花筏
水面を埋め尽くす桜の花びらを手で示して、「『花筏』だよ」と椿香織は言った。
椿邸で迎えた春。
まだ満足に発声ができなかった。その頃、声は、一生出ないかもしれないと思っていた。日がな一日、柱にもたれかかって座り、しずかな闇の中にいた。
死にたいと思っていたわけじゃない。ただ、生きる意味がなかった。
いつまで生きていればいい?
この世に自分を繋ぎ止めるものが何もないんだ。
言葉はなく。
ぎりぎり触れない距離で、同じ柱に寄りかかっている香織の存在をときどき感じた。
いつの間にか現れて、毛布をかぶせてきて、自分も毛布をかぶって、朝までそうして二人で座って過ごしていた。
(俺はいいけど)
身体のどこもかしこも感覚がないから。だけど、一日仕事をしてきた後の香織にはきついんじゃないだろうか。布団で寝ればいいのに。付き合う必要なんかない。
どうせ声が出ない。何も言えない。呼吸しているけど置物と変わらない。人間として扱う意味もない。
どうして、何を、しているのだろう。
「音の無い夜は川の音がするだろ。今、桜がすごいよ。おいで」
あるとき、手をひかれた。
なぜ立ち上がり、ついて行く気になったのかはわからない。
縁側を開け放って、凛と冷えた春の夜気の中、香織の冷たくて白い指に手を掴まれたまま歩く。暗い色に沈んだ草木の間を横切って、敷地のぎりぎりにある木の柵まで。
柵は高い石垣の上にあり、真下には細い遊歩道、その向こう側に川が流れていた。
「あそこ。うちの並びの『セロ弾きのゴーシュ』の裏。桜の大木があるんだけど、この時期だけライトアップしているんだ」
香織が手で示したのは、数軒挟んだ距離の先。遊歩道に枝をせりだすようにして桜が咲き誇っており、光の中で花びらを散らしていた。
(心が何も感じない。綺麗なのか、うつくしいのか、わからない)
薄紅色の花びらははらはらと舞っていて、夜の底を流れる川に降り積もっていた。
「見える? 川の表面が桜に埋め尽くされているの。『花筏』だよ。ちょうどいま、俺も散る桜と水面を覆う花びらをイメージした菓子を作っているんだ」
声が出ないので、何も返せない。それはわかっているだろう、香織は小さく笑った。
「すごい痩せちゃったね。甘いもの好きだったのに。また食べられるかな。今度食べてみてよ。俺が作ったものでもだめ?」
誰が作ったとかじゃなくて。
意味がないんだ、何も。
花が咲くことにも、散ることにも意味がない。花筏という言葉だって、明日には忘れているだろう。
意味があると思っているのは香織が和菓子職人だからで、綺麗なものをその目にたくさん焼き付けているからだ。そしてそれを、自分の手で形にしていくのが仕事だから。
どんなに綺麗に作っても、食べてしまうのに。永遠に残すことは出来ないのに。
(意味がない……それでも)
食べたものは身体に溶け込んで命を生かすのだろうか。
そして香織は生きている限り、またこうやって、ただの人の形をした何か、言葉すら失った相手に語り掛けるのかもしれない。あれが花筏だよ、と。
自分がいまの状況から前に進めるかはわからないし、本当の意味で助かるかもわからない。
だけど、香織の優しさはわかる。助けようとしているのはわかっているんだ。
願わくば。
この先の未来で、香織が助けようと決めた人間が、正しく救われて欲しい。その気持ちに報いて、悲しませないで欲しい。
「見た目もいいけど、甘くて美味しいんだけどな。そろそろもっと食べなよ。手加減しないで口に押し込むぞ。作ったものを残されるのは、結構こたえるんだ」
まるで考えていることを見透かしたように、香織は笑って夜空を見上げた。
白くて顎の細い横顔の向こうに、花びらは舞い続けていた。
* * *
同情はするなよ、というのがオーナーシェフ命令だった。
佐々木心愛の現状は割と悲惨で、手を差し伸べたくもなるだろうが、無関係な人間が責任を負おうとはするな、と。
もちろんそんなつもりはないと言いたかった。が、(読まれてるなぁ)と思ったのも事実だ。
(人生の一時期、本当にどうしようもない期間があって、縁もゆかりもなかった椿香織に命を拾われている。自分もまた目の前に困っているひとがいたら、助けなければならないのではないだろうか)
