光が消えて部屋の中が暗闇になった。
重ねられた手を抜いて、そのまま静香の細い身体を抱き寄せる。はっと小さく息を飲んだ気配はあったが、抵抗はなかった。腕の中でじっとしている。
抱き潰しそうなほど華奢で肉付きの薄い身体だ。
「コートは脱がせていい?」
辺りが暗いせいか、声も抑えてしまう。囁くように聞くと「自分で」とやはり掠れたような声が返った。その意思は尊重しようと思ったのに、抱きしめる腕を緩めることができない。身動きできないようで、ひたすら静香はもぞもぞとしている。
伊久磨はくすりと笑い声を立て、わずかに腕の力を抜いた。ほっと息を吐き出した静香が身じろぎした。片腕ずつ脱ごうとしている。
暗がりで手探りではあるが、あたりをつけて、伊久磨はコートとセーターの間に手を滑り込ませた。
「やっぱり俺が脱がします。……それ以上は何もしません」
ひえっという小さな悲鳴を聞きながら、伊久磨は静香を雪の妖精のように見せていた白いコートをはぎとった。そして再び抱き寄せる。
かけがえのないものとして大切にしたい気持ちと同時に、壊してしまいたい凶悪な欲望に襲われた。
歯を食いしばって耐える。絶対に手を出してはならないと。
ほとんど、抱いているのかしがみついているのか自分でもよくわからなくなった頃。
静香の腕が背にまわって、宥めるように撫ぜられた。
それがあまりにも心地よく。
知らぬ間に、眠りに落ちていた。
* * *
スマホのアラームが鳴る寸前に起きた。
ほとんど自動化された動作で、アラームを解除する。
腕の中で、静香は健やかな寝息を立てて寝ていた。
雨戸が開いているのか、廊下に面した襖から朝陽が差し込んでいる。清らかな光の中で、静香の精巧に整った美貌は際立って見えた。
いつまでも見ていたいのに、時間は無情に過ぎていく。
(起こさないように……)
静香にはもう少し時間があるはずだから。
そう思って、腕枕をしていた腕をそうっと抜いて身体を起こす。そのまま去ろうとした。
気持ちを行動が裏切った。
「静香。静香……起きて」
軽く肩をゆすってみる。うん、と甘い呻きをもらしながら静香はうっすらと目を開いた。それから、寝ぼけた様子で見上げてきた。
「朝……?」
「うん。よく寝ていたから、起こさないで行こうと思ったけど、起こしてしまった。やっぱり声が聞きたくて」
自分勝手な理由を告げたが、「いいよ、あたしも」と言いながら静香は身体を起こした。
それから、大きな目で伊久磨を見上げた。
「キスする?」
見つめ返して、伊久磨は小さく笑った。
「したいのわかった?」
うん、と恥ずかしそうに肯いてから静香は目を閉じる。伊久磨は、少し俯き加減になった顎に左手をかけて、上向かせた。
そのまま、薄い桜色の唇に唇を重ねた。空いた右腕で強くその身体をかき抱きながら。
身じろぎして、身体を離すときに、耳元で囁いた。
「別れを言うのが辛いので。寝たフリをしてもらって良いですか」
「何それ」
笑いながらも、静香はばふっと勢いよく布団に倒れ込む。目を瞑っていかにも雑に寝たフリ。
手を伸ばして、髪の毛に指を絡めて軽く撫ぜてから、伊久磨は身体を倒して耳と頬に口付けを落とした。
返事をしたら寝たフリにならないですよ、と釘を刺してから、告げる。
「いってきます」
唇の動きだけで、静香は「行ってらっしゃい」と返していた。