仕事中につき
「いや~、料理がすごく美味しかったです。本店の方はよく名前を聞いていたんですけど、一度行こうと思っているうちに行きそびれていて。いいですね、こういう気軽に入れるカフェスタイルは」
レジに立っていた伊久磨は、支払いを終えた男性客から話しかけられた。
年齢は由春や聖と変わらないか、少し上くらいだろう。短く整えられた髪や、シャツにジーンズのラフな私服姿には、清潔感がある。
平日の昼間で、連れはなく男性ひとりでの利用。
(同業者かな。食事中、西條さんの動きも気にしていた)
伊久磨は、レジ横に置いてあった名刺サイズのショップカードを手渡す。「海の星」の簡単な案内図と電話番号や予約用のQRコードが印刷されているものだ。
「ありがとうございます。本店も、機会がありましたらぜひ」
相手はショップカードを手にしつつ、ちらっとキッチンに立つ聖へと目を向けた。その動きで、伊久磨は確信を深めた。
(やっぱり同業者だろうな。シェフと話したいとか、挨拶させて欲しいっていまにも言いそう)
先回りして「シェフですか?」と伊久磨から確認して聖に声をかければ、聖も気さくに応じるだろう。
ただ、そういった小さな横入り作業の積み重ねがキッチンスタッフの体力を削ることにも、伊久磨は気づいている。
入社したての頃は、右も左もわからず、自己判断よりは上司に任せるべきだと考えて小さなことでもいちいち由春に確認をしていた。気になるところを見つければ「見てください」と呼び、お客さんがシェフと話したい雰囲気なら気が利くつもりで「挨拶をさせましょうか?」と声をかけて由春を呼んでいた。
小さな店なのだから、それでお客さまが喜ぶならサービスの内だ、と考えていた時期もある。お高くとまっていると言われるよりは、全然良いだろうと。
そのことを由春から注意されたことはなかったが「海の星」が忙しくなった頃、年配の男性客から釘を刺されてハッと気づいた。
――キッチンが余計なことに煩わされないよう、客の要望に応えるのは君の仕事なのでは?
言われるまで、まったく考えつかなかった。注意してくれる先輩もいないから、疑問に思うこともないまま由春に寄りかかるような仕事をしていたのだと、そのときようやく理解した。
(藤崎さんが加わった後、ときどき「もう少し聞いてくれれば」って思う部分もあったけど、もともと社長秘書をしていたというから、藤崎さんの中では当たり前なのかもって納得したよな。たぶんあれが社会人として普通。ある程度の裁量を持った上で、必要なことを上司に伝え、それ以外の部分を自分で処理するというのは)
新人の自己判断はハラハラするものの、その場で判断できない人間がホールに立っていても仕事にならないというのも事実だ。ゲストと接している時点で自分は「店の顔」であり、料理の説明ができるのと同じように店のことについても答えられなければならない。
だからこそ、「ゲストがシェフと話したそうにしている」と気づいても、変に気を回して聖につなぐ前にまず自分が要件を確認しなければと今は考えている。
このときも、さりげない調子で男性客へと声をかけた。
「何かお気づきの点がありましたでしょうか?」
ん? と伊久磨を振り返った男性は、値踏みするような目で伊久磨を見て、口を開く。
「君はバイト? カフェの」
ミュゼのオープンに合わせて入った新人か? という確認の意味と推測しつつ、伊久磨は笑顔で応じた。
「普段は本店にいます。オープンの準備から携わっておりますので『海の星』のことであれば、なんでも聞いてください」
そこで男性客が「おっ」という表情になる。初めて、伊久磨を話し相手として認識した様子だ。慣れた反応であるので、いちいちプライドが傷ついたりはしない。
(うん。わかりやすく同業者だな……。雇われというより、経営側。西條さんの引き抜きなら無理です)
聖自身は器用で、性格的にも仕事であればこだわりなくなんでもするタイプであるが、いかんせん経歴が際立っている。本来「そのへんにいる、ちょっと光る人材」どころではない。受け入れ側の規模によっては、それなりの待遇を用意しなければ、周りと余計な軋轢を生むだろう。
その意味でも、変な希望を持たれない程度に対応しようと方針を決める。
男性客は言葉を選ぶように瞬きをしながら、伊久磨にショップカードを見せて「これよりも」と言った。
「名刺。ある?」
「ございます」
エプロンのポケットから名刺入れを取り出して、伊久磨は差し出した。
ミュゼのオープンに伴い、会社の体制を見直したときに作り直していて「マネージャー」の表記がある。小さな会社とはいえ、役職名をつけておいた方がいざというときに使えるという判断で、由春からは「店長でも支配人でもいいぞ」と言われたが「オーナーシェフと支配人はどっちが上? とかお客さんに聞かれそうなのでいいです」と伊久磨が断り、現在の表記に落ち着いている。
