グリューワイン
片付けに関してはかなり効率化が進んでいて、伊久磨がキッチンに戻ったときにはほぼ終わりに近づいていた。
予約の取り方は以前とあまり変わらないところに、心愛が加わっているのが大きいだろう。
目途がつくまでとはいえ、あがっていくまでに、片付けと翌日の準備をかなり進めていってくれるのがありがたい。伊久磨の業務に関して言えば、ワイングラスの拭き上げがほぼ終わった状態だ。すっきりした洗い場を見て、ほっと安堵する。
由春と幸尚の様子に目を向けてから、立ち止まっている場合ではないと、伊久磨は由春の元へと歩み寄った。
「グリューワイン作ろうかなと。給料から天引きしてください」
店の材料を私的に使いますという申告に「俺の分も。冷えた」と由春がのんびりと返した。
「あ、いいな。だけどオレ、飲んだら帰り道でぶっ倒れそうだからいいです。アルコールは明日まで」
身を乗り出した幸尚が、笑って口を出す。
幸尚は、髪を黒く染めて以来、ピンクに戻していない。以前とは別人に見える。由春も伊久磨もピンク髪を特に気にしてはいなかったが、ぎょっとする客がいたのも事実であり、鑑みれば「黒髪」はやはり「真面目」な印象にはなるようだ。
「何使います? クローヴとシナモンスティックとローリエあたり? オレンジとレモンもスライスします。あと、砂糖。蜂蜜のほうがいいですか」
てきぱきと材料を出し始めた手元を見て「せっかく片づけたんだし、俺が」と伊久磨が言うも、あっという間に揃えられてしまう。
ぼーっとしているわけにもいかず、伊久磨は栓を抜いた赤ワインと小鍋を用意しながら、意を決して言った。
「ホールにひとりいます」
由春は眼鏡の奥で目をしばたいてから「誰だ」と落ち着いた声で返した。
「フローリスト。何も食べていないみたいで」
ほんの少し間があった。
それから、ふう、と溜息をつかれた。
「あいつ食うからな。合鴨のローストとサーモン……。バゲット焼いてホットサンドにするか。ケーキ何か残ってたかな。幸尚」
二人の会話を不思議そうに見ていた幸尚であったが、水を向けられて「フローリストって、あの?」と聞いてきた。顔には明らかに「なんで??」と書いてある。聞いてこないだけで、由春がそう思っているのも伊久磨とて気付いている。
(「彼女」だから。俺が「危ない日」に会いにきたみたいです)
喉にひっかかって、言えない。
自分自身が半信半疑だからだ。
心配させたくないとかなんとか、そういうもっともらしい理由ではなく、言う必要性を感じなかったので言ってなかった。家族の命日。
それどころか、まったく連絡すら取っていなかった。
その間に、香織とは連絡を取っていて、結果的に今日のことを知って、駆けつけたのだろう。取るもの取らず着の身着のまま。
同情でそこまでできるのが、さすがという気がする。
よくあの年齢まで、悪い人間に騙されたり、ぼろ雑巾にされて骨までしゃぶられたりしないで生き延びたものだと。
何せ、一点の曇りもなく、齋勝静香は綺麗だ。見ている伊久磨の胸が痛むほど。
ひどい自己犠牲を強いていることに、罪悪感が湧き出してくる。
「とりあえず軽く作る。お前もワインはやく」
「はい」
絶対にひっかかっているだろうに、結局由春は何も聞かないでくれた。そこに甘えて、打ち明けるのを先延ばしにした。
* * *
エアコンの風のあたるところにいるように言ったはずなのに、静香は店内の緑を見て歩いていた。
まるでひとりひとりに挨拶するかのように。
背丈ほどもあるポリシャスに顔を近づけ、何か話しかけて、笑っている。
声をかけそびれて伊久磨が見ていると、やがて気付いた静香が、振り返って大きく目を見開いて見てきた。
「いたの」
「気配がなくてすみません。その木は元気ですか」
