マリアージュ
「飲むの!?」
大きな目を見開いて言った静香は、おそらく、平日の朝っぱらからふらふらしている割には極めて真っ当な生き方をしているに違いない。
「飲みますよ。料理と合うか確認の意味もありますし。何パターンか考えるのでそれなりの量を」
「いまから?」
なみなみとカフェオレを注いだマグカップを両手で大事そうに持ちながら、事実を確認しようとするかのように伊久磨の後を着いて来る。
特別に、緑を愛し愛されるという指は、少し温まっただろうか。もっと大切にした方が良いと思うのだけれど。
「仕事中に飲むわけにはいかないですからね。やるなら今しかないんです」
パントリーでステンレス台に何本かワインを並べて見せると、言葉を選びかねたように口をつぐまれてしまう。それから、ちらりと見上げてきた。落ちて来た金の前髪に瞳が半分隠されている。
「お酒強いの?」
「どうでしょう。弱いと思ったことはないですね。あまり酔わないです」
答えてから、滑らかで白い喉へと目を向けてしまった。女性的な優美さで細く、もちろん喉ぼとけのようなものはない。
「本当に、最初の日は悪いことをしました。喉の調子が悪いとまったく気づかず、冷えた日本酒を」
「ああ、べつに大丈夫だって。いま普通に話せているでしょ?」
静香は屈託なく笑いながら見上げてくる。
伊久磨は動きを止める。思わず、自分の喉に手をあててしまった。
普通に話せているでしょ?
弱くて。心が潰れるとすぐに声を失ってしまう。話せなくなる恐怖が振り払えずへばりついている。
「どうしたの?」
表情が作れなかったのだろうか、静香が心配そうに目を細めて手を伸ばしてくる。緑を生かすという指が、喉をおさえている手の甲に微かに触れた。
「いえ」
ろくな言い訳が思い浮かばず、軽く咳ばらいをしながら身を引く。
背を向けて深呼吸してから肩越しに振り返った。
「飲みます? グラス用意しますよ」
「ええー……どうしようかな。まだ昼前なのに」
「無理にとは言いませんよ。飲みたくなったら」
並べたボトルを見ながら、さてどれからにしようと思案する。
「シェフ、一品目は?」
ガス台付近で、いくつか皿を並べている由春に声を張り上げて尋ねる。
「ビーツと無花果のサラダ。マスタードとマーマレードと白ワインビネガー、オリーブオイルとニンニクのドレッシング」
説明を聞きながら、決めた瓶に手をかけた。
「赤の泡。ランブルスコ」
ジャアッと火にかけたフライパンが美味しそうな音を立てた。顔を上げないまま、由春が頷いた。
「いいな。メインのブフ・ブルギニョンにも合うんじゃないか」
「ボトルで入れて一本で最初から最後まで。だけど、魚はどうでしょうね」
「赤なら秋刀魚の肝醤油焼きみたいなやつは合うけど」
ジュジュジュと油が泡立つような軽やかな音がする。香ばしい匂いが漂う。
腕を組んでステンレス台に軽く腰を預けながら、伊久磨は由春の手元を見つめつつ言った。
「秋刀魚の肝醤油焼きからブフ・ブルギニョンは色合い的に面白くないですね。見た目が赤系から赤系で変化がない。秋刀魚に白髪ねぎ、煮込みにクレソン添えても……インパクトがないと思います」
「そうだな。だけど、ランブルスコ推していくのは良いと思うから。赤に合わせても良い魚がいいかな」
試食のメニューは事前に由春がだいたい決めているが、話し合いでどんどん内容は変わっていく。
伊久磨はさっさとグラスを三つ持って来て並べ、ボトルを手にした。
黙って聞いていた静香が、飲み干したマグカップをステンレス台に置いて伊久磨の手元を見る。
「かわいいラベル。音符が描いてある。『ランブルスコ』?」
「はい。泡のワインといえば真っ先に出て来るのはシャンパーニュだと思います。フランスの北部、シャンパーニュで作られたスパークリングワインですが」
「え、シャンパンってそういうことなの!?」
驚いた声に遮られ、伊久磨はまじまじと静香の顔を見つめてしまった。それから、一つ頷いた。
「俺も最初はその辺わからなかったです。シャンパンとシャンメリーの違いもわからなかったし。これ冗談じゃなくて。シャンパーニュで作られたものだけをシャンパンといいます。それ以外はさしあたりスパークリングワインで括っておけばいいかと。国によって呼び方はいくつかありますが。ちなみにランブルスコはイタリアの北東部、エミリア・ロマーニャ州あたりの平坦地で栽培した黒ぶどう、ランブルスコ種からつくられる天然弱発砲性の赤ワインです。シャンパンの白い泡に慣れていると、見た目から新鮮ですよ。よく冷やして肉料理に合わせると良いと思います」
