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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
46 バラの雨は降らない
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何か問題でも?

 ランチ客が引けてもクローズすることなく美術館の閉館までミュゼの営業は続くが、伊久磨は「もうここはいいから椿邸へ行っていてほしい」と聖から言われた。

 時刻は十五時。


(椿屋はまだ営業中だけど、早朝から工場に入っているなら香織はそろそろ仕事から上がってもおかしくない時間だ)


 聖が「さっさと行け」と伊久磨を送り出す理由はひとつ。

 ちょうどエレナが調理師学校が終わって椿邸へと帰ってくる頃だから、という。エレナは本日定休日の「海の星」へバイトに行くこともないので、このままだと聖が帰るまで仕事上がりの香織と二人きりになる。それを防いで欲しいのだと。


 聖の観察によると、二人の仲が同居半年過ぎた今になって突然、微妙なものになっているというのだ。

 喧嘩や冷戦ではなく「著しく近づいている様子」で。


「何も悪くないけど西條さんが気にする理由もわかる」


 過去の一時期、恋人同士だった二人だ。別れてから一緒に暮らし、半年過ごす中で気持ちに変化が起きたというのも、決してありえないことではないと伊久磨は思う。

 しかも客観的に見て、香織とエレナは交際から結婚に至るとしても互いに大変条件の良い相手だ。


(家族がいなくて不安定な香織と、縁もゆかりもない土地で学生とバイトという生活をしている藤崎さん。精神的な意味でも経済的な意味でもこのまま同居を続けたほうが良い間柄で……、結婚はものすごく手っ取り早い)


 この先、聖が椿邸を出て暮らすというのなら、なおさら曖昧なままではいられない二人だ。結婚は、大変めでたいことのように考えられる。

 なのに「良かったね」と素直に祝えない気持ちになるのはなぜなのか。

 美術館の外に出てからすぐ、伊久磨はぐずぐず考えるのをやめて香織へ電話をかけた。


 ――おつかれ。伊久磨? どうした?


「お疲れ様。どうもしてない。香織は?」


 ――おお? なんだそれ。俺は元気だよ。今日は「海の星」定休日か。えっ、まさか暇してる? 新婚なのに?


「暇はしてない。今日はミュゼの応援に入っていたけど、落ち着いたから上がってきた。香織は仕事終わってるか? 出てこれそう? 来れないなら俺が今からそっちへ行く」


 ――俺も仕事は上がったところ。俺が出るのも伊久磨が来るのも大丈夫だけど。えーと……どうするかな。昼飯食ってる? ミュゼは忙しいんだろ?


「西條さんが食べるのは見届けてきた。俺が抜けるとひとりになるから、その前に休憩とってもらって。俺はこれから。飲むのも食べるのも中途半端な時間……。ああ、いいや『セロ弾きのゴーシュ』でコーヒー飲もう。いまから向かう、香織も」


 ――コーヒーと軽食だけならわざわざ樒さんところじゃなくても良くない? というか、樒さんに相手してもらうつもりなら、俺はいらないんじゃ。


「いる。香織が必要。俺はミュゼから向かってる、十分くらいで着く。また後で」


 腹の探り合いが面倒になり、伊久磨は電話を切ると、川沿いの道を急ぎ足で進んだ。

 暑い。六月はもう、真夏の気温だ。

 ミュゼに出社してから、ほぼ飲まず食わずの状態であったことに気づく。うだるような熱気と太陽の直撃は、ひと仕事を終えた体になかなか厳しいものがあった。

 早く屋内で涼みたいと思いながら、「セロ弾きのゴーシュ」を目指して歩き続ける。


 香織に会ったら何を話そうかと一応考えてみるものの、伊久磨としては考えれば考えるほど「問題は香織なのか?」と首をひねる気持ちもあった。


(俺は西條さんにいいように使われているだけじゃないか。館長とお付き合いしている西條さんは、藤崎さんの交際関係についてとやかく言う立場にないよな。静香は、俺と結婚するにあたって香織と「異性の友だちだから」とぐずぐず言い訳しないですぱっと関係を断ったぞ。西條さんがいま気にするべきなのは、藤崎さんと香織じゃなくて館長と自分のことじゃないのか?)


 聖の交際相手である野木沢まどかからすると藤崎エレナの存在は「元同級生で亡き妻の親友だ」と言われても、まさに目の上の瘤のはずだ。聖に「付き合いを絶って欲しい、一緒に暮らしているなんてひどい」とまどかからは言いにくいだろうから、辛い思いをしているかもしれない。


 それならば、いっそ香織とエレナでまとまってくれて、聖はさっさと椿邸を出たほうが、収まるところに収まった安心感があるはずだ。

 そこに聖が待ったをかけるのは、まどかに対して不誠実であるように思う。


(……でも、藤崎さんに対して一切感情のない俺も、あの二人の組み合わせには妙な危機感を覚えるから……西條さんが「香織の友人として」藤崎さんは違うんじゃないかと思うのも、感覚的にわかってしまうんだよな)


 伊久磨はどうしても香織側の人間であり、その立ち位置からエレナに対しては「任せられない」という気持ちは申し訳ないが少しだけある。だから聖が二人の友人として「あの組み合わせはちょっと無い」と口出ししたくなるのも、理解はできてしまうのだ。


