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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
11 いかなる天使が聞こうぞ
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ミスト

「スマホ忘れちゃって。スマホだから誰かに連絡もできないし。それで、家に着いてから引き返してきたんです。そしたら、前もこんなことあったなぁって。あの時は挨拶もしないですみませんでした。こんばんは、齋勝さん」


 一息に、心愛は言い切った。笑顔だった。


「ああ、あの時はあたしもなんかすみませんでした。お邪魔してます。閉店後にすみません」

 伊久磨と由春の間から、静香も笑顔で言って心愛を見る。

 その静香を見て、心愛はにこり、といっそう笑みを深めた。


「いいえ。オーナー自ら無銭飲食を推奨しているみたいですし、私から言うことは何もありません。明日もまだ忙しいから今日は仕事が終わったらすぐに帰ろうなんて話していたはずなんですけど。息抜きもいいですよね。どうぞごゆっくり」

 刺が。

 心愛は仲間で、静香は部外者だ。

 皆で一丸となって繁忙期を乗り切ろうと言っていた矢先に、無関係な人間を職場に招いて遊んでいるのを見たらイラつくのはわかる。

(だけど静香を店内に引き込んだのは俺だ。静香は外で待つつもりだったのに)

 これはさすがに反論しなければと口を開いた横で、由春が言った。


「佐々木。言い過ぎだぞ。謝れ」

 声に冷気が漂っている。怒っている。いつもとは別種の凄みがあって、伊久磨は口を挟む隙を逃した。

「誰に何をですか」

 心愛はひかなかった。いまだ笑みを浮かべたまま、きつい視線を由春に向けていた。

 自分を抑えようとするかのように、由春は腕を組んで静香の前に立つ。


「本気で言ってんのかそれ。お前、いま相当失礼だったぞ。何イライラしてんのか知らねーけど、俺の店で俺の客にふざけたこと言ってんじゃねーぞ」

 試食の日、由春と心愛の間の話し合いがどんな決着になったのかは聞いていない。そのことを、伊久磨は強く後悔した。二人の間にははっきりと、わだかまりがある。

 それはきっと、ふとした瞬間に爆発するようなもの。

 心愛は由春をいよいよ本気で睨みつけて、斬りつけるように冴え渡った声で言い切った。


「お客さん? 休みの日や閉店後に狙ったように来るひとがですか? ハルさんも蜷川くんも甘いなー。それとも、香織さんの知り合いだからですか? まあいいですけど。好きにしてください。そういう風に男の人に食べさせてもらう女の人、私はあんまり好きじゃないですけど」

 静香の耳をふさいでおくべきだった。

 伊久磨は一歩前に出て、心愛を見つめて言った。


「静香に要求されたわけじゃない。これは俺が」

「いいのよ、蜷川くん。騙された方より騙す方が悪いの。二人が変な女に騙されているからって、私べつに軽蔑しないわ。仕方なかったんじゃないのかな」

 何を言うのかと。

 目の前に静香がいるのに。すべて誤解なのに。どうして、わざわざ絶対傷つく言い方をするのか。

 

「あのですね」

 その場にいなかったはずの幸尚が、声を上げた。

 由春よりも伊久磨よりも心愛よりも早く。

 つまらなさそうな顔をしながら、キッチンから歩いてきつつ続けた。


「何揉めてんのかわかりません。わかりたくもないです。そしてオレはこの場合、佐々木さん寄りです。理由が必要なら言いますけど、オレ、公私混同して店に女連れ込んだことはないんで」

 心愛の横に立って、由春と伊久磨を睨みつけて、低い声ではっきりと言った。


「さすがにむかつくでしょ。気を抜くなって言っている本人が、女と遊んでいたら。しかもそれを指摘したスタッフには、黙れって怒鳴っていたら。最悪だから。アンタ何やってんだよ。馬鹿じゃねえの」

 ゆき。

 止めたい。これはそういう話じゃない。


(俺が。俺の心配をした静香が来てしまっただけで)


 なぜ齋勝静香がそこまで伊久磨を心配したのかを言えば、ひとえに「同情」なのだが。

 その同情を強要したのは伊久磨の交際の申し込みであって。

 由春は察している。静香と伊久磨の間には何かあり、クリスマスだからではなく、家族の命日だからこそ彼女がここにいること。おそらくそこまで気付いている。

 そもそも今日は仕事が終わったら椿邸に行くことも先に言ってある。夜に一人になることを由春も気にしていたのだ。静香が現れたのは誤算だが、由春としては邪険にはできなかっただろう。


 だがそれを言っても、決して誰も納得しないのはわかる。

 結局のところ、伊久磨が自立した一人の男としてあまりに弱く、周りに心配されているというだけのこと。

 そこで、静香が自分の女なのだと言おうものなら、心愛と幸尚はいっそう許さない。

 それをわかっているから、由春は言い訳をしない。伊久磨をかばっている。


「とはいえ、べつにオレ、フローリストに個人的な恨みがあるわけでもないし。営業は明日もあるので。ここらへんで帰ります。佐々木さんも帰りましょう。イライラしてもいいことありませんよ」