それが生き延びた者のさだめなんて言うつもりはないけれど。
――お腹の子を生むかどうか、まだ決めていない。
そう聞いたときに考えたのは、生むなら何ができるかということ。
扶養に入れられるかな、と。
差し当たり家族が必要な時期に家族になることはできるかもしれない。書類上だけでも。
それは岩清水由春の言葉で言うところの「同情」であり、つまり不健全な方法での救済だ。
だが、それもこれも、心愛が「次の休みに手術の予定を入れたから」と言ってきたことで考える必要がなくなった。
いつの間にか、上着無しには出歩けない気候になっていた。
遊歩道を歩いて川面をのぞいてみても、落ち葉は浮かんでいても薄紅の花筏を幻視することもない。
椿邸と「セロ弾きのゴーシュ」の中間あたり、遊歩道沿いの石垣にわずかにくぼんだ空間があり、ベンチが置かれている。どうしようもなかった人生の一時期は、時々、そこで本を読んだり川を眺めたりしていた。
今は敢えて行こうとは思わないけれど、嫌いになったわけではない。
行くつもりがなかったのに、通りがかったら先客がいた。
声をかけようかどうしようか悩んで、遊歩道の端まで引き返して石段を上って商店街に行き、椿屋で一口サイズの黒糖饅頭を「あるだけ」買って来た。それから、意を決して、ベンチで座っている人の頭からばらばらと饅頭を降らした。
「え……、え、え、え、なんで? なんで? どこから!?」
完全に惚けていた相手には予想外の一撃だったようで、べちべちと容赦なく髪や頬に打撃を受けつつ、取り落とさないようにと饅頭を一生懸命手で受けようとする。
「饅頭? なんでこんなに? 何やってんの、蜷川君」
「疲れているときは甘いものがいいですよ」
「そりゃ嫌いじゃないけど、むしろ好きだけど。なんで……」
しまいに、秋色のロングスカートを手で摘まんで広げて全部そこにのせてから、心愛は呆然としてそれを見ていた。
「座ってもいいですか」
「どうぞ。饅頭もどうぞ」
「ありがとうございます」
進呈したつもりだったが、すすめられたので、セロファンをはがして一つ食べる。甘くてほんのり苦い。
心愛も一つ食べていた。そして「なつかしいなぁ……椿屋だ」と小さく呟いた。
「『ボナペティ』のメンバーということは、香織や樒さんとも顔見知りですよね」
「うん。そう。『ボナペティ』ね、ちょうどこの上にあったの」
ベンチに座ったまま、心愛は肩越しに背後を振り返って、石垣の上の方へと目を向ける。
「みんな若かったんだよ。ハルさんも……」
しばらく絶句してから、絞り出すように言った。
「戻りたいな……」
過去に?
心愛の目が、苔むした石垣と、切り取られた曇り空の先に何を見ているのかはわからない。
(戻れないですよ)
そこにどんなに光り輝くうつくしい日々があったとしても、過ぎ去った時間は戻らない。
「手術の後って、歩いて平気なんですか。なんなら明日はお休みでも……」
鈍色の、冷たい川に目を戻して伊久磨が言うと、心愛に腕を掴まれた。指が白くなるほど力が込められていて、上着に皺が寄って食い込んでいる。
さらさらと水の音がした。
できなかった。逃げて来ちゃった。
押し殺した声で、心愛が告げた。
返す言葉もなく、伊久磨はただ目の前を流れる川を見続けた。
そのうち、雲間から光が差したのだろうか、水面がいやにキラキラしていることに気付いた。
―― undying flower ――
遠くでチェロが鳴っている。
錯覚だ。樒がチェロを弾いているのを見たのは、ここ数年であの一度だけなのだから。これはただ、あの日奏でられた音色が、今も耳の奥で響いているだけ。
(同情してはいけないんですか)
摘み取られようとした新しい命が生まれるとして、何か出来ることはないんですか。
もっとも弱き者のそばに立つ。そういう生き方を選んではいけませんか。
「おいお前ら。そこで何してんの」
藪から棒に声をかけられて、伊久磨は遊歩道を歩いて来たひとに目を向ける。
茶色っぽい髪に、眼鏡。薄そうな黒のシャツの上に、カーキのモッズコートを軽く羽織っただけの姿は、どこにでもいる普通の二十代だ。
「こう見えて、何もしていないんですよ」
「こう見えても何も、普通に何もしてないようにしか見えねーぞ」
