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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
9 表と裏
51/405

スタッフミーティング

「シャトー・カロン・セギュール。仕入れの三掛けで」

 きっぱり言い切った伊久磨に対し、由春は腕を組んで椅子の背にもたれかかりながら「ボルドーなぁ」と思案顔になった。


「話が見えてないんですけど……」

 椅子の上で精一杯身体を小さくした幸尚が呟く。

「ええっと、たぶんそのワイン一本だけで六万円くらいかな。予算は聞いてる? 支払いは誰なの?」

 幸尚の隣に座った心愛が、苦笑しながら問いかけた。


 もはやその予約は受けるしかない、という話でまとまった翌日、閉店後。

 改めての作戦会議と称し、四人で客席に座って打ち合わせを始めたところであった。


 本当は、心愛は体調のこともあるので遅くまで残るな、と由春が厳命している。正社員ではなく時間給の扱いでもあるので、ダラダラ残られても迷惑だ、という反論しづらい理由とともに。

 心愛は心愛で、閉店の時間で仕事は上がったという建前で、クローズ業務には参加していない。ただ、どうしても気になるのか話し合いには参加したいらしい。


海の星(うち)としては、受けるだけでリスクが大きいご予約ですが、貸し切りにするのは、こちらの人員的な問題であるので、お客様に特別のご請求はできません。とはいえ、一席しかとらない分、売上はきっちり出していくべきです」

 伊久磨が言うと、幸尚が「ごめんなさい」と反射のように謝った。

「シャトー・カロン・セギュールなんて、普段は扱ってないよね?」

 心愛が、正面に座った伊久磨の顔を見て確認する。

「それ、どんなワインなんですか」

 気になっていたのか、幸尚も顔を上げて口を挟んだ。

 ああ、と頷いてから伊久磨はスマホを取り出して画像検索をする。


「『我、ラフィット、ラトゥールでもワインをつくりしが、我が心はカロンにあり』というセギュール侯爵の名言にちなんで、ラベルにハートが描かれているんだ。プロポーズの席で使うひともいるとか。本当は(たたえ)さんのお顔合わせの席に俺からの差し入れで出そうかと思って調べていたんだけど、アルコール控え目の要請がきたから」

 スマホを向かい側に座る幸尚と心愛に見せながら、ふと顔を上げる。

 同時に顔を上げて、視線がぶつかった心愛が、にこりと穏やかに微笑みかけてきた。

 何を言う間もなく。

 心愛はすぐにスマホの画面に目を戻して「可愛い見た目だよね。お値段は可愛くないけど」と楽し気に言った。

(両家で顔合わせをして、幸せな結婚、そして家族が増える)

 それはさしあたり、曇りなき、光が溢れる幸せな道。


 伊久磨は、水沢湛の人となりをよく知っている。

 椿邸で暮らしていた頃、椿香織(つばきかおり)の唯一の肉親であった祖父が亡くなった。体調を崩してから一ヶ月程度で、急死だった。職人として現役であり、会社経営の面でも業務を完全に香織の管轄に移行する時間がなかったこともあって、香織は心理的な負担だけでなく、業務的にも大きな問題に直面することになった。

 一時的に経営が荒れる。

 その覚悟で香織が事に当たっていたときに、兄弟子である湛が修行先から戻ってきて「店は俺が」と引き受けてくれたのだ。

 それだけでなく、椿邸に住み込みもしてくれた。

 おかげで、生活が崩れかけていた香織と伊久磨はいっぺんに救われてしまった。

 その頃の伊久磨は、一番ひどかった時期よりはマシになっていたが、香織が参っていたので、あわや共倒れという危機に陥っていたのだった。


 湛には少し口の悪いところがある上に、仕事の場では鬼のように厳しいということで、香織は「苦手」という態度を取っている。湛もそれを承知していて、香織に対しては決して馴れ合うことなく、どこか押さえつけるような物言いをする。

 しかし、本音の部分では香織も伊久磨も湛には頭が上がらない。

 湛はそこにも気づいてるくせに、恩に着せてくるようなところがない。


 その大恩人である湛と、由春の姉である和嘉那(わかな)が結ばれて、結婚や懐妊ともなれば、今の自分にできる最高の祝福をしたい。

 この先の道行きが幸せと輝きに満ちたものでありますように。 


 佐々木心愛は。

 生まない選択をできなかったがゆえに、きっとひとりで子どもを生む。

 由春はそれを、会社として全面的にバックアップすると明言した。おそらくその言葉にも心にも嘘がない。由春にとって心愛はきっと、かつて苦楽を共にした仲間であり、今現在は加入が望ましい戦力であり、人間として絶対に守るつもりだ。

 それでも、家族になれるわけじゃない。あくまで仕事仲間の一線を越えないだろう。伊久磨に「同情はするな」と言ったのがその決意の表れだ。

(仕事があれば、親子二人で生きていくことはできる。俺や岩清水さんに出来ることは会社を潰さないこと。売上を伸ばすこと。佐々木さんの働く場を確保すること)

 中途半端な同情ではなく、日々の自分の仕事をきちんとこなして、働くことで守るしかない。仲間ならば。


 お顔合わせや、記念日。プロポーズ。

 この業界(レストラン)で働く限り、きっとこんな場面には何回も出会う。

 そのたびに複雑な顔なんかしていられない。たとえ湛のような間柄の知人でなくとも、この店で祝い事をすると決めたお客様には、心の底からの笑顔で接客を。


「とりあえず情報収集だな。最低限アレルギーやNG食材は押さえておきたい。それだけ気を遣う席で、土壇場での変更は痛い。後は飲み物の好みも。シャトー・カロン・セギュールでもいいし、オーパス・ワンでもいい。相手が用意しろと言うものを手配すればいい。俺もそれに合わせて組み立てる」

 由春が言い、幸尚が「オーパス・ワン?」と小声で聞いて来たので、伊久磨は唇の端に笑みを浮かべて「シャトー・カロン・セギュールの三倍くらい」と答えた。


「ゆき、予約の詳細は俺が詰めるからその友達の連絡先を。料理の出す順番、そもそも席の上座や下座はどう考えているのかも聞いておきたい。もちろん予算や支払いの件もだな。なんだったら一度下見に来てもらった方がいい。食事するならランチに予約を入れて、アイドルタイムに打ち合わせをするのが良いかな」

「なんかほんとすみません……。店にすごく迷惑かけちゃって」

 ずっと元気がないままだった幸尚が(こうべ)を垂れる。

 いかにもしおれた様子を見て、由春が「べつに」と言って席を立った。


「伊久磨がせいぜいふっかけるつもりみたいだから、やらせておけ。食事は一人二万円の特別コースで。もちろん税とサービス料抜きでの価格な」

 無茶苦茶言うなあ、と笑いながら伊久磨は由春の背に向かって声をかけた。


「当日もし何か粗相があって、指を落とせと言われたらシェフ、頼みますよ。そこはやっぱり責任者として」

 頭を抱える幸尚。

 その様子を見て、心愛は楽し気に笑っていた。



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― 新着の感想 ―
[一言] 893やさん御来店~!! あらーこれは大変! だが読者としては楽しみと言わざるを得ぬ……! 頑張れ、皆´ω` )/♡ 明日も楽しみにしてます♡♡
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