 睨み合いは、幸尚の淡々とした言葉に不意に断ち切られた。

 ピンク髪をやめて、地味な好青年風になった幸尚は、思いがけないほど優しい笑みを心愛に向ける。キッチンの方を握りしめた拳に立てた親指で指し示して「帰ろ?」ともう一押し。

 明らかにまだ言い足りない顔をしていた心愛は、噛みつきそうな勢いで幸尚を見上げ、微笑まれ、毒気を抜かれたように動きを止めた。

 やがて、俯いて、深呼吸をする。

 全然伊久磨も由春も見ないで深々と頭を下げた。


「言い過ぎました。申し訳ありません。明日もよろしくお願いします」

 顔を上げて、すぐに背を向ける。一度も目を合わせない。

 苦笑を浮かべた幸尚がちらりと伊久磨と由春に順番に視線をくれた。

 それから、静香と目が合ったのだろう。顔の前で手を立てて、「ごめんね」というように素早く片目を瞑ってから、声を張り上げる。


「お疲れ様でした!」

 そして、心愛のあとを追いかけて去って行った。


 伊久磨は脱力して、大きく息を吐き出した。

(ゆきが知らないわけない)

 伊久磨の事情。

 心愛は詳しくは知らないが、それだけにあの反応は仕方ないと、憎まれ役を買って出たのがわかった。

 場をおさめる為に心愛の肩を持ち、連れ帰ったのだ。

 さすがの器用さ。

 一拍置いてから、伊久磨は静香を見下ろす。


「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまいました。食事、喉を通りますか。できればゆっくりでも食べて欲しいです。食べないとすぐに体力が落ちますよ。アルコールがきついなら、ミルクでも温めます」

 思いがけない暴言にさらされて、繊細な静香であれば凍り付いてしまっているだろうと。

 案の定、顔を強張らせていた静香は「えーと」と言ってから微苦笑を広げた。


「なんだろう。あたしって……、女の敵? そんなに悪女のつもりないんだけど……なんでかな」

「間が悪い大賞なのはたしかです」

 本人が何かしたわけでもないのに、びっくりするくらい周りに影響を与えている。そう思って伊久磨が言うと、静香は力なく笑った。

「なぐさめてる?」

「この上なく。自分より運の悪いひと、初めて見たかもしれません」

 それは嘘ではなく。

 ぎこちない笑みを浮かべたまま伊久磨を見上げた静香の目元で、涙がきらりと光った。

 気づかれたくないらしく、伊久磨が何かを言う前に静香は思いっきり顔を逸らして、ホットサンドを手に取ってかぶりついた。


「せっかくシェフが作ってくれたので、頂きます」

「ああ。食え。悪かったな」

 二人が帰った後をじっと見つめていた由春は、そう言ってから腕を組んだまま手を伸ばして額をおさえた。そんな自分に気付いたように、ばっと両手を開いて「さてと」と声を張り上げる。


「それ食ったら帰れよ。そうだお前、椿はどうするんだ。今日向こうだったんじゃないか」

 家に帰らないで、椿邸に泊まる予定だったろ、と。

 一応の確認をされて、伊久磨は静香に何気なく目を向けてからすぐに由春に向き直った。


「行きますよ。待っているはずなので」

 そういえば、香織はクリスマス、彼女はどうしたのだろう。聞けていない。ただ、命日は昼は仕事としても夜に一人になるなと言われて、椿邸に行くのを約束させられたのだ。

 静香を連れて行っていいものかとは一瞬迷ったが、だめということはないだろう。

 何せ、彼女は香織との付き合いの方が長いのだから。

 ……伊久磨と連絡を取り合っていなかった間も、香織とは連絡をとりあっていたくらいには。


 ――あたしってさ、『男女の友情アリ』なんだけど、中にはそういうの絶対ダメな人もいるじゃない。だから、香織に彼女がいるときはなるべく近づかないようにしているんだ。今なんか、気軽に会おうとは絶対に言えないね。相手に誤解されたくないし


 そういえば以前、静香はそんなことを言っていた。香織に彼女がいるときは。


(自分に彼氏(オトコ)がいるときは、特に気にせず香織と普通に連絡を取るのか)

 責める気なんかない。

 何せ彼女は、香織の昔馴染みだ。ぽっと出の自分より深い絆があっても、口出しするようなところじゃない。

 知らぬ間に、同じことばかり自分に言い聞かせていた。気にするところではない、と。


 静香は悪女なんかじゃない、と。


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― 新着の感想 ―
[良い点] たった今、ここまで一気読みしました。 流石まひさん! この緊迫シーンを実に見事に描写されています!! 私はこういうシーン、ダメなんですよね…。 読むのは慣れてきましたが、自分ではとても書け…
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