表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
11 いかなる天使が聞こうぞ
71/405

椿邸にて

 勝手知ったる引き戸をからりと開けて、灯りのついた玄関に入り込む。


「遅かったなー……ん!?」

 起きている間はあまりラフな格好をしない香織らしく、ざっくりとしたケーブルニットのアイボリーのセーターにジーンズ姿で出迎えに出てきた。

 肩を過ぎる長い髪は結んでおらず、シルエットは女性めいて見える。しかし、繊細な容貌と細身の体つきでも華奢過ぎない香織は、伊久磨には及ばないにしても180センチ弱ある。古い日本家屋の廊下を歩いてくると、いかにもすらりとした長身の印象だ。


「静香!? どうしたの!?」

 純粋に驚いている。

 静香も「どーもー」と微苦笑を浮かべて挨拶をしていた。

(あ、ほんとだ。まさか来るとは思っていなかったのか)

 伊久磨を命日に一人にしてはいけない、と静香は思い込んでここまで来てしまったらしいのだが、何しろまったくの無計画。夜を一緒に過ごすとはつまり、具体的には伊久磨の部屋に行くのか? という難問は「椿邸で過ごす」という予定があったことで一応の解決はみたものの。

 椿邸に向かう途中「自分も宿を借りるのはいかがなものか」という静香と、なんとなく口裏を合わせることになった次第だ。


「ええと、日帰りでこっちで仕事していたんだけど、帰りそびれちゃって。仕事が押して実家にも連絡してなくて、さすがに今から行ったらびっくりしちゃうかなって。それでえーと……たまたまそこで伊久磨くんと会って」

 割と苦しい言い訳だったが、目を見開いてじっと静香を見つめていた香織は、特にひっかかった様子もなく頷いてみせた。

「そうなんだ。寒かったでしょ? 上がってよ。伊久磨は今日うちに泊まるんだけど、静香もそれでいい?」

「はい。ごめんなさい。よろしくお願いします」

 頭を下げてから、黒のライダースブーツのようなごついブーツを脱いで揃える。

 板張りの床を踏みしめて先を歩いていた香織は、薄暗い電灯の下、肩越しに振り返ってにこりと笑った。


「静香、うちにくるの初めてだよね」

「来たことはあったけど、上がったことはないかな。どっちかっていうと店の方……」

 背中を追いかけて、足に冷たい廊下を進む。のんびりと前に向き直って歩きながら、香織が再び声をかけてきた。

「そうか。そうだね。で、ごはんは食べてるの?」

「うん。それなりに」

「それなり? なんか作ろうか。お腹空いているんじゃないの」

 いつも通りの、おっとりとした優しい話し方だ。


「作るって、香織が? 香織って生活感ないけど、ごはん作るの?」

 静香が驚いたように聞き返す。

 立ち止まった香織が、身体ごと振り返って目を細めて笑った。

「俺和菓子職人なんだけど。一応毎日なんか作っているよ」

「お菓子と料理って違わない?」

 なおも食い下がる静香。


(この二人って、本当に「友達」なんだな)

 会話を聞きながら、伊久磨は妙に感心してしまった。

 昔馴染みとはいえ、一定の距離感があり、家を行き来するほどではない。そうであるだけに、相手についても知らないことは多々あるという感じだ。小説や漫画の幼馴染のように「朝起こしにくる」とか「ベランダ越しに相手の部屋に行く」といった密接な付き合いではなかったらしい。


 そのことに、ホッとしつつも、心の奥底に言い知れぬ不安が広がるのを感じる。

 静香を見たとき。

 香織は、驚きつつもひどく優しいまなざしをしていた。静香の来訪を心の底から歓迎している様子だった。


 * * *


 居間の炬燵を三人で囲んで、少し飲んだ。

 別にいいのに、という静香に香織がおにぎりと作り置きの筑前煮を出して「いいのに……」と言いながら静香の箸は進んでいた。健啖家だ。

 日付が変わる頃「明日も早いんでしょ」と香織が言って、お開きとなる。


「部屋はたくさんあるから。ただ、ごめんね。暖房がなくてさ。なんだったら、伊久磨の部屋使いなよ、あっためてあるから。伊久磨は炬燵で寝れば」

 冗談とも本気ともつかぬ様子で香織がそう言う。実際、半分以上は本気のように見えた。

 寸前まで、伊久磨もそのつもりだった。

 気が変わった理由は、自分でもよくわからない。


「静香と俺は同じ部屋でいいよ。布団の場所はわかっているし、静香の分は俺が出すから」

 椿邸に来てから、静香の名を呼んだのはそれが初めてだった。

 香織は軽く目をみはってはいたものの、特に重く受け止めた気配はない。

「小学生のお泊り会じゃないし、そういうわけにはいかないよ。間違いがあったら困る」

 口調は悪戯っぽく。あくまで軽い。だけど。

(間違い)