実は昇進しているのだった。
「へぇ。マネージャーさん。オープニングスタッフなら、若くてもそうなるか。たしか、社長さんも若いんですよね」
「本店のオーナーシェフ岩清水であれば、まだまだこれからの年齢かと。料理に関しては、二十代の前半にヨーロッパ各国を巡って、びっしり修行を積んでいます」
「そうそう、すごい経歴だって噂は聞いている。ワインにも詳しいのかな」
「一通りは。事前に打ち合わせて、お客様のご要望に沿ってワインを仕入れて、料理も特別コースであわせることもあります。ただ普段は手頃な価格帯で揃えていますし、国産ワインにも注目しているのでワイナリーに話を聞きに行くこともあります」
伊久磨が淀みなく答えていると、相手は目を輝かせて「これは僕の名刺なんですが」とポケットから財布を取り出し、名刺を差し出してきた。礼を言って受け取り、さっと確認をする。
(月の舟酒造 代表取締役 沼倉……日本酒作りの社長。月の舟酒造は聞いたことがあるな)
日本酒の営業かと理解したところで、愛想よく言われる。
「市内で日本酒を作っていて、このへんならスーパーにも置いてもらってます。料亭やレストランにもいくつか。『海の星』さんはどうかなって思っていたんですけど、今度オーナーさんとうちに見に来てもらえませんか? ぜひ案内をしたいです」
「ありがとうございます。岩清水にもよく伝えておきます」
「沼倉の名前で、近い内に本店の方へ予約入れさせてもらいます。蜷川さんのいる日に」
伊久磨から受け取った名刺を持ち上げて、沼倉という名の男性はにこにこと言う。
「予約はすべて私が見ているので、WEBでもお電話でも、お名前ですぐにわかるかと思います」
普段通りの受け答えをしているつもりの伊久磨であったが、沼倉はまたもや感心したように頷いて言った。
「さすが、カフェのスタッフって感じじゃないですね。ホテルマンと話しているみたいだ。東京とか、どこか高級なところの。そういう修行をなさってきたんですか」
「特にそういうわけではないです。この近場の大学の卒業で、新卒でここなので」
「へぇ~。うちにも大卒の社員いるけど、そういう感じじゃないけどね。僕の教育が足りないのかな……。そうだ、こっちのシェフは、オーナーさんとはまたべつの? あのひともなんだか雰囲気がありますよね」
視線の先には、キッチンに立つ聖。伊久磨も特に隠すようなことではないので、さらっと答える。
「オーナーのヨーロッパ修行時代の知人ということで、ミュゼの立ち上げに入ってもらっています。フランスの星付きレストランでスーシェフをしていたそうで、腕は良いです」
「あの顔で! 腕も! いや~……料理教室なんか開いたら満員でしょうね。うちもカフェを併設していてたまにイベントするんですけど、講師に来て欲しい……。スタッフが率先して申し込みそうだけど。あんなひとなかなか見ないから」
限りなく本音のようで、伊久磨はついふきだしてしまった。そのとき、レジに向かってくる客の姿に気づいて沼倉の方から「それじゃあ、後日またあらためて」と切り上げて、名残惜しそうに手を振りつつ店を出て行く。
それを見送ってから、伊久磨はレジで会計を続けた。
ランチの客がひけたタイミングを見計らって、聖にも用件を伝える。
「レシピ本の件は保留にしても、俺も料理教室は興味あるんだよな。ミュゼの人気がいつまで続くかわからない分、口コミで地元に広まるのは強いと思うから。日本酒の酒蔵併設カフェか、一度見てみたいな」
スマホで検索しつつ、聖が乗り気の様子で答えた。
「ミュゼはお酒を出していないですけど『海の星』であれば扱うのは問題ないですし、岩清水さんの料理であれば日本酒にも合わせやすいと思うんですよね。面白い話だと思います。きちんと話し合う時間を作れれば」
「じゃあ、この後由春呼ぶか。奥さんと遠くへ出かけてない限り来れるだろ。こっちが閉店した後『海の星』にその『月の舟』の酒を買って持って行って、料理を作りながら――」
言いかけた聖が、がくっとうなだれた。目に見えて落ち込んでいる。
「どうしたんですか?」
「俺、いま椿邸空けられないんだった……」
「空けられないって……ああ!」
唐突に伊久磨もその件について思い出し、大きな声が出てしまった。
明らかに、聖が不審そうに「なんだよ」という顔をしている。
伊久磨はホールに声が響いたのを気にしつつ、聖に言った。
「仕事しててすっかり忘れてました……。西條さん、最近変だなって思っていたんですよ」
「俺は変じゃないが? なんの話だ」
「変ですって。椿邸で何かありました? よね?」
決めつけるように尋ねると、聖は眉をひそめて、大きなため息をつき、重々しい口ぶりで答えた。
「そう。そうなんだよ。この際蜷川には言っておく。椿がおかしいんだよ」




