災厄は突然に
キッチン全体が暗雲に包まれていた。
もちろん比喩だ。
清潔第一、衛生観念に厳しいオーナーシェフ以下、スタッフ一同掃除に手を抜くことなどない。ステンレス台含め、冷蔵庫の扉から換気扇までいつだってピカピカの鏡面みたいに輝きを放っている。
しかしそれとは別にいま、ひどく重い空気が場を支配していた。
誰も何も言わない。
岩清水由春は頭を抱えている。文字通り、右手で額をおさえて、しばらく固まったまま動きを止めていた。
佐々木心愛は「ああ~」と言ったっきり、苦笑めいた表情でステンレス台に寄りかかっている。
なお、閉店後に、浮かない顔で本日の問題を切り出した真田幸尚は身の置き所がないのか、裏口の手洗い場付近で小さくなっていた。
「とりあえず、その日はまだお席のご予約を頂いていません。貸し切りにすることは可能です」
黙っていても先に進めないので、蜷川伊久磨は現状を伝えた。
目が合った幸尚が、「ごめんなさいごめんなさい」と言わんばかりに小さく首を振って頭を下げてきた。
「いずれにせよ、やるしかないんじゃないかと思うんですけど。シェフ?」
心愛が由春に決断を促す。
由春は、なおもざらついた顎を手でおさえて、考え込んでいる。
その深刻な様子から、事態の面倒くささはよく伝わってきて、伊久磨は一応言うだけ言ってみた。
「暴対法とか、そういうのをタテにお断りできないんでしょうか」
う~ん、と呻き声を漏らしてから、由春がようやく口を開いた。
「893じゃねえんだよな……。フロント企業っていうのかな、真っ当な会社は市内にいくつもある。たぶん、系列だって知らないで普通に働いているひともたくさんいるはずだ。なんかちょっと上の方がおかしいな、くらいは思っても、堅気相手の仕事では滅多なこともしないだろうし」
「海の星も堅気ですが」
「まあ、な。基本的には関係ない。『鳳凰会』通称フェニックスなんて言われているけど、市内の繁華街の裏側を仕切ってはいるが、無関係な店に手を出すほど無節操じゃない。うちも飲食とはいえ、まったく関係はないし、難癖つけられたら暴対法もある。ただ、普通の食事を普通に申し込んできただけだからな……」
言うだけ言って、溜息をついた。それから、伊久磨をちらりと見た。
「俺は普通に料理するだけだが。表に立つ奴がきついぞ。893の接客なんかやったことねーだろ」
伊久磨はぴくりと片眉を動かして、由春をまっすぐに見る。
「じゃないって言ったくせに。結局893なんですか」
由春は、両手で何かを表現するようにろくろをまわす仕草をしてから、結局溜息。
「実質同じだ。俺も店出すときに、何人かにフェニックスには気を付けろとは言われている。関わらなければ関わらない方がいい相手だ。できれば縁なんかできない方がいい。おかしな接客をすれば指落とされるかもしれないが、気に入られて常連になられても他のお客様に言い訳が立たない」
指落とされる。
(それ、俺が? それともオーナー責任として岩清水さんが?)
いざとなったら由春を差し出そう、と心に決めたのは包み隠して、伊久磨はなおも確認した。
「他のお客様に、というのは……。それほど見た目に特徴が?」
「見ればわかる。空気が普通じゃない。他のお客様にも伝わるし、うちはあれだ。会社経営とか医者とかそういったお客様も多いから、裏社会的な意味合いでフェニックスのことを知っている人も多い。知り合いになりたくないという理由で足が遠のくお客様も絶対にいる」
市内の裏社会に幅を利かせている組織なんて、ごく普通の一般人である伊久磨には初耳もいいところだったが、知る人ぞ知るということらしい。
とはいえ、由春が店を出すときに忠告を受けたということは、飲食業の経営者などにはほとんど常識のような話なのかもしれない。
「今いるお客様が離れるのは、はっきりマイナスですね。というか、『鳳凰会』が出入りすることで『海の星』がその傘下にあるという誤解に繋がる恐れもあるわけだ。噂になるのもまずいレベルじゃないですか」
伊久磨のその一言に由春が頷き、辺りは再び静寂に包まれた。
居たたまれなさの極致に至っていた幸尚が、悄然として「本当にすみません」と呟く。
由春が視線を向けた。それから、伊久磨を見る。視線を絡めてから、再び幸尚に顔を向けて言った。
「責めてない。運が悪かったとは思う」
事の発端は、幸尚が友人のお顔合わせの席の予約を頼まれた、と言い出したことだった。
まだ若い幸尚の遊び友達ということで、格式あるレストランなども知らず、知り合いである幸尚の勤め先しか思いつかなかったというのである。そこまではいい。そこまでは微笑ましい話であった。
だが、その相手が。
「大通りの飲み屋で一緒に飲んで意気投合した女の子で……。家に遊びにおいでよって誘われて。独り暮らしだから大丈夫っていうその『家』が雑居ビルのワンフロア。しかもビルに入っているのが全部フェニックスの関連会社。その時点で相手が誰か気付けって話なんですけどね……。一晩過ごして朝起きたら、真っ白のスーツにサングラスのオッサンが待ち構えていたって」
市内の裏社会を仕切るフェニックスのボスの娘に手を出してしまった、という。
幸いと言って良いか定かではないが、娘はその幸尚の友人のことをたいそう気に入っており、結婚したいと言い出した。ボスもそこは反対せずに「結婚させてやる」と言っているらしい。
それならそれでフェニックス関連の店で両家お顔合わせでもなんでもすればいいのに「店はお前に任せる」などと言われ、幸尚に泣きついてきたという経緯だった。
レストラン「海の星」としては、完全にただの巻き込まれだ。受ける義理もないし、断ってしまえばいい。
ところが、幸尚の友人が先走って「『海の星』なら知り合いがいるので」と相手に名前を出してしまった後なのだという。
この状態で断ると、確実に相手の心証を損ねる。最悪、それは致し方ないと割り切ることはできるが、最悪のさらにランク上の想定できる中では最上級悪として「当日予約してある体でフェニックスのボス親娘と幸尚の友人家族が店に来る」ということが考えられる。
むしろその想定でいた方がいい。
つまり、予約は断れない。
「やるしかないんじゃないですか」
誰かが言わないといけないので、先程心愛が言ったセリフを伊久磨も言ってみた。
「わたしも、前のお店でまったく経験がないわけじゃないし。そういう感じのお客様、たまーにいたから。もちろん得意ではないけど……」
経験者として、心愛がそれなりに頼りがいのあることを言う。
「料理を誰から出すかとか、ものすごく難しそうですよね。お顔合わせということでご本人同士は最後としても、接待のような想定でボスから出すのか。だけど、男性側の親御さんを下にする感じもまずいでしょうし。西洋風にレディファーストで両方のお母さまから出すのか。或いは……」
そのテーブルで誰を優先するのか、というのは人数が多く、かつ関係性が複雑な会食であればかなり重要な問題になってくる。
考え込んだ伊久磨に対し、心愛が何か諦めたような顔で、雑に提案した。
「もうさ、全員でホール出て、四人で同時にご両親にお皿を出していくしかないよね」
幸尚は、本当にごめんなさい、と隅っこで小さくなって謝り倒していた。