 その一言を口にしたとき、香織の表情にわずかに緊張がはしった。微細な変化だったが、頬のあたりが強張ったのを見た。

 昔馴染みの静香を取られることに焦っている。

 気づいてしまった。だから、それを言ったら傷つけるとわかった。

 それでも言わずにはいられなかった。


「間違いはない。恋人同士で普通のことはあるかもしれないけど」

「恋人……」

 表情を作り損ねた香織が、微笑を浮かべたまま言葉を詰まらせる。

 それから、静香に顔を向けて「え?」と言った。

「あ、うん。そう。なんかそういうことになって……なったというか、自分で決めたんだけど」

 どう答えるのかと見守った伊久磨の視線の先で、静香は恥ずかしそうにそれだけ答える。


「えーと……マジで? この間が初対面だよな。伊久磨ってそんなに手が早かったの? ていうか、伊久磨から?」

 いまだに反応を決めかねた様子で半笑いの香織に、伊久磨はややそっけなく告げた。

「そう。俺から」

 一瞬、香織が真顔になった。すぐに打ち消すような笑みを浮かべて、のんびりとした口調で言った。

「そっか。なんかこう、家族のそういう話聞くみたいで微妙なんだけど。岩清水が姉さんの話苦手なのちょっとわかったかも。その……、おめでとう?」

「祝うような話かはわからないが、ありがとう」

 視線が絡む。

 香織のまなざしが、はっきりと傷ついているのを見てしまった。


 * * *


 途中のコンビニで買った歯ブラシと洗顔セットで歯を磨いて顔を洗った静香が、部屋に戻ってきた。


「あたし化粧が上手くなくて。化粧してもしなくても、顔変わらないって言われる。まあ、普段からBBクリーム塗っているだけだし」

 ごちゃごちゃと言い訳をしている静香の顔は、洗顔前と印象がまったく変わらない。素顔がすでに美人らしい。

 それから、一組だけ用意されていた布団とその横に座った伊久磨をなんとなく眺めている。

 伊久磨はスマホの画面を消して、立ったままの静香を見上げた。

「布団……。出そうかと思ったけど、シーツだなんだ洗濯物が増えるな、と。俺は居間に戻ります。炬燵で寝るの嫌いじゃないし」

 

 恋人と言ったはいいものの、静香は同情で付き合っているだけだし、同室というのはやはり悪い気がする。結局炬燵で寝ているのを香織に見つかったらなんだかんだ言われそうな気はするが、それで香織の気が晴れるなら安いものだ。

 そう思って告げたが、静香は困ったような顔になってその場に腰を下ろし、伊久磨と向き合った。


「そう言わないで。その……、寝付くまではあたし起きているから」

「うなされると思ってるんですか」

「かもしれないな、とは」

 正直だ。

 建前を言わない。

 伊久磨の脆い部分、普通の関係性なら躊躇するところに、恐る恐るではあっても近づいてこようとしている。

 青白いLED電灯の下で、気まずそうに目を伏せている静香。

 見ていると、見飽きることがなくて、いつまでも見つめていたくなる。

 そんな自分に気付いて、伊久磨は無理やり話を切り替えた。


「そうだ。これ、新幹線代として受け取ってください。包むものがなくてそのままですみません」

 静香が席を外している間に、財布から出しておいたお金を差し出す。足りて良かった。

「うそ。無理。受け取れないよ」

 大きな目を見開いて、静香がすばやく抗議する。その反応は予想していたので、伊久磨は重ねて言った。


「俺と付き合うことで、静香は得るものが何もありません。せめてマイナスにはならないようにしてください」


 伊久磨の申し出に、静香は固まってしまう。

 それから、時間をかけて、無理やりな笑顔を作った。


「今日のさ……。『男のひとに食べさせてもらう女のひと』とか……あの辺は正直すごいきっつくて。あたしの普段の生活ってそういうんじゃないんだけど。でもあの状況じゃ言われても仕方なくて。あの、あれを言われた後で、そういう『お手当』みたいなのは受け取れない。今日は自分の判断で来たから」

 それは伊久磨もわかるが、引き下がるつもりはない。


「生命保険、あまり手を付けていないんです。必要があって、車を買ったくらいで」

 このくらいの出費は生活に影響がないのだと。

「だめだって。それはあたしが使っていいお金じゃない」

 静香は頑なに首を振る。

 彼女の性格を考えればそう言うだろう。それでも、どうしても受け取ってほしい伊久磨は言葉を探してたどたどしくも気持ちを伝えようとする。


「考え方なんですけど。それ、次の新幹線代と思っていただけませんか。まだ予定聞いてませんでしたけど、年末年始とか。もっと先でもいいです。この先静香がこちらに来ようと思ったタイミングで、躊躇なく来れるように受け取って欲しいんです」

 全然、上手い言い方が思いつかない。

 これでは通じないだろうか、と危ぶみながら、伊久磨は静香の瞳を見つめ、出来る限り正直な言葉を探して重ねて告げた。


「また会いたいんです。それ以外の意味はありません」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 嗚呼…。 いいですね~ 伊久磨さんと静香さんのやり取り。 初々しく、こうして歩み寄って、少しずつでも「恋人」らしくなっていってくれたらいいな。 それにしても、伊久磨さんの大切な日に駆けつけ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