寒い朝に
とにかく、習慣というのはおそろしい。
朝イチでコーヒーを飲もうと思うと、足が自然に「セロ弾きのゴーシュ」に向かってしまう。
心情的には「傘を届けただけなのに身上書」の一件以来、避けるべきという気はしているのだが、幸いにもその後御婦人方と鉢合わせすることなく過ごせている。
ただし、御婦人方は懲りずに勤め先の「海の星」に何度か食事に来店している。最初ほど強引ではないにしろ毎回「娘と会うだけでも」と言われて「畏れ多いです」との攻防を繰り返している有様だ。こうなると、今さらどこで遭遇しても大丈夫と心に耐性がついてしまったのも事実だ。
(そんなに、何を気に入ってしまったのだろう)
あれほど情熱を傾けて「家族」に迎え入れたい何かが自分にあるとは、どうしても思えない。
不安定な中小企業の一社員だし。今は経営に大きな問題がない「海の星」とて、オーナーシェフである岩清水由春が怪我や病気をして店に立てなくなれば、あっという間に潰れてしまう。大学卒業以来他で働いたこともないし、年とともに固い企業への転職は難しくなりそうだ。
おまけに、家族運がまったくない。全滅している。
――いつも「息子を」ありがとう。今日は「家族を」よろしく
親を見れば子がわかるなんて言うつもりはないけれど。岩清水家も水沢家もなるほどというご両親だった。
正直、「両家顔合わせ」なんて言葉自体、知ったのは社会人になってからだ。すでに自分の両親は他界していたので「縁のない」行事ではあるものの「意味がない」とは思わない。むしろ何度か目にするたびに、すごく大切な何かなのだと感じるようになっていた。
ちなみに、縁のなさで言えば、自分と同じく家族が全滅している椿香織にも同じことが言える。
水沢湛の顔合わせに花を差し入れるほどの気遣いを見せる香織だが、自分のときはどうするのだろう。「海の星」でやって欲しいと願っていいのかわからないが、それならそれで出来る限りのことはする。どうしても家族席に誰かが必要だというのなら……。
(……湛さんなのかな。父親代わり)
ほんの数歳しか違わないはずだが、気持ちの上では兄と父を兼ねて家族としてやってきた人だ。何かの冗談で香織が「お願いします」と言ったら最後、絶対同席しそうな気がする。
冷たい風に吹かれて、川原の遊歩道をひとりで歩いているというのに、「ありえる」と思ったら、変な笑みが浮かんできてしまった。できれば、ぜひやって欲しい。
いつか香織に両家顔合わせの席があるとして。
(湛さんが父親代わりとして同席したら、本当に「若いお父さん」だ)
香織の父親の享年は聞いていないが。
もしかしたら彼らはそろそろ超えるのかもしれない。
若くして死んだひとの生きた年数を超えて、生き延びて、未来へと。
正面からひとが歩いてきた。
広くはない遊歩道。
かわしてすれ違おうと何気なく目を向けたら、ものすごく見られていた。
星空みたいな瞳。
「何笑ってんの?」
挨拶もなく噛みつくように言われて、少し考えてから答える。
「父親になる心境ってどういう感じかなと」
「なるの?」
「俺ではないですが」
勢いよく歩いてきて、話しかけてきて、そのまま行きすぎそうになりながら、そのひとはなんとかブレーキをかけて止まった。くるりと反転して、肩を並べてくる。
「どこかへ行こうとしていたのでは?」
なぜ方向転換したのかと。
「特に目的はなかったんだよね。どこ行くの?」
「コーヒー飲みに」
「朝ご飯は済んだ?」
「今日は食べません。コーヒーだけ。この後会社行って、試食があるので」
いきなり社外で遭遇してしまったせいか、友だちみたいに口をきいてしまった。もともと掴みどころがなくて、距離感がよくわからないひとなのだ。
カラフルなピンがいくつも金髪にささっていて、後ろ髪はうなじのあたりで適当にまとめている。肌は白く、陶器のよう。顔立ちはひどく整っている。それでいて、子どもじみた大きな目が。
星屑みたいな強い光を浮かべて瞬いて。
グリーンフィンガー・フローリスト・齋勝静香。
(薄着……)
コートが薄い。冷気が突き抜けそうな、スプリングコートのように頼りないものをひらりと一枚羽織っているだけ。そのせいだ、おそらく。この辺の人じゃないだろうな、とどこかで思ったのは。
おそらくあの日は新幹線で南から着いて、香織が車で迎えて「海の星」に来たのではないだろうか。
それから数日、おそらく何かの理由でこの街にとどまっているけど、防寒具を北国仕様に変えないで歩き回っている、と推測される。
「暇なんですか?」
「平日の朝っぱらから川原ふらふらしている大人にあえて聞く?」
暇なんだ。
放っておけばいつまでもふらふらしているのかもしれないと、薄着が気になり過ぎてつい言ってしまった。
「一緒に試食します? 今から行くと少し早いですけど、どうせシェフ来てますから」
あまり早く顔を出すと「休みの日くらいゆっくり寝てこい」と、普段長時間労働を課している負い目のあるオーナーに怒られるので。コーヒー飲んで時間潰してから行くつもりだったが、「海の星」で飲んでも構わないのだ。どうせ豆は樒の店で買ったものだし。味は同じだ。
「試食していいの!?」
「だめとは言わないと思いますよ。ご意見ご感想があればぜひシェフに。俺はそこまで味覚が敏感なつもりがないので、たまには違うひとの意見があるのもいいかも」
「わかった。よし行こう」
勢い込んだ静香に思い切り腕を掴まれる。力が強い。引きずられかけて、思わず名前を呼んでしまった。
「齋勝さん」
「静香でいいよ」
ぱっと手を離して、数歩進んでから静香は振り返った。ひんやりと澄んだ空気の中、長い手足を振り回して自由に跳ね回る色素の薄い生き物は、
人間というより、
妖精とか精霊とか何か別種の存在に見える。
輪郭が淡い光に溶けて見えた。
きっと白金色の髪のせい。なんとなく眩しく感じて、目を細めてしまった。
「この間のお花、ありがとうございました。湛さん、気付いていましたよ」
言いたかったこと。だけど、電話をかけるほどではなくて。香織を通すのも躊躇われて。
ずっと伝えたいまま胸に留めていた言葉。
目を見開いて聞いていた静香は、「うん」と唇を笑みの形にして頷いた。
それから、へらっと笑って言った。
「お腹空いているんだ。早く行こう」