噛み痕(後編)
「飲み過ぎないでね。あはは。お酒、しばらく飲んでないなぁ。楽しそう」
心愛の目が、伊久磨の横で目を大きく見開いている静香の上をすべった。
仕事仲間でもない部外者が、休日の会社に入り込んで飲んでいる、心愛の目にはそう見えるだろう。
部外者。香織の連れだった美人が、何一つ負い目なく、今は二人の男と楽し気に。
小さく溜息をついた由春が立ちあがった。「少し出る」と言い残して心愛の方へ歩み寄り、背中を押してキッチンの方へと連れていく。事務室か外へ向かうのだろう。
その後ろ姿を見送って、伊久磨はしばらく止めていた息を吐き出した。
(話を、どこから聞いていたかによる……。よらないか)
悪口のつもりはないが、本人が聞いてもまったく楽しくない話を勝手にしていたのは事実だ。
どう思われているか、本人なりに気にしてはいただろうが、うまく隠そうがうっかり聞かれようが大きく変化はない。
気まずさに向き合うのが早まっただけむしろ良かったかもしれない。
いや、良かったのか。本当に。
感情が昂ったところでの本人登場で、心が大いに疲弊している。
「大変……申し訳ない……」
静香まで、がっくりと項垂れてしまった。
「いえ、むしろ巻き込んでしまって申し訳ありません。俺もシェフも変だったと思います」
普段なら、こんなことで喧嘩になどならない。
愛なんて、はじめて聞いた。
「聞いていいのかどうかわからないんですけど。お付き合いしている相手はいるんですか」
なぜ突然そんなことを聞いてしまったんだろう。
顔を上げた静香は不思議そうに目を瞬いてから「いません」と答えた。
感覚的にわかる。
こういうことを言うと、由春は必ず怒る。それでも、その一言は留めておくことができずに口にしてしまった。
「俺はどうですか。俺と付き合いませんか」
仕事にも影響が出ると言われて、怒り心頭、或いは動転していたのかもしれない。
言われた静香は、痛まし気に顔を歪めた。
「それは……。でも……。べつに伊久磨くんはあたしのこと、好きじゃないよね? あたしのこと見ていないし、自分を見て欲しいわけでもなさそうだし。シェフが何を言っていたか聞いていた?」
(見ていない?)
静香の瞳ははじめの印象から変わらず、強い光を放って伊久磨を見上げている。大きすぎる瞳に自分が映りこんでいるのを、はじめて自覚した。目を、逸らせない。
「目が綺麗だと思います。見るたびに」
これは「好き」なのだろうか。
静香はややひるんだ表情になりがらも、目を逸らさずに言った。
「全然感情がないんだよ。本当に自分でわかっていないの? あたしに対しても美人だとか綺麗だとか言うけど、言っているだけだし。投げっぱなしっていうのかな……。言われたあたしの反応とか、全然気にしてない。喜ばせようとかじゃなくて、見たまんまっていうか。そういうの、お世辞っぽくないし自然だし、人によってはすごく好感度高いと思うんだよね。下心が全然ないから。だけど……なんだろう。恋愛でそれはなんか違う気がする」
見たまんま。お世辞じゃない。下心がない。
たしかに自分の言動にあてはまる。ネガティヴなことは口に出さないが、ポジティヴなことはわりと声に出そうとしているから、良いと思ったときは相手に伝えるようにはしてきた。だけど。
自分が無い。感情が無い。
愛が無い。
(それの何が問題なんだ)
心で反論はする。だけど何かが問題らしいのはわかる。何が問題かは依然としてわからない。
問題がわからないから、解決方法もわからない。
「人を好きになったことがある? 心の底からその相手を欲しいとか。自分を認めて欲しいとか」
「正直わかりません。自分はいま、この店では歯車の一つで、それなりに必要な人間になっている認識でした。だけど、このままだと仕事に影響が出ると言われたら……どうすれば」
恋愛していないから、仕事でも使えないだなんて言われてしまったら、本当にどうすればいいのか。
「……あの。付き合う?」
覚悟を決めたまなざしで静香に言われた。
さすがに、溜息がこぼれた。
「俺の勘違いでなければ、それは結局俺と同じことを言っています。あなたはべつに俺を好きじゃないし、必要としていない。ただ、困っているから手を差し伸べようとしているだけ……っ」
責めても仕方ない。こんなこと言いたくない。最低すぎる。頭の中が滅茶苦茶だ。
言葉が途切れたのは、静香が唇を重ねてきたからだった。
本当に、一瞬だった。
すばやく身を引いて自分の椅子にしっかりと腰を落ち着けながら、静香は淡々とした調子で言った。
「遠距離です。半年に一回とか、本当にそのくらいしか会えません。電話はあまり好きじゃないので、緊急以外は勘弁です。筆まめでもないからメールとかアプリも既読スルーふつうで反応遅いです。生活のほとんどすべてにおいてお互いの存在を感じることがないと思います。それでも付き合っているっていうなら、いいよ。付き合う」
声が微かに震えている。膝の上に置いている手も震えている。
(無理させている)
「馬鹿なことを言ったのはわかっています。俺が怖いですか。自分が震えているの、わかっていますか」
「震えているのは怖いからじゃなくて。……泣きそうだから。君は、思ったよりもまだ全然壊れているんだって。どうすれば潰れてしまった心を元通りにできるのか。気付いた以上放っておけない」
同情。
ああ、これが。
齋勝静香は椿香織ではなく、自分に似ているのかもしれない。香織はきっと「そういう人間」と縁ができやすい。
わかってはいるけれど、香織のそばに「そういう人間」がいると不安にもなる。ましてやいまの香織は、以前ほどに水沢湛に寄りかかっていない。脆さを抱えたまま、それでも「そういう人間」を見ると放っておけない。かつて冷たい川に落ちた少年を命がけで救った、心優しいひとと同じように。
齋勝静香が蜷川伊久磨に手を差し伸べる理由は、それ以上でも以下でもない。
静香の目から涙があふれて頬を伝った瞬間。
伊久磨は後頭部に手をまわして掴んで引き寄せて、それ以上何も言わせぬよう、黙らせるために唇を奪った。
それはほとんど、噛みつくほどに。
痛みを伴う激しさで。
第10話のアフターSS的位置づけでした「Fortune comes in at the merry gate.」=笑う門には福来る、これにて終了です。
最終的に誰も笑ってないですね……。どうするんでしょうこの空気。
ということで、第二部ともいうべき新章に突入しますが何卒よろしくお願いします……!!