アラベスク
ドビュッシー作 アラベスク第一番 ホ長調
扉を開けた瞬間。
雨垂れのように連なる、みずみずしい打鍵の響きが輪郭を得て明瞭になり、空間を埋め尽くす。
呼吸するたびに肺腑に流れ込んでくる、音の洪水。
あまりにも甘く、睦言を語りかけるかのように音は奏でられ、その手で直接掴みかかられたみたいに胸を震わせてくる。
包み込み、抱き寄せるような熱を孕んで、指は鍵盤を打ち続け、
音は光の奔流となって膨れ上がり、弾け、世界を満たしていく。
立ち尽くしてしまった静香の耳元に唇を寄せて「シェフです」と囁いた。
それでも身動き取れなくなっているので、脇を擦り抜けて先にエントランスに足を踏み入れる。
「どうぞ。寒いですから、中へ」
大きな目が、言葉もなく見上げてくる。話していいの? とでも聞くように。
曲が変わった。
一転して、哀切を歌い上げるようなメロディー。
(本当に歌みたいだ)
音に情感がありすぎて、まるで泣き声みたいに聞こえる。
ハインリッヒ・リヒナーの「勿忘草」だ。
微動だにせず、呼吸すら止めているかのような静香の耳元で再度、小声で告げた。
「Vergiss mein nicht」
ハッとしたように顔を上げてまた目で尋ねられたので、声を低めて答える。
「『わたしを忘れないで』ドイツ語です。勿忘草の花言葉の由来になった悲恋の伝説の」
以前、曲の名前を尋ねたときに由春に教えられた。
結局のところ、悲恋さえも、彼は舞台の上の出来事のように華やかに弾いてしまうくせに。
「集中しているみたいだから、後ろから驚かしましょう」
身に着けていた黒のダウンを脱ぎながら伊久磨が笑って言うと、見るからに焦った様子の静香が腕にすがってきた。
ひどく真剣なまなざしを向けられる。
声に出さずに「だめ?」と目で尋ねると、激しく頷かれた。
それから、ちょいちょい、と引っ張られたので少しかがんでみせた。耳元に口を近づけてきた静香が、感嘆めいた溜息まじりに告げる。
「綺麗」
吐息が耳をかすった。
弾いているの、うちのライオン丸ですけど。心の中で答えて、ホールの方へと導こうと軽く握りしめた拳の親指で進行方向を指す。
頷いた静香の目から、涙がぽろりと零れ落ちた。
慌てて拭おうとしたみたいだが、目算を誤ったのか、手で口をおさえている。いや、声が漏れそうになって慌てたのかもしれない。
つい、真顔になって見つめてしまった。
(曲は悲しいですけど。たぶんあの男いま何一つ悲しいこととかないですよ。ただの気分で弾いてます)
少しばかり表現力が豊か過ぎるので、感化されそうになりますけど。
なんとなく、静香の軽装を見ていると必要なものは何も持っていなそうだと確信してしまったので、脱いだダウンのポケットからハンカチを取り出して差し出した。ありがとう、と掠れた声で言いながら受け取って、静香はそのままハンカチに顔を伏せてしまった。
大丈夫? と声をかけたかったが、声にならない。
彼女が聞いている音を、自分の声で邪魔したくなかった。
由春だったら、こんなとき、気にしないで引き寄せて抱きしめるのかもしれない。さすがにできない。
(香織も?)