 あくまでプライベートのことで、大人なのだから勝手にしろと思いつつ、椿屋は屋台骨の湛が育休で抜ける時期であり「海の星」は二号店のミュゼの負担が大きいタイミングだ。


「いま何かあったら困るんだよ。そこも含めて『大人なんだから』なのはわかるんだけど」


 ひとまず自分にできることはなんだ? と考え、香織の考えを聞くことだと無理やり割り切る。

 あの聖が交通整理のひとつもできないで戸惑っている件に対して、自分がずばっと解決策を出せると思うほど楽観視はできないが、こうなっては仕方ない。


 香織が本気なら良い。選んだ道を行けと言い、二人で幸せになってほしいと祝福する。


(だめな場合……だめな場合ってなんだ? 遊びとか? 遊ぶにしてももう少し相手を選べって言うのか。というか、二人とも遊びなら? いや、近すぎるだろ……)


 ぐるぐる考えながら商店街の入口にさしかかったところで、不意に声をかけられた。


「蜷川さん?」


 あっ、と伊久磨は声の主へと目を向ける。

 調理師学校帰りらしい、エレナがそこに立っていた。涼し気なノースリーブと細身のデニムにサンダル。知的な印象で落ち着いた雰囲気の、上品な美人だ。

 香織の相手としてちょっと不安だな、と失礼なことを考えてしまったことに伊久磨は罪悪感を覚えつつ「お疲れ様です」と挨拶をする。


「お疲れ様です。今日はミュゼに入っていたんですよね? お客様の引きが早かったんですか」

「そうでもないんですが、西條さんがもういいからと。ただ予定より早く上がったので、香織とお茶でも飲もうとしていました」

「お茶……こんな昼間から珍しいですね。新婚さんだから、夜は時間がなくて?」


 椿邸までもう少しという距離であり、自然と歩きながら話すことになる。


「それもある……かな? 早めに話しておきたいことがあって。時間があるときに直接話した方が良いかと」


 伊久磨は、仕事上がりと暑さのせいでいつもより短絡的思考になっていた。


(香織と藤崎さんのことなんだから、こそこそ香織に事情聴取していないで、藤崎さんに聞いてしまっても良いんじゃないか?)


 職業柄「空気を読む」のは不得手ではないものの、根回しなどは苦手な性格でもある。今回は、あの聖が妙に慎重になっているのは気にかかっていたが、彼らと一緒に暮らしているわけでもない伊久磨はむしろ「慎重になりすぎない」くらいで良いのではないか? と考えた。

 思ったそばから、さくっと聞くことにした。


「香織じゃなくて、藤崎さんでもいいんですが。いまって、二人はお付き合いしていますか?」

「ええっ、付き合ってません!」

「じゃあ、遊びの関係ですか?」

「遊んでも……いないつもりです……! ふつうに仲良くはしていますが……え、これ、なんの確認ですか?」


 もっともな質問に対して、伊久磨は少しだけ考えてから、答えた。


「西條さんが、館長とお付き合いしているようなので。藤崎さんはどうするつもりなのかという確認です。いずれ西條さんは椿邸を出るかと思いますが、香織と藤崎さんの二人だと『同居』と言うのも難しいですよね。調理師学校は来年の三月までありますし、『海の星』も藤崎さんを戦力に数えています。ただ、バイトなのでさほどの賃金はお支払いできていません。社宅も用意できませんので、藤崎さんが椿邸を出るとなったときに、会社としてどう対応するかという問題があります」


 すらっと口をついて出た言葉に、伊久磨は言い終えてから「現実問題、それだよな」と自分で納得した。

 しかし、エレナはなんでもないことのように自分の意見を口にする。


「同居は、べつに難しくないです。これまで半年、問題なく続けて来れたわけですから、あと一年くらいは。世間体なんて気にしなければいいんです。その……、香織さんの世間体に関しては気にしますが。私と違い、地元で、ずっと住み続けるわけなので」


「あーなるほど……」


 納得してはいけない気がしたが、椿屋に着いてしまったので話はそこでなんとなく終わってしまった。

 椿邸に通じる木戸に手をかけながら、エレナは「椿邸で待ち合わせですか?」と尋ねてくる。


「いや。俺が飯食ってないし時間も中途半端だから『セロ弾きのゴーシュ』に行く予定で」


 エレナはにこりと微笑むと「そうですか」と言った。


「では私はここで。ごゆっくりどうぞ。明日、仕事で」

「はい、また明日」


 ぱたん、と目の前で木戸が閉まる。

 それを見てから、伊久磨はふとガラス戸越しに椿屋の店内に目を向けて、柳奏が働いている姿をぼさっと見つめた。気付いた奏が「なに?」と言っているように見えたが、用事はないので会釈だけにとどめて、並びの数軒先にある「セロ弾きのゴーシュ」を目指して歩き出した。


(西條さんの勘違い……? なんだろう、何も問題がないような気がした。そんなわけあるか?)


 化かされたような気持ちで「セロ弾きのゴーシュ」の引き戸に手をかけたとき、ふと伊久磨は胸騒ぎを覚えた。

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