ミュゼのレシピ
美術館レストランであるミュゼ・ステラマリスは、高級路線である本店「海の星」とメニューの傾向が違う。
地域の食材を豊富に使うところは本店と共通しているが、価格帯はぐっと手頃になっている。「週一回思いついたときにランチで立ち寄れる」というコンセプトを大切にしており、メニューもランチプレートやパスタといった親しみやすい内容がメインだ。
レシピは明快でわかりやすく、超人的な技術を要求しない。聖以外のスタッフが調理場に立ったときにも、味が変わらずに安定して供給できるように、工夫が凝らされている。
「蜷川は要領悪くないから、ミュゼのレシピなら作れるはずなんだよな。家庭でも再現できるレベルまで工程を絞って手順を簡単にしているし『海の星』みたいに珍しい食材は極力使ってないから」
前日取り決めたように、ミュゼの応援にと朝から顔を出した伊久磨に、聖がそう言った。
通りすがりのコンビニで買ってきたコーヒーを手にした伊久磨は、オープン前の店内を見回す。
「俺ですか。このテーブルが全部埋まった状態で、自分が調理場に立つことを考えると、俺なら単純に怖いと思いますね。家庭レベルの料理でも、作る人数が全然違う。そういうところは、やっぱりプロの仕事だなと……」
ミュゼのレシピに関して、伊久磨は開発段階から見守ってきた立場だ。
(西條さんじゃなくても作れることを前提としていたのは、知っている。それは将来的に、調理師学校を出ている佐々木さんや卒業予定の藤崎さんが調理場に立つのを想定してのことかと)
まさか「蜷川でも」と言われるのは予想外であったが、そういう未来もあるのかと不思議に思う。
さて、いざとなったら自分はできるかできないかと考えながらコーヒーに口をつけ、伊久磨は小さくふきだした。
「『要領悪くない』って、なんだか新鮮です」
キッチンに立っていた聖が「ん?」と首を傾げる。
「そういう風に自分が言われる日が来るなんて、最近まで考えたこともなかったです。だいたい人間って、自分のことは他人と比べて『運が悪い』『要領が良くない』『何をやってもうまくいかない』と思って生きているものじゃないですか。だからこそ、もしかして自分より運が悪いかもしれないひとに会うと『そんなことあるのか?』ってびっくりするというか」
「俺は、自分のことは『要領が良いし、何をやってもひとよりうまくできる』とは思っていた。運はねえなって思い知ったけどな。他人から『苦労したことなさそうな顔』って言われると笑って流すけど、そんな奴この世にいるかばーかって思ってる」
「西條さんはできる人間オーラがありますからね。運はどうだろう。そこまでなさそうだと、今ならよくわかります」
「うるせえな」
自分で言うのと、ひとから言われるのでは大違いということらしい。聖はばっさりと切り捨てるように会話を終えて、作業に戻る。
伊久磨も、さめていたコーヒーを飲み干してカップを始末し、店内の掃除機がけをしようと裏手にまわろうとした。
流れで、キッチンに立つ聖の手元へと目を向ける。
調理場に立つこと、料理を作ること。
「『海の星』は、岩清水さんがいなくては立ち行かない店です。お客様は、岩清水さんの料理を食べに来る。でもミュゼは、西條さんの料理なのに、代えがきくように計算されているのがすごいです。それを家庭料理レベルって言っちゃうのもすごい……あ、そうか。家庭で再現できるレシピってことは、西條さんの名前でレシピ本出せばいいですよ。写真集」
「言うと思った。顔で料理作ってねえよ」
聖は面倒そうに言うが、伊久磨としては想像だけで「売れそう」と思ってしまった。どういう層が買うのかまではわからないが、うまく導線を作れば確実に売れる。
「いまはあまり価値を感じなくても、残しておくと、自分で後で見たときに面白いかもしれませんよ。子どもだって親の若い頃の写真として見たら面白かったりして……」
言いかけた伊久磨にちらっと視線をくれて、聖は破顔した。
「はいはい、新婚。そういう話も出るだろうな。じっくり話し合ってくれ。蜷川が育休入るって言ったら由春あれで相当困ると思うけど。人材確保ってのは難しいよな、実際」
そうですねと適当なところで話を切り上げて、互いの仕事に向かう。
途中で館長のまどかが顔を出したが、聖から「今日は本店のスタッフが入る」と先に聞いていたようで、伊久磨に丁寧に挨拶をして行った。慣れない仕事で疲れが出る時期だったようで、ほっとした様子に見えた。
それを見送ってから作業に戻り、少し手の空いた伊久磨は、改めて聖に声をかけた。
「本気で考えませんか、レシピ本」
無理なく事業を拡大していく上で、書籍の持つ信用は大きいように思えた。
聖は、邪険にするでもなく「そうだなぁ」と話に応じる。
「やるなら、先に料理教室で実績作るのが良いだろうな。俺は誰でも作れるようにレシピを開発したつもりだけど、実際素人でもできるかどうかは実地で試してみたほうが良い。あー……そうだな。素人じゃないけど、そういえば近い内にあった。調理師学校の講師の件」
「講師?」
「そう。市内の飲食店で、学校から声がかかった店のシェフが週一で交代で調理師学校へ行ってそれぞれの料理を教える仕事があるんだ。生徒がどういう進路に進むかはわからないから、和食・中華・フレンチ・イタリアン……これはという店には声がかかる。まだ先だけど『海の星』にも話がきてた。由春が定休日の木曜日ならってことで受けていたけど『聖が行くなら俺がミュゼ入るぞ』って言われたな、そういえば」
「すごいですね。そんなのまで、声かかるようになったんだ。西條さんか岩清水さんが、調理師学校に講師か。先生なんだ」
「お前いまその授業ちょっと受けたいと思っただろ。学生向けだよ。藤崎はいるだろうけど」
その名前が出てきたところで、伊久磨は「あっ」と思い出す。
(そうだ。西條さんと藤崎さんと椿邸? 香織が何か変なんだった。込み入った話かもしれないから、こういう隙間の雑談じゃなくて、時間を作って聞かないと)
出勤して、仕事を始めると良くも悪くも仕事以外のことが頭から抜けてしまうのが自分だったと、伊久磨は思い出す。静香からよく「あなたはとても忘れっぽい」と言われるのであった。
今日は忘れずに、聞こうと思ったことを聞かねばと、自分に言い聞かせて。
時計を見て、時間を確認する。
「西條さん、オープンします」
聖に、その日の始まりを告げた。