そういえば、彼女はもともと香織の知り合いなのだ。どんな時間を共に過ごしたかは知らないが、そういう関係だったこともあるのかもしれない。
心に抗えず、その光景を思い浮かべてしまう。寄り添う二人はどこか似ていて、似合いのように思えた。
いつの間にか、ピアノの音がやんでいた。
「なんだ。来ていたのか。早いな」
赤系チェックのネルシャツにダメージジーンズという、休日スタイルの由春。眼鏡の奥の瞳がいぶかしげに細められ、静香に向けられる。
今にも「なんだそれ」とでも言い出しそうな由春に、伊久磨は苦笑して先手を打った。
「泣かせたのはシェフですよ」
ああ? と眉をしかめたのを見ながらもう一押し。悪い男ですね、と言い添える。
* * *
料理を待つ間、店内の観葉植物の具合を見るよ、と静香が申し出た。
普段はフリーランスとして、インドアグリーンのコーディネートの仕事もしているという。
「個人の邸宅やお店、オフィスからの依頼も多いかな。トータルでコーディネートして、調子が悪くなったときのアフターケアにも行く。このお店は、この間来たときにも見せてもらったけど、植物がちゃんと元気だね」
涙はハンカチで全部ふき取ってから、静香が伊久磨に説明した。なお、ハンカチに関しては「ええと」と困っていたので「持ってていいです。返さなくてもいいです」と言って押し付けておいた。
「天井から吊るすようなグリーン増やしたいんですよね。ランプに巻き付けたり、それが難しくても、ピアノの上の空間とか、少し寂しい」
歩き回る静香の後について、伊久磨はふとピアノを振り返って言う。あれほど豊かな音を鳴らしていたアップライトピアノも、今は奏者がキッチンに引っ込んでいるので静まり返っている。
「なるほど。グリーンネックレスとか、シュガーバインみたいなイメージ?」
伊久磨の要望をヒアリングするように受け止めて、静香がスマホで画像検索して見せてきた。
「あ、それです。インテリアショップとかは見ているんですけど、いかにもフェイクだとバレるのは嫌だなと。手入れはどうなんでしょう。枯らさないかな」
勢い込んで話してから、伊久磨はハッと我に返る。
「すみません。本職の方に、甘えてしまうところでした。仕事ということなら正式な依頼を」
「いい、いいよ。あたしから今日のただ飯の口実を奪うな」
しれっと言って、「撮るよ」と言ってから静香は店内をスマホで撮り始めた。
「いま実家にいるんだけど、もう少しこっちにいるつもりだから。二、三日中には連絡する。あー……電話って一回線? 長電話はやめた方が良いよね。忙しそうだし」
「俺のスマホでも大丈夫です。コールくれたら折り返しますので」
静香のシンプルすぎる名刺、なくしてしまったら連絡つけようがないと、スマホに携帯の番号を登録していた。その旨を告げて、静香のスマホを鳴らす。表示された電話番号を見ながら「俺のです」と告げて、「名刺いりますか?」と確認した。
「一応、名前はフルネームで知っている。蜷川伊久磨くん」
香織から聞いているのだろうと了解した。どんな文脈でどれだけの情報が伝わっているのかは知らないが、少なくとも椿邸で暮らしていたことを把握しているのは間違いない。
「仕事ってほどでもないから、実費でいいよ。ホームセンターかどこかで調達してくる。領収書があればいい?」
「そうですね。レシートでもいいんですけど、領収書なら株式会社ステラマリスです」
「そっか。じゃあ予算に合わせてやらせてもらうね。電話は打ち合わせというより、搬入のタイミングを伝える。この間みたいに、ランチの後でいいかな」
「お願いします」
手慣れているというか、話がスムーズで仕事がしやすい。フリーランスさすがだな、と感心していたら逆に静香に言われた。
「営業マンと話しているみたい。なんていうのかな……、手際がいいね」
「それは俺と言うより静香では?」
「え?」
「ん?」
聞き返されて、驚いた目で見上げられて、見下ろしてしまった。見るたびに、大きな目だなと思う。
「いや……その……静香?」
「そう呼べと言われたと思うのですが」
何かまずかったのだろうかと目を覗き込んで聞くと、静香は一歩後退った。表情は明らかに狼狽している。先程までの仕事モードとは劇的に違って、何事かと眉をひそめてしまった。
「そ、それはそうなんだけど……。名前でとは言ったけど。ふつう年上の女性だし、『さん』とか付けるんじゃない?」
言い訳がましく、もごもごと言ってくる。呼び方?
「ああ。静香さん、でいいですか?」
「いや、それもなんか今さらなんだけど……」
「静香? 静香さん? どっち?」
はっきりさせておいた方が、と確認すると、あわあわと唇を震わせてから「静香でいいけど」と小さな声で言った。振り出しに戻った。一体何がしたかったのだろう。
不思議に思っているのが表情に出てしまったのか、静香にはなぜか睨むような目で見られた。
「なんか掴みどころないよね。変」
「俺ですか?」
あの水沢湛にまで掴みどころがないと言われていた相手から、よりにもよって。
納得いかないまま手を差し出してみた。
「どこでも掴んでいいですよ。実体です。生きて目の前にいます」
「なんで掴む・物理の話にしてんの? ほんとにどうなってんの?」
ものすごく呆れられた。
呆れられながらも、握手するように手を握られた。ひんやりとして細長い指。まだこんなに冷たいんだ、と心配になりながら握り返したら、すごい勢いで逃げられた。
理不尽だ。何かが。