噛み痕(前編)
※前編・後編同時更新です。
初めのうちは真面目に新作料理を作って、写真を撮って、メニューの構成や使う皿を話し合っているのに。
そのうち、お酒がまわり始めた由春が「食べたいもの」を即興で作り続け、話の内容も仕事か雑談か曖昧になっていく。
気が付いたら、昼過ぎ、場合によっては日が暮れるまでキッチンで立ったまま食べて飲んでというのもいつものことだった。
いつもとは違うのは、そこに静香がいて、お酒が入ってしまったせいか陽気に笑い続けていたことだ。
飲むと笑い上戸になるのか、それとも、もともとなのか、静香はよく笑う。声を上げて楽しそうに。
見た目は細いのに、よく食べる。「食わせ甲斐のある」相手が大好きな由春だけに、「次は? なんでもいいぞ」と上機嫌になって次々と酒のつまみを作ってしまう。
「お店なのに、家飲みみたい。作っているのがシェフだっていうのが豪華すぎるんだけど。何食べても美味しい。お酒も美味しい」
そう言う静香が、まっすぐ立っていられずに冷蔵庫やステンレス台に腰を預けることが多くなってきたことには気付いていて、伊久磨は「椅子いりますか」と声かけた。
「ええと……」
答えようとして、呂律の怪しくなった静香の手元でグラスが傾く。危なげなく受け取って、「酔ってる」と断言した。
「ホールに行きましょう。少し座った方がいい」
グラスを台において、静香の背を軽く手で押した。一瞬だったのに、指先が背骨の感触を拾って、肉付きの薄さに驚いた。
つられて歩き出しながら、静香が伊久磨と肩を並べて見上げてくる。
「あ、でも、暖房とか電気。あっちも使ったら悪いよ。あたしは平気」
申し訳なさそうに言われて。
何を言い出したのかと、伊久磨は思わず静香を見下ろす。本気で三秒ほど考え込んでから、真剣に言った。
「そんなことまで気を遣いながら生きているんですか」
(香織の同類だけある)
金髪でチャラい見た目で、モデルか俳優みたいな美形のくせに。どこへ行っても、男からも女からもちやほやされて下にも置かぬ扱いをされていそうなのに。
中身の繊細さに慄いてしまう。
あ然としてしまっている伊久磨を、静香が不安そうな目で見上げる。何かおかしなことを言ったのかと心配しているようだ。
その伊久磨の背後から、いい加減酒の回り始めた由春が体重をかけて寄りかかりながら「よし、移動するぞ」とへらっと笑いながら言った。
「重い」
押しのけると、グラスを持ったままにやにやと笑われる。
「何弾く?」
「もう指まわらないくせに。いっつも酔ってから弾くとドヘタですよ」
「そうだっけ」
よくこんな適当な男の演奏で静香は泣いたものだ。ドヘタな状態で聞いてもらって、帰るまでに夢からさましたほうが良いかもしれない。
三人でつまらないことを言い合いながら、ホールに移動して、途中ビリヤードなんかも挟みつつ、結局その日も冬の早い陽が傾くまで飲んだり食べたりしてしまった。
「いつもこんな感じなの? 楽しいなあ」
アンティークライトの光の下、さすがに酒を手放して、コーヒーを飲みながら静香が笑う。
「椿も呼べば来るぞ」
由春が冗談ともつかぬ調子で言い「べつに」と静香は目を伏せてコーヒーのカップに唇を寄せた。
陶器のような頬にはまだ朱色がさしている。四人掛けテーブルで隣に座った伊久磨の位置からはよく見えた。
「香織の彼女のことって、何か聞いてます?」
ふと、気になっていたことが口をついて出てしまった。ちらっと目を向けてきた静香は「んー」と唸る。
「よくはわからないけど、微妙な時期みたい。あたしってさ、『男女の友情アリ』なんだけど、中にはそういうの絶対ダメな人もいるじゃない。だから、香織に彼女がいるときはなるべく近づかないようにしているんだ。今なんか、気軽に会おうとは絶対に言えないね。相手に誤解されたくないし」
「元彼女?」
由春が口を挟み、静香は「いやいやいや、ほんとに友達。付き合っていたこともない」と手を振りながら言った。
「これだけ美人だし、結婚の約束までしているっていうし。たしかに彼女からすると天敵かも」
「結婚の約束?」
当然のように由春に聞かれ「四十歳までお互い相手がいなかったら、だって」と伊久磨が答え、静香が「もうやめてー」と抗議した。
「さすがにどっちかは結婚しているでしょ。あたしはともかく香織は。あのひとの家族運のなさを思えば、さっさと彼女と結婚してほしい。授かり婚とかなんでもいいから」
静香の一言を最後に辺りが静まり返ってしまった。
「え……? なにこの空気?」
手で額をおさえた由春と、腕と足を組んで椅子の背に深くもたれかかってしまった伊久磨。
目を見開いて二人を交互に見てから、静香は「え?」と再度声を発した。
「授かりは……授かりは難しい。その後ちゃんと結婚するならともかく」
「ん? 水沢湛とシェフのお姉さんは婚姻届出したんだよね?」
「そっちはいいんです。そっちの話は今はやめてください。あいつまだシスコン引きずってるんで、それはそれで面倒だから」
