表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
46 バラの雨は降らない
400/405

心をまっすぐに

 ガコン、と裏口のドアが開いて、仕事場である「ミュゼ・ステラマリス」から「海の星」へ直接向かってきたらしい西條聖が姿を見せた。

 閉店後にひとりで翌日の仕込みも済ませてきたのだろう、夜の二十一時をまわっている。「海の星」ではすべてのテーブルがデザートまで終わっていて、閉店の空気が漂い始める頃だった。


「お疲れ様です、西條さん」


 パントリーに戻ってきていた蜷川伊久磨が気づいて、声をかける。

 聖がシェフを務める「ミュゼ・ステラマリス」オープンから、一週間が経過していた。


 美術館の定休日に従い、月曜日は休み。それ以外は、聖ひとりで開店から閉店まで営業している。営業開始からランチの間が一番忙しく、土日はエレナが応援に行き、平日は館長のまどかが手伝いに入ってしのいでいた。

 人員的には綱渡りの状態だが、新たにひとを雇い入れるという判断にはなっていない。

 理由は、いまの忙しさがこのまま続くかはわからないということ。さらに言えば「海の星」二店舗のいずれかにおいて、佐々木心愛の復帰を前提として動いているというのもある。そこまでは、どれほど苦しくても、このままの体制だ。少なくとも、聖が「無理」と言い出さない限りは。


「疲れた。なんか飲むかな」


 自然な流れで、戸口そばの手洗い場で手を洗いつつ、聖が呟く。

 洗浄機から洗い上がったワイングラスを取り出し、拭き上げ用のトーションを用意しながら、伊久磨は声につられて聖に視線を戻した。


(西條さんが「疲れた」って言うの、珍しい。「ミュゼ」の立ち上げからずっと忙しくしてきたから、本当に疲れてるのか)


 それなのに、聖はこのところ続けて閉店間際の「海の星」に立ち寄っているのだ。営業に関することなら電話やメールで事足りるし、目立った問題も無い以上、本来する必要がないルーティンである。謎だ。

 

「コーヒー淹れます?」

「もう少し胃に優しいものがいいな」

「珍しい。西條さんが弱ってる」

「うるせえな」


 声には、張りがある。顔色も悪くない。見た目でわかるほど、調子が悪そうなわけではない。

 心配しすぎも良くないかと思い直し、伊久磨はいつも通りに話を続けた。


「社用車ですよね? お酒以外で、他に何かあったかな。バタフライピーティーはどうですか。試しに入荷しました。美味しいかどうかはなんとも言えないですけど、見た目はいいですよ」


 最近まで、車が必要なときは個人の車で対応していたが、さすがにミュゼの準備で何かと物入りとなり、由春が社用車を一台用意していた。いまのところ、聖が自由に使っている。聖はペーパータオルできっちりと手を拭いてから、キッチンへと足を踏み入れてきた。


「そう、車だからアルコールはだめ。青いお茶か。映えるよな。『海の星』のメニューには向かないかもしれないけど、茶葉を瓶詰めにして並べておけば、物珍しさで売れるかも。ただ、どこで『海の星』らしさを出すのかって話ではあるかな。フローリストに栽培を委託するか?」


「聞くだけ聞いてみますが、仕事の片手間では難しいかと。販売といえば、ミュゼはスーベニールショップがありますからね。そろそろ本格的に、手頃な価格のテイクアウト品を考えても良いとは思うんですが」


「だってさ、おとーさん。なんか考えてる?」


 聖が水を向けたのは、片付いた作業台の上で、包丁を研いでいた由春である。みんなのお父さん呼びは由春も慣れたもので、とやかく言うこともなく、顔を上げて答えた。


「ミュゼに置くなら、焼き菓子が良いだろうな。佐々木も得意だろうし。利益が見込めるのであれば、クッキー缶の受注販売も良さそうだとは考えている。館長に缶のデザインをお願いして、ミュゼとここに置けばグループ店としての統一感もあって良い」


 お、と聖が身を乗り出す。

 話を聞きつけた伊久磨が「それ、賛成」と食いついた。


「佐々木さんは、最初は短時間の復帰になるかと思いますし、現実的にはミュゼのホールが一番有力ですが、焼き菓子作りの仕事もあったほうがいいです。オンライン販売で軌道に乗るなら、ミュゼのホールは改めてひとを雇えば良いわけですから」


「そこまで忙しく働くかな。子育て大変だろ」


 先走るなよ、といった様子で由春が言う。あ、と伊久磨はそれ以上の言葉を呑み込んだ。


(「シングルなんだから働かざるを得ないはずです」と言うのはたしかに、他人が口出すところじゃないからな。気を回して仕事を用意しておいても、本人の気持ちがどうかは、わからない……)


 事業計画を立てるだけ立てて待っていて、それはやりたくないと拒絶されたら、目も当てられない。会社側としても、技術をあてにしているだけに「お前の替えは他にいるんだぞ」という話でもないからだ。替えはいないから、待っている。


「クッキー缶は俺も賛成。館長にも話しておくよ。パッケージは美術館所蔵品の絵でもいいんだけど、できれば館長の絵がいいな。絵描きなわけだから」


 エスプレッソメーカーのスイッチを押しながら、聖が平坦な声で言う。特に気負った様子もなく、野木沢まどかと何か悶着があった様子は見受けられない。いつも通りだ。


(仕事もプライベートも順調で……。問題はなさそうなのに。西條さんはなんでいつも「海の星」に来るんだ? 体力の無駄遣いじゃないかな)


