黒髪
印象が随分と変わった。
染めたばかりに見えた佐藤とは違い、幸尚にその色は違和感なく馴染んでいた。
「美少年でびっくりした?」
見慣れたピンク頭が、その日、真っ黒に染まっていた。
ロッカーで着替えてきた服装も、コックコートではない。襟付きの白のシャツと、黒のソムリエエプロン。
常に黒しか身につけない伊久磨とは綺麗なコントラストを見せていた。
「ゆき君。今日のサービスはわたしが」
普段、コックコートにエプロン姿でキッチンとホールを動く心愛が顔を強張らせて言ったが「姉さんは今日は中です」と幸尚がキッパリと、明るく言い切る。
「夜の特別コースに備えて、ランチも絞って取っていますし。ハルさんと仕込みガンガンやっちゃってください」
「それなら余計、ゆき君の方がいいはず」
キッチンでなんでも屋状態でやってきた幸尚と違い、心愛はパティシエ特化型だ。調理に関しては調理師免許はあるものの、プロを前にすれば素人同然だという不安があるらしい。
その心愛の心中を見透かしたように、幸尚は悪戯っぽく目を光らせて言った。
「だからですよ。昼は件数少ないし、夜も特別コースとはいえ人数は少ないです。ハルさんも説明しながら進める余裕あるはずなんで、メモとりながら頑張ってください。この先に休業期間に入る予定があるからって、仕事で手加減してもらえるなんて思わないでくださいね。腕が鈍らないように、出来るときはやっておいた方がいいですよ、中」
唇に浮かべた笑みはシニカルな印象で、決して甘くない。
指摘した「休業期間は」は産休・育休のことだ。
心愛が一時的にせよ、現場を離れることが決まっているのは、幸尚も了解している。その間に果たして腕がどれほど落ちるというのか、技術に疎い伊久磨には推し量ることもできない。
だが、出勤している間は新しい技術も学ぶべきだし、もちろん楽はさせない。
その宣言。
ほんのわずかに、二人は視線をぶつけ合い、睨み合う。
目を逸らさぬまま、心愛が言った。
「わかりました。昼のバスク風チーズケーキを焼いたのもわたしだし? 特別コースのロングマカロンもわたしの案が採用されたわけだから、わたしが作った方がいいわよね」
煽りを汲んで心愛が挑戦的に答えると、幸尚はふっと目を細める。声を低めてすばやく言った。
「あんまり調子に乗らねーでくださいね、ちびっこ。ロクムが上手く作れる程度でオレより上みたいな顔していたら、速攻叩き落とすんで」
そして、伊久磨に目を向ける。
「とりあえずランチっすよね。その後は夜のイメトレでもします?」
「いや。休憩は休憩できちんと取る。夜の予約、気を遣う席なのは確かだが、そんなの今日が特別なわけじゃない。いつも通りでいい」
ヒュゥっと幸尚が口笛を吹いて、伊久磨の顔を見上げた。
「頼りにしてます。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「何かあったら指落とすのは俺じゃない、岩清水さんだ。さて掃除」
そっけなく答えて、キッチンを後にし、ホールに向かう。
幸尚も「今日は全面的にお任せしまーす!」と調子よく心愛に言って伊久磨の後に続いた。キッチンには関知しない、とことさらに見せつけるかのように。
――女性も同席しているし、893の仕事上の取引や接待を兼ねた席じゃないから、そこまで緊張する場面があるとは思わない。特に心配しているわけでもないんだが。
由春が「特別扱いするつもりじゃないが」と、夜の顔合わせの席に、心愛のサービス起用に迷いを見せた。
そこで、もともと責任を感じていた幸尚が「自分が」と声を上げた経緯だ。髪まで染めると言い出すとは思わなかったが、「佐藤に合わせて、なんとなく」と本人はおどけていた。腹の底は知れない。
心愛の体調が傍目にはよくわからず、また客席で倒れることがあったらまずいという認識は伊久磨にもあり、決定に異存はない。
(ゆきから佐々木さんへの説明は、可愛げがなかったとは思うけど)
三人でかばったなんて言ったら絶対に納得しないのは知っていたが。
それでも、喧嘩を売る必要はないとは思う。
もっとも、腕が鈍らないようにというのは案外本音かもしれない。
彼らは彼らで自分たちの仕事をまっとうしようとしている。
伊久磨も、自分の仕事をするのみだ。