打ち合わせ
佐藤家・田中家お顔合わせ。
(……偽装?)
予約の名前を眺めてまず思ったのは、893はレストランに予約を入れるだけでも偽名を使うのか、ということだった。
「えっと、うちが佐藤で相手が田中です。間違いないです」
幸尚の友人であるところの佐藤におどおどとした調子で言われて、伊久磨は失礼ですがと再度確認してしまう。
「龍崎さんとか、熊野御堂さんとか、そういう強めでゴツイ苗字じゃなくて?」
「佐藤と田中です」
ランチタイム後。客席で向かい合って座って、伊久磨は「そうですか……」と頷いてみせた。
「蜷川君、普通に失礼だよ。本当に失礼」
「いや、だって『鳳凰会』なんていうから。俺、手書きで領収書って言われた場合に備えて『鳳凰』書く練習しましたよ」
テーブルの上で、指先でさらっと書く真似をした伊久磨の腕を、横に座った心愛がぺしっとはたいて中断させた。
「すみません、佐藤様。お話を続けましょう」
「いやあの。本当に、こちらこそすみません。面倒事を持ち込んでしまったみたいで……」
しゅんと項垂れたのは幸尚と年齢の変わらない二十歳そこそこの青年。黒すぎる髪は染めたばかりのようだ。
自分より年下の人間が結婚という人生の岐路に立っているのをどこか不思議な気持ちで眺めつつ、伊久磨は口を開いた。
「確かに『海の星』としては、この件をきっかけに今後『鳳凰会』御用達になるのはお断りです。ご利用は今回限りでお願いしたいのが正直なところです。その点に関しては、佐藤様が今後『鳳凰会』のファミリーに加入するにあたり、発言権を得ることで食い止めてください。海の星は広告を打っていませんし、口コミとリピーターでもっているお店ですので、イメージは大事です」
ちょっと蜷川君、と心愛が再び伊久磨の腕をはたいたが、伊久磨はまっすぐに佐藤を見つめたまま目を逸らさない。
「はい。本当に、知り合いのいる店の名前なんか出すんじゃなかった……」
「そこはもう、こちらも覚悟を決めたところです。当日は精一杯のことはさせて頂きますので。ただ、お顔合わせというのは、人生でそう何度もあることではないはずです。ですので、事前に詰められるところは詰めておきましょう。備えあれば、ですよ」
そう言って、伊久磨は席を立った。
ランチの片付けを終えた幸尚がキッチンから顔を出し、佐藤と目配せを交わす。
その幸尚と、伊久磨はテーブルを二つ移動してぴたりと並べ、一続きの長いテーブルを用意してみせた。
「考え方として、キッチンに背を向けるこちら側の席は、エントランスから見ても手前にあたり、下座とみなされる可能性はあります。しかし、窓に面して庭の景色をご覧いただけるので、決して席として悪くありません。当店としては、こういう置き方をする場合、通常庭が見える方を上座とご案内しています。……ゆき、テーブルの位置を変えよう」
テーブルの縦横を変えてみて、長方形の短い辺が窓と平行になるように配置する。
「こうすると、より上座下座が鮮明になるかな。見たときに受ける印象で奥が上座で手前が下座……。今回の場合はどう考えるかなんですが」
「一般的にはどうすればいいんですか」
佐藤に問われて、同じテーブルについたまま見守っていた心愛が穏やかな口調で話し始めた。
「一般的に、というのは考えない方がいいと思います。お顔合わせって、家ごとの考え方に左右されるから、少なくとも店側から『これが正式のマナーです』と言うのは難しいです。たとえば、完全に結婚を前提として、結納も兼ねていて、その場で婚姻届まで書くような席もあります。こういうときは結納の考えに従って、『女性側がもてなす』という意味合いで男性側を上座とすることもあります。或いはもう、とりあえず『話し合い』とか。双方が全然納得していない状態で、冷ややかな空気の中、男性側が『順番が前後しまして』と女性側の親御さんに平謝りを始めて大荒れ、なんてことも。こういうときは女性側を上座とすることもあります。あくまで関係性や考え方が大切かと」
「順番……」
