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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
46 バラの雨は降らない
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正しくなければ間違い?

「伊久磨が俺に言いたいことがあるように、俺だって伊久磨に言いたいことがある」


 それまで穏やかに耳を傾けていた香織であるが、伊久磨があくまで強硬な態度で主張を曲げないのを見ると、まなじりを吊り上げてやや強い口ぶりで言った。


「俺の今の生き方は、伊久磨がうちで一緒に暮らしていた頃から、それほど大きく変わっていない。そのときだって、いまの伊久磨みたいなことを俺に言うひとはいたよ。『君のためを思って言っている』『君が心配だ』だからあの得体の知れない大学生をさっさと追い出せ、赤の他人じゃないかってさ」


 得体の知れない大学生。赤の他人。それは香織に拾われた頃の伊久磨だ。

 伊久磨がぐっと言葉を呑み込み、言い返さないのを見て香織はわずかに、表情を和らげる。


「相手の言っていることは十分わかった上で、俺は聞き流した。べつに『役に立たない正論を言っている』とか『結局は自分が理解できないものを批判したいだけだ』なんて反発していたわけじゃない。相手の方が正しくて、自分は間違えているかもしれないと感じていた。それでも、自分がそのときするべきだと思ったことをした。俺はね、伊久磨。あの頃から本当に、変わってないんだ」


 変わったのは伊久磨だよ、とは言わなかった。


(言われなくてもわかる。俺は椿邸を出て行って、外側の人間になった。その立ち位置から、いまの香織の行動を受け入れることができなくて、通り一遍の批判をしている……)


 根底にあるのは「香織が一番大切だから」という思いなのは、間違いない。香織に犠牲になって欲しくないし、不本意な生き方を選んで欲しくない。

 他の誰が言わなくても、自分は言わなければいけないと信じていた。

 たとえ香織が伊久磨のことをどう認識していようと、少なくとも伊久磨にとって香織は親友であり、大切なひとであり続けている。これまでも、これから先も。


「香織の言うことはわかる。俺が言っていることも『心配の押し付け』だっていうのも、理解はしている。だけど、結果的に平行線のままで終わるとしても、『俺は香織を心配している』っていうことだけは、絶対に言いたい。言わない限り、香織の中では周囲の心配が『無い』ことにされそうだから。無くはない。俺は他人に偉そうなことは言えないし、時間もかかったけど、自分から椿邸を出た。だから……」


 言いたいことはあるが、伊久磨はそこで言葉を切る。


(藤崎さんは、香織の好意に寄りかかり、面倒事を先延ばしにしているように見える。それは、俺から見たらそうだというだけで……。俺も椿邸を出る直前くらいの時期は普通に大学にも行けていたから、他人から見たら「元気」だったはずだ。そこまでくるのに、実際は一年以上かかった)


 ここでエレナの行動ばかり槍玉に挙げるのは「自分に甘くて他人に厳しい」のだろう。自分だってひどい時期があり、香織に寄りかかっていたのにいまもう喉元過ぎたからと忘れてしまって、優柔不断なエレナを責める心境になっている。良くはない。


 ぐるぐる悩んでいる伊久磨を見て、香織はにこにこと笑いながら口を開いた。


「伊久磨が男で良かったなって思うんだよな。もしあのとき雪の中で拾ったのが女子大生だったら、俺はあのまま伊久磨と結婚していただろうって自分でも思う」


「……あぁ……」


 否定することもできず、伊久磨は手のひらで額を押さえた。即座に、ありえないと否定することができなかった。

 香織は反論されないことをわかっていたように、楽しげに話を続ける。


「あの時点で伊久磨が俺と結婚してくれていたら、今頃かなり人生が変わっていただろうな。伊久磨は椿屋の女将さんとしてうまく店をまわしてくれていたと思うし、子どもの一人や二人生まれて、家も『古くて耐震強度も心配だ』なんて話し合って、取り壊すなり改築するなりとっくに手を付けていた。そうならずに、俺が何年も経ったいまになっても生活含めて全然変わってないのって、伊久磨にも責任の一端はあるよな? そのへんどう思う?」


 さりげなく責任を問われた気がするが、「俺のせいじゃない」とはどうしても言えない弱みがある。伊久磨は考えながら答えた。


「それ、ひとから言われたことはある。『いっそ蜷川くんが女性だったら、難しいこと考えずにそのまま椿屋の一員になって、面倒なかったのに』って。椿屋のパートさんとか……」


 そんなわけないだろう、と思う。女性なら女性で、大きな問題があったはずだ。

 エレナが椿屋の古参パートや周囲のひとたちにどう受け止められているか、正確なところはわからない。だが、最近入社した柳奏とて、溶け込むのは大変だったはず。決して「女性だったら簡単だった」問題なんてあるわけがない。