休日仕事外+アルコールで若干言葉の乱れた伊久磨が由春をあいつ呼ばわりして首を振る。
「他に誰かいるの? もしかして二人とも、何かこう……、彼女と難しい感じに? だめだよ、責任はきちんと取らないと。どっち!?」
あらぬ疑いをかけられた伊久磨と由春で「どっちでもない」と二人同時に否定した。
だが、立ち込めた暗雲が消えない。
「どうしたの……? なに?」
「いや、ええと……。ちょっといま難しいことになっているスタッフがいまして」
「もしかしてこの間の女の人? 香織が昔の知り合いだって言っていたけど。え……? 誰と?」
とにかく何か話していないと落ち着かないのか、静香が交互に二人の男を見る。
「誰とでもないんだが。この店に来る前の話で。相手と話が出来ていないみたいで、このままだと一人で生むことになる」
「雰囲気的に、たぶんご実家のご家族も理解や納得はしていないですね」
酒の席ということと、疑いをかけられた気まずさと、時期がくれば誤魔化しきれるものではないという思いと。
静香が完全部外者かつ女性ということもあって、結局二人で白状してしまった。
「つまりシングルマザー? 認知もされないってこと? そんなの、相手の男が生きているなら何かしら責任とらせるべきじゃない。せめて戸籍だけでも。生むんでしょ?」
またもや男二人で沈み込んでしまう。
(生むのは生むんだろう。子どもはお腹の中で育っている)
それがどういう意味を持つのか、伊久磨にもはっきり掴めていない。ただ、書類上だけでも父親がいないのはまずいというのは、今の静香の発言からもひしひし感じて、考え込んでしまう。
視線を感じて、顔を上げた。由春に見られていた。
「伊久磨。しつこいようだけど、同情はするなよ。相手の男は悪いが、佐々木も悪い。俺もお前も仲間だからできる範囲で手助けはするが、それだけだ。間違えても、自分の戸籍を使わせようとか、変なことは考えるなよ」
言われていることはわかる。しかし、多少酔いがまわっていた。売り言葉に買い言葉が出た。
「俺の戸籍なんか、なんの価値もないですよ。心配したり怒ったりする家族もいません。誰かの役に立つならどう使ってもいいはずです」
由春の目に怒りが走った。ただでさえ鋭い眼光が、斬りつけるほどの凶悪さを帯びる。
「アホ。お前は本当にアホだ。この間の姉貴と水沢を見ただろ。結婚っていうのは、ああいうのを言うんだ。紙の上のことだからとか、名目上とか、そういうことは絶対言うな。たとえお前が同情から一時的に佐々木と結婚して子どもの父親になっても、誰も幸せにならない。やる前から、これ以上ないくらいわかりきっているんだ。だめだ」
「岩清水さんは未来が見えるんですか。やる前から、なんて簡単に言っていいんですか」
「何を意固地になっているのかわからない。わかりたくもないが、俺は絶対に認めない」
「べつに。婚姻届の証人になってくださいなんて言ってませんが」
横に座っていた静香が、伊久磨の腕にそっと手を置いた。
「ごめんなさい。これはあたしが悪い。余計なことに首突っ込んで、ひっかきまわした」
血の気がひいたように青ざめた顔をしている。争いの気配が苦手な性質なのかもしれない。
一方、由春は全く気にした様子もなく、「悪いのは伊久磨だ」ときつい口調で断言した。休戦する気もない様子に、伊久磨のまなざしも厳しくなる。
それを受けても、由春は目を逸らさずに言った。
「こいつ、自分のことを全然大切にしない。他人に大切に思われることすら拒否しているから、米屋の本気プロポーズは簡単に蹴るし。かと思えばシングルマザーと愛のない結婚をしようとする」
「愛するより愛されたい? なのかな?」
よくわからない、といった調子で静香が口を挟むも、由春は忌々し気に首を振る。
「それならまだマシだ。こいつの場合は、愛されようとすらしないんだ。もちろん誰かを愛する気もない」
腕を組んだまま由春を睨みつけている伊久磨を見つめ返し、由春は続けた。
「お前が動くときって、全然自分がないんだよ。愛がない。相手のことを本気で見ていないし、自分を相手に見てもらおうとも全然考えてない。今のままじゃろくな恋愛ができないぞ。これはマジで。愛せる相手を見つけて、愛せ。同じくらい愛されるようにしろ。そのままだと、仕事にも影響が出る」
「それは言い過ぎですよ。仕事って言えば俺を押さえつけられると考えているみたいですけど、プライベートは関係ない」
頭に血が上っている。こんな話をしたいわけじゃないのに、お互いに言い過ぎてしまう。
何より、静香を巻き込んでしまっている。
いい加減にしないと、と思って視線を横に逃がしたときに、目がまったく想定外な相手を見つけてしまった。
伊久磨の凍り付いた表情に気付いて、由春もそちらに目を向ける。
「あの、試食、まだやってるかなーって。お店の近くまで来たから。だけど、なんか話がね、入りづらくて……」
キッチンからホールに出て来たところで、声をかけそびれて固まっていた佐々木心愛が無理やりな笑みを顔に張り付けて言った。