佐藤の言葉に、心愛はおっとりと微笑みかけた。
「女性が妊娠している場合などですね。結婚前に妊娠はどうかと考えるご家庭もあります。そうではなくても、そもそもどちらかのご家族がその結婚に反対していた場合でも、引っ込みがつかないわけですから」
優し気に話す心愛に、佐藤は縋るようなまなざしを向けている。
(佐々木さんのご家庭では、妊娠のことはどう捉えているんだろう)
今さらながらに。
帰って来る実家があったということは、家族は健在のはず。娘が妊娠して一人で東京から帰ってきて、相手と連絡を取らず子どもを生もうとしていることについて。
波風が立っていないはずがない。家庭に居場所はあるのだろうか。
職場の同僚が考えても仕方のないことを考えそうになって、伊久磨は思考を断ち切った。
「まだ妊娠はしていないと思います。ただ、結婚はしろ、と。もちろん愛ちゃんのことは好きなのでそれは嬉しいんですけど……。うちの親は結構びびっているというか」
「そうなりますよねえ」
その点に関してはフォローを諦めた様子で、心愛は微笑を深めた。
息子が曰く付きの相手の娘に手を出して、即結婚という話になっていると言われたら、親としては青天の霹靂だろう。
「だとすると、女性側を上座で『手を出してしまった』男性側が下座で、テーブルの配置は上・下はっきりわかるようにした方が良さそうですね。座り方としては、上座の下、下座の下で当人同士が向かい合って、男親同士、女親同士が向かい合うのが良いと思いますが……。ただ、今回の場合は上座の中央に女性側の父親、その正面に佐藤様ご本人様でしょうか」
伊久磨が意見を述べると、佐藤が「どうしてですか?」と悲痛な調子で言った。
テーブルの配置を眺めてイメージを広げていた伊久磨は、佐藤に視線を向けて答える。
「『びびっている』親御さんには荷が重くないですか。ボスの圧は責任取って自分で受けた方がいいですよ。ファミリーに入るんですよね?」
身もふたもない言い様に、佐藤が顔を歪め、幸尚が耐えきれなかったように小さく噴き出した。
「ニナさん、ひでぇ」
「ひどくない。普通だ」
幸尚に平然と返してから、その場のメンツに確認するように伊久磨は整理して話す。
「上座のボスから料理を出して、レディーファースト的に両家のお母様、佐藤様のお父様と田中様のご本人様、最後は佐藤様かな。サービスは二人で、ほとんど出す順番に時間差のない形で、目立たないように」
「料理のNGはないという話でしたが、お飲み物は? ボスがよく召し上がっているお酒の銘柄なんかは調べがつきましたか?」
すかさず心愛が佐藤に尋ねる。
あらかじめ、幸尚を通じてリサーチをお願いしていたのだが、佐藤は自信なさそうに言う。
「水割り……。なんか、悪そうな名前の……」
心愛と幸尚と佐藤の視線が伊久磨に集中する。この情報の少なさ、という空気の中、伊久磨は頷いてみせた。
「『魔王』じゃないですか」
「あ、それです!!」
ぱっと佐藤が明るい表情になる。幸尚が、ホッとしたように息を吐き出しながら伊久磨を見上げた。
見られていることを感じて、伊久磨は唇に笑みを浮かべて幸尚の耳元にさりげなく顔を近づけて囁いた。
「そこまで高い酒じゃない。やっぱりこれは料理で売り上げ出すしかないな」
「お任せします」
どうにでも、と言って幸尚は伊久磨に丁寧に頭を下げた。
お顔合わせの場合、本人同士が親を招くという発想で予約・支払いすることも多いけど、若い二人に安いお店を用意されてもメンツに関わるって親が出す場合もあるし、結婚が本決まり段階じゃなくて「おごられるわけには」と双方が言ってきっぱり折半もあるし、色々ありますよー、と心愛が佐藤に説明していたが「ボスが払います。庶民に払ってもらう気はないみたいです」と佐藤が答えたことで、ほぼ決まったようなものだった。
特別コースでとれ、とオーナーシェフが言っていたのだから、その通りにしてやる。
リスクがある分、絶対下手には出ないと当初から決めていた通り、伊久磨は打ち合わせを進めた。