そう言いながら、伊久磨とは反対側、心愛の隣に腰を下ろす。「なんだこの饅頭」と言いながら一つ摘まみ上げて、一口で食べる。
飲み込んでから、何でもない口調で言い出した。
「生むのか」
ひくっと心愛がしゃくりあげる。声を殺して泣いていたらしい。そんな気はしていた。腕を掴んでいた力が弱まっていたし、手が震えていた。
誰も何も言わない。
心愛は、ひとしきり泣いた後で「もうやだ、戻りたい」と泣き濡れた声で言う。
その心愛の頭にがつっと腕をかけて、軽く自分の方へ引き寄せて、「同情を禁じた男」はきっぱりと言った。
「戻れるわけねーだろ。前に進むしかねーんだよ。どっちでもいいって俺は言ったはずだ。生むって決めたんじゃないのか」
「こわい。怖いよ……。生むのも生まないのも怖い。手術できなかった……っ。怖くて」
「人生なんてそんなもんだ。逃げられない場面なんかいきなり来るんだよ。怖がってどうするんだ。時期がくれば子どもは生まれるんだ。生んだら育てるんだ。お前が」
あああああ、と泣き出した心愛の叫び声を聞きながら、伊久磨は輝く川面を見つめ続ける。
(どっちでもいい、なんて)
父親でもなんでもないくせに、何言ってんだよ。
よっぽど言ってやりたかった。
泣き声がやや弱まった頃、「同情を禁じた男」が言った。
「社労士の星名先生のところに行ってきた。生む場合に会社として出来ること詰めてきたんだ。就業一年以上じゃないとそんなに保障する義務はないらしいが、やるなという意味じゃない。株式会社ステラマリスとしては、出来るだけのことはやる。だから、お前は働けるだけ働いて、後は気にしないで生んで育てろ。おそらく産後の復帰は二ヶ月とか恐ろしく早い時期になるだろうが、勤務時間その他諸々の待遇は考慮する」
何を言っているのか、心愛も伊久磨も考えてしまった。今日は本来なら手術ですべてが終わっていたはずで、それは無駄に終わる可能性が高かった相談事だ。
「会社……として」
呆然と言い返した心愛の、抱えていた頭を離して、オーナーシェフの岩清水由春は前方に目を向けたままにやりと笑った。
「俺社長なんだけど。忘れてねえ? 子どものおもちゃみたいな店、『ボナペティ』の岩清水にはなんの力もなかったけど、今は昔よりできることもあるぞ。だから、昔に戻りたいなんて言うなよ」
心愛は、感情の高ぶりがおさまらないようで、しゃくりあげて涙を流している。
「アルコールはダメですけど、生っぽい肉もだめみたいですね。ローストビーフとか」
伊久磨が言うと、由春は「重いものを持つのもだめだ」と言い添える。
それから、二人で泣く心愛を挟んだまま、両脇でひとしきりだめそうなことを言い合った。饅頭食べながら。
心愛の性格上、自分からあまり言い出さないような気がして。先回りして調べてしまったのだ。
しまいに、由春が立ちあがって見下ろしてきながら言う。大変偉そうに。
身体冷やすのもだめだろ。どっかで何か食うぞ腹減ったんだ俺は、と。
饅頭さんざん食っただろ、と言いそびれて伊久磨も立ちあがる。遅れて、心愛も立ちあがった。
ラーメンとか餃子にしましょう、普段まかないでも食べないしと三人で言い合いながら歩き出した。
章タイトル:Love the life you live.Live the life you love.=自分の人生を愛せ、愛せる人生を歩め。
人生ハードモードの伊久磨さんあたりには厳しい言葉かなと悩みましたが、愛せる要素もたくさんある人生だと思いますよ……。特に人との出会い。
この後も続きます。ブクマ評価感想ありがとうございます!
前回「実はここ数回ブクマも評価も増えていないどころか減っています」と正直に申し上げたところずいぶん応援いただきました!! ありがとうございます!! これを書いている時点でブクマ98 評価者37名ということで、だいたい評価者はブクマの一割と言われるなろう界隈では「評価者の割合ぱねえ」「読んでるひとは★してる」みたいな……超ぉぉぉありがたいです!!
注意事項としましては、一度評価してしまっている方は★をさわると評価が消えてしまいますのでそこだけは!!(笑
連作短編なので、いくらでも書けるし、いつでも終われるしと思っていましたが、この後も続けていきます~。