 そう思う一方で、あのときの伊久磨はまさに進退窮まっていたので、仮に本当に女性で香織に「いつまでも椿邸にいてもいい。そうだ、結婚しよう」と言われていたら、そうなっていただろうというのは、直感的にわかる。


「たぶん、俺が女性だったら、男のときよりも間違いなく当たりはきつかったと思う。だけど、それをわかった上で、あの時点で結婚を選択していたら、俺は周りが認めるまで頑張っただろう。それで今くらいになったら『どれだけ反対されても香織が信念を曲げなかったのは、一目惚れだったんだな』とか『あのとき結婚した決断は正しかった』って事後承認されている頃かも。要するに、時間をかけても周りを納得させただろうというか」


 最初は困難だらけだったとしても、香織と二人で支え合って働き、私生活でも何気ない出来事に幸せを見出して――


 その光景を思い浮かべて、伊久磨は「ねえな」と呟いた。同時に、隣で香織も「ないだろうな」と呟いていた。

 ありえない仮定は、どうしても綺麗に思い描くことなどできない。二人が結婚して、家庭を築いている世界など、存在していないのだから。

 奇しくも意見の一致を見たところで、香織はカウンターの向こう側へと顔を向ける。


「樒さんも、ここはしっかり責任感じて欲しいんだよね。どうしていいところまで行くくせに、最後まで行けないのか、本当にわからない。手を出せない理由って何かある? いや、説明しなくていいけど。ここで男同士で藤崎さんの噂で盛り上がるのは、失礼だし下品だ。ただ俺としては本当に、本当に納得がいかなくて」


 香織が、何かしら樒を責めるようなことを言い出した。横でそれを聞いていた伊久磨は「だよな」という心境になる。責め方から、エレナへの執着や熱を感じない。


(やっぱり、恋愛じゃないんだ。香織から藤崎さんへの感情は)


 本質的に香織は、自分というものを手段か道具程度にみなしており、大切に考えていない。だから簡単に「結婚が必要ならする」と言えてしまう。


 香織と樒が何か言い合いを始めた横で、伊久磨は「感情が伴わない結婚は幸せになれないと言うのは、もしかしてナイーヴ過ぎるのか」と自問自答をする。

 それも含めて口出しは余計なおせっかいなのか? と気が弱くなりかけたところで、カラリと引き戸の開く音がした。

 柳奏だった。


(どうしてここに?)


 そう思いつつ、顔見知りではある伊久磨から、先んじて声をかけた。


「お疲れ様。おっさんたちが騒いでいてごめん」


 いえいえ、と奏が言う。

 会話に気づいた香織が、伊久磨の横で「えーっ」と声をあげた。


「何してるんだよ。仕事終わったらまっすぐ家に帰るんじゃないのか? 寄り道か?」


 とても口うるさいおっさんだ。嫌われるぞ、と思いながら伊久磨は香織に呆れた視線を流す。案の定、奏もいらっとした様子でまくしたててきた。


「まっすぐって、いま何時だと思ってるんですか社長は。いいじゃないですか、自分で稼いだお金で仕事帰りにコーヒー飲むくらい。べつに社長に用事があるわけでもないですし。私が、わざわざ社長のことを追いかけてきたとか思い込む自意識過剰は、やめてくださいね。用事があるのは、樒さんなので」


 ツンツンとした調子で言ってから、奏は樒へと笑顔を向けた。

 まるで来るのがわかっていたかのように、樒も奏へ微笑みかける。


「お疲れ様。立ち仕事大変だよね。まずはゆっくり休んで。アイスコーヒーでいいかな」

「はい!」


 和やかに話してから、奏はテーブル席の方へと行った。

 その背を見送ってから、香織は樒へと向き直って、かすかに目を細めた。睨んでいるようにも見える。


「うちの若いのにちょっかい出すのはやめて欲しいんだけど。いま仕事に慣れ始めた大切な時期だから」

「べつに、勤め先の社長の許可が必要なことは何もしていない。どうした、香織」


 アイスコーヒーの準備をしながら、樒がしれっと答えた。

 香織は傍目にもむすっとしたように見えたが、それ以上食い下がらずにアイスコーヒーを飲んでいる。


「……えっ?」


 思わず、声に出た。


(藤崎さんの件より全然感情的になってるよな……? えっ、大丈夫なのか香織。これ……)


 伊久磨は、テーブル席の奏を見て、カウンター奥の樒を見てから、依然として憮然としたままの香織を見た。

 そして、疑念を深めることとなった。

 間違いなく、香織の中ではエレナの件よりもこっちの方が大きいのではないかと?

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エレナさん……!!(ブワッ)
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