 違和感を覚えてつい聖の横顔を注視してしまってから、伊久磨は小さく息を吐き出した。


 相手をさりげなく観察して心情を推し量るのは、伊久磨が店員として培ってきた習慣であるが、同時にそれは行き過ぎると「余計なこと」であるとの自覚もある。顔色を窺い、その心情を勝手に想像されるのは、誰であれ気分の良いことではないはずだ。

 探らず、なるべく正面から話すようにしようと、軌道修正する。

 まずはさりげない話題から。


「西條さん、コーヒーで良かったんですか」


「あっ、いっけね。飲まないつもりだったのに、癖で淹れてた。まあ、いいや」


 こだわりのない様子で言いながら、聖はデミタスカップに口をつけた。そして、伊久磨の視線には気づいていたとばかりに、目を向けてきた。


「俺に何か言いたいことでもあるみたいだけど、言えよ。聞いてやる」


 相変わらず、まっすぐだ。自分もこうでありたいと思いつつ、伊久磨はもう遠慮することなく尋ねる。


「この忙しい中で『ミュゼ』の準備期間よりよほど『海の星』に顔を出しています。何かありました?」

「あった。気づくよな、さすがに」


 打てば響くような会話だった。

 オリオンはすでに仕事から上がって帰宅するところで、エレナはまだホールだが、まもなく全員の仕事が終わる。


「話したいなって思うんですけど、西條さんの明日の仕事に響くのは良くないので……。明日のミュゼのランチに、俺が入ります」

「おい、新婚」

「奥さんも明日は仕事なので。館長は慣れない作業で負担かかっていると思いますし、本来の業務もあるでしょう。こういうときに動けるのが社員ですよ。岩清水さん、聞こえてます? いってきます!」


 顔を上げた由春は「俺も」と言ったが、伊久磨があっさりといなした。


「店で試作するって言ってませんでした? それに、和嘉那さんだっていつ出産かわからないんですよね? あまり予定を詰め込まないほうがいいですよ」

 

 由春は納得いかない様子で何か言おうとしたが、気配を察した伊久磨がダメ押しをした。


「落ち着かなくて忙しくしたくなるのはわかりますけど、そわそわするのは湛さんの役目です。岩清水さんは、落ち着いて自分のやるべきことやっていた方がいいです。さしあたり今日はみんなさっと仕事を終えて帰りましょう。岩清水さんも新婚です」


 立て板に水の如くさーっと言う伊久磨を、聖と由春がやや呆れた目で見る。

 聖は結局何も言い返さなかった由春に視線を流して、口の端をつりあげて笑いながら言った。


「俺は由春の相棒が蜷川で良かったと思う。俺も自分の店を持つなら、()()()()()が必要なんだろうなって、このところよく考えるよ」


 自分の店を持つなら。


(いつだって独立できるだけの技術を持っている西條さんみたいなひとは、いまここで仲間みたいな顔をしていても、当たり前のように道が分かれる未来を口にする)


 少し前まで伊久磨は、そういう空気が苦手だった。それを口にするひとは、自分には無い強さを持ち、未来を切り開く力があって、誰も必要としないのだと感じるせいだった。近くにいても、完全な他人なのだと。


 いまは、他人が他人であるという当たり前のことを、以前より受け入れられるようになってきた。

 みなそれぞれの人生を歩んでいる。

 それは他ならぬ自分自身が、他の誰とも違う道を一歩一歩前に進んでいるのだと、最近になってようやく認められるようになってきたからかもしれない。


「伊久磨は二人いないからなぁ。自分で探せよ。さて、今日はこの辺にしておくか」


 由春は聖に対してさらっと言って、包丁を片付け始める。


 そこにエレナが戻ってきた。聖を見て「西條くん、今日も来ていたの?」と言う。連日、顔を見せているのをエレナもいぶかしく思っている様子が伝わってきた。

 聖は「ちょっと用事があったから。もう済んだ」と答えてから、続けて言った。


「車で来てるし、帰る場所同じだから、乗せていくよ」

「すぐには終わらないけど……」

「別にいいよ。俺もコーヒー飲んでるし」

「そう。わかった」

 

 言うだけ言ってから、エレナはホールへと戻って行く。

 その後姿を見送り、デミタスカップを口元で傾けた聖は「おっと、入ってねえ」と呟いた。

 コーヒーは、とっくに飲み終わっていたのだ。


(用事も、コーヒーも、口実……。もしかして、藤崎さんと一緒に帰るために?)


 なんでそんな青春盛りの男子中高生みたいなことを……といぶかしんだ伊久磨であったが、すぐに気づいてしまった。

 

 仕事もプライベートも問題なさそうな聖が、どこに問題を抱えているのか。

 おそらく、エレナ。もしくは椿邸だ。

 そこに何かあるらしいと、ここでようやく悟った。

It will never rain roses:when we want to have more roses we must plant more trees.


400話達成!いつもありがとうございます!!

そして新章です!よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
400話達成おめでとうございます! 久しぶりの「海の星」( ˘ω˘ ) これぞ実家のような安心感( ˘ω˘ )
400話おめでとうございます(≧▽≦)の 伊久磨くんは大人になったなぁ もうみんなが頼りたくなる、必要とする人材ですね (*^_^*)!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