そこまで言って、掴んだボトルを見せる。
「ジュゼッペ・ヴェルディ・ランブルスコ・アマービレ。アルコール度数は高くないですね。結構甘いし口当たりもやわらかいみたいです。試飲はこれから」
ワイヤーをねじって取り、コルク栓を片手で抜いてグラスに注いでみせる。
静香に差し出して「どうですか」と声をかけた。
「ベリー系やスミレの香りって言われていますけど。花の匂いなら詳しいのでは」
「ああ……お酒の匂いはするけど、スミレ……。スミレか。うん。そうだね」
顔を近づけ、目を瞑って匂いを確かめる仕草をしている。
「飲んでみます?」
「うん」
興味をひかれたらしく、受け取って、一口。
「ほんとだ。甘い。飲みやすい」
そう言ってから、「あ」と声に出して伊久磨を見上げた。
「飲んじゃった」
「うん。飲んでるなって思った。止めた方が良かったですか」
「止め……。いや、すごく自然にすすめられたから……」
陽の高いうちからお酒を!? と言っていた自分が率先して飲んだことに動揺を隠せないらしい。
飲んでしまったものは飲んでしまったわけで、どうしていいかわからないようにもぞもぞとしている。
それを見ていたら、伊久磨は噴き出してしまった。困った顔のまま見上げられて、笑いをおさめることもできずに尋ねた。
「美味しい?」
「……美味しい」
「それは良かった。そのまま無花果のサラダもぜひどうぞ。ランブルスコ、絶対合いますよ。そうだ、お腹空いているんですよね。パンもオーブンで温めます。ハード系の。バターは使いますか」
はい、という返事を聞きながら、「あ、でも少しだけ」と言い置いて伊久磨は由春の元へと歩き出した。
「出来た皿から写真撮っていきますね」
静香も後からついてくる。
「記録を残しておくの?」
「それもありますけど、予約サイトで使うんです。うちはメニュー詳細は載せていないのであくまでイメージではありますが、季節毎にメニューチェンジするので、その都度トップの写真は変えてもらっています。今の時期はクリスマスディナー用の写真も欲しいですね」
「予約サイトって結構お金かかる?」
他職種への興味関心なのか、静香は熱心に食いついてくる。
伊久磨はうーん、と唸って、いくつかの打ち合わせを思い浮かべてみた。
「そういうこと言ってくるところもありましたね。月額いくらでランキングの一ページ目に出るように操作します、って。『あ、そういう仕組みなのか』って思いましたけど、そこはその場で断りました。今は一社だけです。高級志向のホテルやレストラン中心のサイト」
キッチンの台の上に置いてあったデジカメを手にして、角度を変えながら完成品の写真を撮る。
ぼんやり見ながらグラスを傾けた静香は、そんな自分に遅れて気付いてまたもや「ああっ」と声を上げた。
どこか情けない顔になりながら、伊久磨を見る。
「結局二人とも働いているし。なぜかあたしだけが飲んでいる……」
ばつが悪いらしく、妙に落ち込んだ表情だった。
どうしたものかと、伊久磨は由春をうかがってみる。
二人の変な空気を察したらしい由春が、いつも通りのぶっきらぼうな調子で言った。
「一応そいつ、プロだから。お客さんがいるとどうしてもワインを注ぎたくなるんだ。まあいいや、おい、俺も飲む。ついでに食べたいものがあれば言え」
いくつか満足いく皿を作り終えて気分が良いらしい。
(食べたいものか……)
ワインを取りに引き返しながら思い浮かべてはみたものの、特に何も浮かばず、振り返って尋ねてみた。
「静香は?」
突然水を向けられた静香が、びくりと軽く飛び上がる。
「あたし? なんでもいい!! 好き嫌いないし!!」
「嫌いがないのは良いことだと思いますけど、好きもないんですか。何か」
「えーと……ピザ!!」
もうなんでもいいや、という勢いで元気よく言われて、伊久磨は「だそうです」と由春に告げる。
なぜか妙な顔をしていた由春は、眼鏡の奥から物言いたげな視線を伊久磨に向けつつ、「了解」と短く答えた。