小さな棘
――ああ、助けられて良かった。僕にも小さな息子がいるんです。本当に良かった。
* * *
齋勝静香と、その金髪の男は名乗った。
肩につきそうな長さのさらりとした金髪に、緑やピンクのピンが引っかかっている。後頭部には繊細なレース細工みたいな銀色のバレッタ。
(声を聞くまで男か女かわからなかった)
絶対、本人もそのつもりだったに違いない。端正な容貌に、ほんの少しアンバランスで幼い印象を与える大きな瞳が、面白そうに輝いていた。
その日、「海の星」には、スタッフとは顔なじみの和菓子屋「椿屋」の椿香織から夜の時間に二名で予約が入っていた。
「最近、彼女がいるような話は聞いていたんですよね。本人じゃなくて、湛さんからですけど」
と、蜷川伊久磨が打ち明けたせいで全員で待ち構える運びとなったのだが。
一番最後のラストオーダーギリギリの時間帯に、香織は二人で連れ立って入店した。
車で来たのだろう、寒い季節だというのに二人ともさほど着込んではいない。香織はシャツにジーンズ、アンティークレザーのジャケットといつもの気楽な服装だった。
連れの静香は薄いコートを腕にかけてエントランスに入ってきた。服装は、白地に細い銀のストライプが入った膝下丈のシャツワンピース、スキニージーンズ。手には大きな花束。
彼女、という先入観があったので、はじめは背の高い女性だなと思った。
声を聞いた瞬間、耳馴染みの良い低音だったことに驚いた。
「君が伊久磨くん? このお花は君に。今日は楽しみにして来たんだ。よろしくね」
ばさりと大きな花束を渡されて、黄色やピンクの花やカスミソウ越しに微笑みかけられ、「花ですか」と間抜けなことを言ってしまった。花は花だ。
香織に目を向けると、何か含みのある笑みを浮かべている。
(デート?)
声に出さずに尋ねると、香織は堪えきれなかったように噴き出した。
「席に案内してよ。俺は車だから飲まない。静香は日本酒かな」
この花束はどうすれば、と思いながらひとまず二人の先に立って奥の予約席へと案内する。
静香は他の客に失礼にならない程度に店内を物珍しげに眺めてついてきた。ホストが香織でゲストが静香と了解して、静香の椅子をひく。
「ありがとう。その花、持て余したらあとで僕が活けてあげる」
品の良い薄い唇に笑みを湛えて、静香は席についてから名刺を差し出してきた。花束を抱え直しながら受け取る。
Florist 齋勝静香
(花屋……?)
だから花が手土産なのか、とは思ったが香織との関係性がよく掴めない。
伊久磨の戸惑いを見透かしたように、香織が笑いながら言った。
「水沢家と岩清水家の予約もうすぐでしょ。テーブル装花を差し入れようと思って。静香は少人数のウェディングの室内装飾とか実績があるから。あ、俺の中学のときからの知り合いね」
「テーブル装花」
香織と湛の関係性であれば、お祝い事の席に何かしら差し入れはあるかと思っていたが、その線は考えていなかった。
香織は寛いだ表情でひとつ頷いた。
「夜に貸し切りでって聞いてる。当日、ランチの後に店に入らせてもらって、作業をすれば夜には間に合うはず。その前に、静香に一度店を見てもらおうと思って。今日は下見。お腹も空いているけどね」
「了解。当日のテーブルのイメージとか、料理とか、一通り案内します?」
香織に返事をしてから、静香に向き直る。
うん、と頷きながら静香は伊久磨を見上げた。
「三万円くらいで、イメージは青でと承っています。ブーケも付けようかと思っているんだけど、テーブル装花も、食事の後持ち帰れるようにしておくから」
てきぱきと言われて、さすがに香織らしくそつのない注文をしているらしい、と感心してしまった。
「とても喜ばれると思います。私も見るのが楽しみです」
伊久磨が正直な気持ちを静香に伝えると、香織が「おっと」と声を上げた。
「だけど、俺からって言っちゃだめだ。店からのお祝いってことにしておいて」
変なことを言い出した。訝しむ視線を向けると、香織は、曖昧な笑みを浮かべて言い訳するように続けた。
「俺、水沢の家と折り合いがよくないんだ。俺からの差し入れだっていうと、あちらの御両親が緊張しちゃうから言っちゃだめだ」
だから差出人がごまかしやすいテーブル装花なんだよ、とおどけたように付け足す。おどけようとして少し失敗していた。変な笑い方だった。
(水沢の家……? 湛さんの御両親?)
伊久磨の知る限り、湛の身内が椿屋に買い物などで顔を見せたことはない。それを不思議に思ったこともなかった。
今回の予約に関しても、湛自身は家族と問題があるような素振りは特になかったはず。
なぜ、香織と湛の両親が?
その疑問は小さな棘のように胸に刺さったが、香織と静香は遠目にはカップルと言われても不思議はない和やかさで話し始め、伊久磨はひとまず花束を抱えたままキッチンへと向かった。