涙
お客様の前で、お姫様抱っこ案件発生。
「いや~。めちゃくちゃカッコよかったっすね。文句なしに騎士様ですよ。こう、一切躊躇なくお姫様抱っこして、腕ぷるぷるしたりもしないで『救急車』って。どんだけ冷静なのかっていう」
ただでさえ背が高く、姿勢が良く、職業柄清潔感もあって見た目の悪くない男である伊久磨が。
倒れた女性を抱き上げて、応急処置している姿といったら。
「完璧っすね。男! って感じ。あれはもう完全に惚れ直したでしょうね~。しばらくはおばさま方に通われちゃうんじゃないかな~」
夜の営業を終え、閉店後。
幸尚の臨場感溢れる状況説明に、頭を抱える伊久磨。
「スタッフの異変にかかずらってお客様のことを失念したのは大失態だけど。そんなにお姫様抱っこは強調しなくても。あれ、倒れたのが佐々木さんじゃなくてゆきでも、もちろんお客様でも同じことはしたと思う」
若い女性である心愛だからあの対処をしたわけではなく、目の前で人が倒れたら老若男女問わず同じことをしたと思う、と主張したい伊久磨ではあったが。
「またまた、ニナさん。そんなに力あるんですか。鍛えてるんですか」
幸尚に挑発されて一瞬考え込む。
それから、キッチンのステンレス台の脇をさっと通り抜けて、幸尚のすぐそばまで歩いて行った。そして、手を差し伸べると、ひょいっと幸尚を抱きかかえた。
「ええええええっ」
「問題ない。普段結構重いもの運んでいるから、長時間は無理でも、少しなら」
腕の中でばたばたと暴れる幸尚を見下ろしながら断言し、床におろす。
「うわー……、ニナさん見た目によらなーい。男らしーい……」
何やら呆然としながら、身体をかばうように両腕で自分を抱きしめている幸尚に、伊久磨は首を傾げながら言った。
「女には見えないと思う」
「そういう意味じゃないんだけど。は~……。これやべえ」
騒ぐだけ騒いでから、黙っている由春に視線を向けた。
「ハルさーん。ニナさんがやばいんですけど」
由春は由春で、なんとも言えない目でちらっと幸尚と伊久磨を見返し、すぐに顔を背けてしまった。
ノリ悪いなあ、と言いながら、幸尚は伊久磨を肘でつついた。
「ハルさんが抱いてほしそうに見ていましたよ。さっきのやってあげたら良いんじゃないですか」
「さすがにもういい」
その手には乗らないとそっけなく返してから、伊久磨はキッチンの奥の事務室に目を向ける。
――だいじょうぶ。本当に大丈夫だから。
紙のように白い顔、というのを見たのは初めてだった。そのくらい、一時期心愛の顔色は悪かった。そのくせ、救急車こそ呼ばなかったが、由春と伊久磨で「帰れ」と散々怒っても、夜の営業は働くと言って、実際にホールに出た。幸い、客の引きが早く、片付けとなった段階で再び由春が怒って下がらせた。
まだ帰っていないのは、本人なりに昼間の件について話し合う必要を感じているからと考えられる。
無論、ここまで来たら由春もそのつもりだろうし、伊久磨もそれは変わらない。
互いに軽く視線を絡めたところで、心愛が悄然とした様子でキッチンに姿を現した。
「俺と二人で話すか」
口火を切ったのは由春だった。口調はやや重かった。
「大丈夫。迷惑をかけたのはみんなにだから……」
意外なくらい、心愛の声はしっかりとしていた。
由春は目を伏せ、少し考えてから大股に歩き出し、心愛の横をすり抜けて事務室に入った。すぐに折りたたみのパイプ椅子を持って来て、がしゃんと広げる。
「座れ。また倒れるぞ」
「ハルさん」
「次は問答無用で救急車だ。座れ」
心愛は、由春を見上げながら椅子に腰を下ろす。
それから、ゆっくりと溶け崩れるように肩を落とした。
「ごめんなさい。迷惑をかけて」
腰に手を当てたまま心愛を見下ろしていた由春だが、その場にしゃがみこんだ。威圧感を軽減しようとしたのか、下から心愛の顔を覗き込んで、空恐ろしいほど確信に満ちた声で言った。
「何ヶ月だ?」
(意味がわからない)
質問として。前置きも何もなさすぎて。
ショックよりもただ現実感のなさを訝しむだけで、伊久磨は無言のまま二人を見つめてしまった。
「どうして……」
心愛も呆然としている。
しゃがみこんで膝を抱えたまま、由春は淡々とした声で言った。
「雇用関係で書類が足りなくて、佐々木の前の勤め先に連絡した。そしたら、いきなり辞めてまだ有休消化期間だって話だった。お前の性格上、そんな変な辞め方をするのは絶対に理由がある。そもそもなんで地元に戻ってきたのかもはっきりとは言わないし。あとは、料理や製菓用でもアルコールをまったく口にしない。この間の歓迎会のとき……、俺の姉貴が妊娠じゃないかって話が出たとき、お前変な顔してた。あとはだな」
思い出しながら話す由春に手を伸ばし、肩に触れて、心愛は力なく笑った。
「ハルさん、鋭すぎるよ。昔からだけど。見てないふりしてすごく見てるんだもん。嫌になる」
「悪いな」
短く答えて、へらっと笑い返す。
二人とも笑い合っているのに、どこか歪で、悪いことの前触れみたいな空気で、伊久磨は息も止めて見守ってしまっていた。
「その……。別れた後に気付いて。相手、同じ職場のひとで。付き合っていたのみんな知っているし。言えなくて。どうしていいかもわからなくなっちゃって」
由春の肩に手を置いたまま、心愛は話し始める。涙声だ。泣く。
由春はその場から動かずに、じっと心愛を見上げていた。笑うでも泣くでもなく、穏やかな顔をしていた。
「まだ決めてないの……」
生むかどうか。
掠れた声が、ひび割れて色を失った唇から漏れた。
「そうか」
由春は頷いて、少し間を置いてから、優しい声で言った。
「相手に言う気はないのか。どちらにせよ、連絡くらいはした方がいいとは思う。それとも、そんな話し合いもできない状況か」
「すぐには無理。気持ちの整理がつかなくて」
そこが限界だったらしい。
こみ上げてきたものを堪えきれなかったように、心愛はぐずっとしゃくりあげた。一度泣いてしまうともう止まらないのか、涙は後から後から溢れてきている。
しばらくの間、誰も何も言わずに黙り込んだ。しずまり返った空間に、ただ心愛の嗚咽だけが響いていた。
第八話「直感と理性」はこれにて終了です。
続けてssが入り、次エピソードに移る予定です。公開のタイミングは本人Twitterが最新、活動報告でもお知らせしています。
次はちょっと予想外な感じでいきたいのですが、さてさて。
早めにお届けできるように急ぎます(๑˃̵ᴗ˂̵)
ここ数話、実はブクマは増えてなくて(むしろたまに減る)評価とかも特に……でもめげないし書くしとここで呟こうとしたら、今回のエピソードで? どなたか★を。ありがとうございます!!
そして!! いつも感想ありがとうございます!
感想欄はネタバレ満載なので強くおすすめできないですが、読み応えのある感想揃いで楽しいですよ。たまにのぞいてみてください( *´艸`) 私も本当に参考になっています。
だけど自分自身は感想下手なひとで感想欄躊躇するタイプなので、一言感想とかも嬉しいです!