燃えるケーキ
やってやれないことは無いんじゃないか?
その一言を、信じてしまった。
「お客様!! 危険ですので動かないでください!!」
誰あろう、レストラン「海の星」のオーナーシェフ岩清水由春と対峙する形で、ホール担当の蜷川伊久磨はテーブルに座したままの客を守るべくその前に立ちはだかる。
危険物扱いされた由春は、一瞬「そりゃねえだろ」とでも言いたげな目で伊久磨を見てから、押して来たステンレス製のワゴンの横に立って「吹き消す動作だけでも……?」と言った。
「馬鹿!! アホ!! バケツ!!」
余裕がなさすぎるあまり、単純明快な罵声を飛ばしてから、伊久磨はキッチンに向かって声を張り上げる。
「ゆき!! 消火器!!」
だよねー、と薄笑いを浮かべたパティシエの真田幸尚が消火器を持って姿を現した。
「やっちゃいますよ?」
軽い口調で最終確認。手は安全栓にかかっている。
そうだな、と由春は重々しく頷いた。
それら一連のやりとりすべてがじれったく、伊久磨は「俺が」と低く言い捨てて幸尚の元へ大股で歩み寄り、消火器を受け取る。
横顔に何か言いたげな視線を感じて、噛みつきそうな勢いで由春を振り返った。
「信じた俺が馬鹿だった」
「この建物、火が付いたらよく燃えるだろうからな」
遠まわしな表現であったが、消火器使用のGOである。
お客様、退避しましょう、と幸尚が客に声をかける中、伊久磨は安全栓を抜いてホースを持ち上げ、消火器をステンレスワゴンに向ける。
炎に包まれたケーキに向かって、白い噴霧を勢いよく吹きかけた。
* * *
「本日は大変申し訳ありませんでした。またのお越しをお待ち申し上げております」
丁寧に頭を下げた伊久磨の横で、由春は「これに懲りずに」と悪びれなく朗らかに言い添えた。
本気で頭を押さえつけて謝らせようかと思った伊久磨であったが、エントランスに立った客グループ五人全員がにこにこと笑っていたので耐えた。
還暦祝いの席。
主役は女性で、その夫と、二十~三十代とみられる娘と息子。息子の嫁という構成。
ケーキにローソク60本立てられますかね? という問い合わせを予約段階で受けて、「やってやれないことは無いんじゃないか?」と由春が安請け合いをしたせいで、「やってみた」結果ケーキは消し炭だし、「海の星」も焼失するところだった。
軽い気持ちで無理を言ってすまなかった、コースの正規のデザートは食べられたから問題ない、いえいいえこちらこそ安易に「できるかも」と思ったあげくケーキを燃やしてすみませんでした、とお互い散々謝り合ったり慰め合った後である。
「ケーキって燃えるんですね」
グループで一番若い、二十代後半と見られる黒髪ロングの女性が声をかけてくる。ご本人の娘さんだ。これまで家族での利用が何度かあったので、顔見知りではある。それゆえの気さくさだろうか。
燃えたのは事実だし、もっといえば燃やしたのだが、伊久磨はにこやかな笑顔で答えた。
「ふつうは燃えませんし、燃やすものではないんですけどね。ご家庭では危険ですのでおやめください」
「そうですね。消火器常備していませんから」
くすくす、と軽やかに笑われて、伊久磨も笑みを浮かべたまま頷いてみせる。
そのままグループと合流して帰るかと思われたが、女性はまだ何か言い足り無さそうに伊久磨を見上げて、悪戯っぽく目を輝かせて言った。
「蜷川さんって、いつも落ち着いた印象だったので、新鮮でした。シェフのこと怒鳴ったりするんですね」
死にたい。
素直にわかりやすく心情を述べればそうなるのだが、さすがにそのまま言うわけにもいかず、笑みを深めた。
「お見苦しいところを。お祝いの席で大変失礼しました」
「ううん、いいんです。あれが一番面白かった。最高の思い出になりました。私、動画撮ってたんだけど」
(それ、SNSにアップするのはやめてほしい。切実に。心の底から)
気持ちが通じたかどうかは定かではないが、顔に出たらしい。女性は噴き出しながら言った。
「ネットにあげたりはしないから安心してください。でも、もしよければお送りしますよ。蜷川さんの、アプリのID教えてもらってもいいですか」
何を言われているのか、頭の中で整理して考えようとした。
横から、由春が名刺サイズのショップカードを差し出した。
「ありがとうございます。面白そうだからスタッフ全員で見たいので、店のメアド宛に送ってください」
「あっ……」
差し出されたカードを受け取りつつ、女性が一瞬戸惑った顔をする。
由春はまったく気づかなかったような清々しさで「お手間でなければ。いつでもいいですので」と言い切る。そして、さっとドアに向けて歩き出した。
すでにグループの先頭は外に出ている。由春は、閉まりかけていたドアに手を書けて開け放ち、振り返った。
「雪が降っていますよ。お足元お気をつけください。今年お目にかかるのはこれで最後になるかもしれませんね。少し早いですが、良いお年を」
眼鏡の奥から、理知的な光を宿したまなざしを向けて、甘やかに微笑みかける。
滅多に見せない愛想の良さだ。
(それで今日のマイナスを補ったつもりか)
伊久磨としては納得いかないものを感じつつも、足並みを揃えることにする。
「表までお送りします。行きましょう」
まだ何か言いたそうにしていた女性であったが、伊久磨に先を行くように促されて歩き出す。
そのまま由春のおさえるドアの横を通り過ぎて、外に足を踏み出した。
凛と冷えた夜気に、粉雪が舞っている。
吐き出した息が白い。
(積もるかな)
後に続きながら思わず空を見上げたとき、女性が振り返った。
あまりの勢いに(忘れ物?)と首を傾げそうになった伊久磨だが、女性はその目の前まで引き返してきて、意を決したようにはっきりとした声で言った。
「年内にまた来ます。また明日予約電話しますね」
そんなに一生懸命言うような内容かな、と不思議に思いながら伊久磨は穏やかに微笑みかけた。
「ありがとうございます。お待ちしています」
ふと視線を感じて由春を見る。
客から見えない角度で渋面を作ったあげく、声を出さずに唇の動きだけで何か言っていた。
見間違えでなければそれは「アホ」だった。