「ああうん。ポリシャスってたまに線香花火みたいな白い花をつけるんだ。もしかしたら来年あたり見られるかも」
気負った様子もなく答えて近づいてきてから、伊久磨の手に銀のトレーにのせたグリューワインとホットサンドがあるのを見て「ええっ」と声を上げた。
「座ってください。閉店後でたいしたものも用意できなかったんですが。シェフが作ったので」
「す、すごい。じゅうぶんだよ。というか悪いよなんか」
気後れしたように、今にも逃げそうな静香に軽く神経がイラついた。伊久磨は使うつもりだったテーブルにトレーを置いてから、立ち尽くしている静香の元へと大股に戻る。
「ドリンクはグリューワインです。アルコールは大丈夫ですか」
早く座れ、という圧力を正確に受け止めたらしく促す伊久磨についてくる。椅子をひくと、「ありがと」と言いながらようやく座った。
喉がかわいていたのか、大き目のマグカップに注いだ湯気を上げるワインに唇を寄せて、ひとくち。
「甘酸っぱい。すごくあったまる。ワインってことは、これ伊久磨くんが?」
マグカップを持ったまま尋ねられ、どことなく気まずさを抱えたまま伊久磨は頷いた。
「クリスマスプレゼントも何も用意していなくて……。取り急ぎ」
「ん!? あ、そっか。クリスマスってそういうイベントか。ごめん、あたしも物は何もない!!」
「ああ、それでいいです。仕事柄、自分が気の利かない男だと思い知るのは結構ショックなんです。あまり言い訳をしたくないので、このへんで」
ここ数日さんざんクリスマスデートは目の当たりにしている。彼氏が彼女に何をすべきかくらいは、知っているのだ。自分が誰かの彼氏で彼女がいるということを失念していただけで。
「なんかほんと、突然来ちゃってごめんね。あー……さっきの告白とか、邪魔しちゃったけど、大丈夫だった?」
「さっきの?」
聞き返したそのとき、キッチンからコックコートを着崩した由春が姿を見せた。
「よお。腹をすかせたフローリストがいるって聞いていたんだが。それで足りるか」
「シェフ!! ありがとうございます、十分ですよ。ごめんなさい。忙しい日に、片付けの邪魔しちゃってないかな」
立ち上がろうとした静香に、伊久磨と由春が同時に「いいから」と言って座らせたままにする。
それから、由春が伊久磨に目を向けた。
「さっきの告白ってなんだ。雪かき中に石沢さんのお嬢さん見た気がするんだが」
なんだ、と言いながら全部知っている口調だ。
伊久磨は誤魔化すこともないので正直に告げた。
「お付き合いしている相手がいないなら、店の外で会ってほしいと言われました」
「断ったのか」
「断るも何も……。こちらが何か言う前に、静香を見て帰ってしまいました」
事実そのままを告げたのだが、由春の表情が恐ろしく呆れたものになってしまって、ひとまず口をつぐむ。
同時に、静香も頭を抱えていた。
「あたし、間が悪いから……」
「べつに。いずれにせよ断ったわけなので、静香のせいじゃない」
むしろあれは自分が悪かった、と自認している伊久磨は心の底からそう言った。
予約を断り続けた客が姿を見せたことに、申し訳なさと安堵があったのは本当だ。それこそ予約の話なら、ひとまず店内で待ってもらって、すぐに空きを確認しようとも考えた。
だけど、冷え切った相手を見ても、グリューワインを作らないと、とは思わなかった。
静香を見下ろしていると、由春の視線を感じて顔を上げる。
目が合う。
(もう全部わかっているんだろうな)
伊久磨が彼女を静香、と呼ぶたびに、物言いたげな由春だけに。
さっさと言ってしまおう、と伊久磨は口を開きかけた。
「間が悪いといえば私も間が悪いのかなぁ」
その一瞬の沈黙をつくように、不意に心愛の声が響き渡った。