迷ってあがいて続く道
意味もなく、エレナはえへへ、と笑った。頭の中は真っ白であった。
香織が冗談を言っているのか、本気なのかがまったくわからない。そもそもこの場合、本気だったらどうなるのか。まさか、そこから付き合って結婚するのか。とても考えにくい。では、遊び相手として誘われているのだろうか。
(酔ったからといって、香織さんはそういう盛り上がり方するタイプじゃないと思っていたんだけど……。今日、香織さんも何かあったのかも?)
椿邸で暮らしてもうすぐ半年。エレナと香織の間では、驚くほど「そういう空気」にならなかっただけに、いま? という不思議さがある。
「本当に、するの?」
気持ちよさそうに冷酒グラスを傾けていた香織は、部屋からの光を顔の半分に浴びて、にこりと笑った。
「だって藤崎さん、今日するつもりだったんだよね? ちょっと相手は違うけど、俺でもべつに良いんじゃない?」
「相手が違うって大問題じゃない? そこは超重要……」
変な会話になっている。変だ、ということくらいは酔った頭でもわかる。
酒に鬼強い香織が酔っているのだ。付き合ってそれなりに飲んでいたエレナもまた、酔っている。
(酔っ払いが二人もいれば、おかしい会話になりますかね。おかしいと思うけど、何がおかしいか、自分でもいまいちよくわからない。酔ってる……!)
一周回って「相手が違っても、ありなのでは?」と考え始めてしまった。たしかに今日のエレナは、樒と出かけて「この流れならするだろうな」と覚悟していたことを、特にすることなく帰ってきた。果たしてこのまま、今日を終えて良いのだろうか、という気がしなくもない。
香織は冷酒グラスを板敷きの床の上に置き、片手をついて少しだけ前のめりになって距離を詰めて、エレナへ笑いかけてきた。
「俺にしとこうよ。俺はそれがいいと思う。だめ?」
甘えるような囁き声と漂う色香に、エレナはまともに返事をすることができない。
(香織さん、全然「空気」じゃない……! 一緒に暮らしてそろそろ空気になってると思っていただけど、空気にこの色気は出せない!)
はっきりと誘惑を感じさせる表情は、目に毒なほど妖艶だ。
見つめ合っただけで、屈してしまいそうになる。
そもそも家族でもないのにひとつ屋根の下に半年仲良く一緒に暮らしている時点で、香織はエレナにとって「だめ」な相手ではない。それこそ、人生で何人も出会わないであろう「プライベート空間を無理なく共有できる相手」だ。いわば、特別なひとである。
「どうしよう。考えれば考えるほど、だめな理由が思いつかないわ」
エレナがほぼ負けを認めた発言をすると、香織は「だよね~」と明るい声で言う。
「だめな理由はないんだよ、俺たち。しよ?」
「待って。それって、キスまで? キスまでの話をしてるよね、いま」
「なに、もっといろいろ想像したの? いいけど」
香織は一度立ち上がると、距離を詰めてエレナと触れ合う位置に座る。エレナの手から冷酒グラスを取り、顔を覗き込んできた。
肩から腕がぶつかり、ぬくもりが伝わってくる。
「俺も藤崎さんも、いろんなこと難しく考えすぎるんだよね。変なところで似てる」
耳元で囁かれて、熱い吐息を感じ、エレナは顔が赤らむのを自覚しながら闇雲に手をバタバタと動かした。
「そうだけどそうだけど、でもこれ、お酒の勢いですよね! お酒の!」
手がばしっと香織に胸にあたり、勢いのままどんっと押してしまう。エレナは、あっと焦って立ち上がろうとした。もののはずみで手に力が入り、香織をその場に押し倒して、上から覆いかぶさるような体勢になる。
「わぁ……。お酒の勢いって、すごいね。俺いま藤崎さんに押し倒されてる……」
香織は板敷きに仰向けに横たわり、酔いに浮かされたような瞳でエレナを見上げてきた。エレナは慌てて、香織の胸の上にあった手をずらして床について、返事をする。
「そ、そうですね。押し倒してしまいましたね」
「ここからどうする? 藤崎さんがそういう感じがいいなら、任せるけど」
「そういう感じって、どういう意味ですか?」
「キスするなら、相手からされるより自分のタイミングでしたい、とか。そういうひと、いそうじゃない? 待ってる時間が数秒でも無理とか。ドキドキしすぎて」
「なんだか、たとえが具体的過ぎて……これなんの会話でしたっけ」
「キス」
話を逸らすつもりもなかったが、恥ずかしがる素振りもなくきっちりとスタート地点まで戻されて、エレナは観念した。
これはもう、結論を出さずして今晩は終われないと、腹をくくる。
「それでは、私からするなら、香織さんはこのまま動かない、抵抗もしないで身を任せてくれます?」
「う、うん。どんなすごいキスするつもりだよって気はするけど、暴れたりはしない」
「わかりました。では……」
エレナは、こほんと咳払いをした。
自分から押し倒した相手に「身を任せる」と言われた以上、することはしよう。
酔いで頭の回路が単純になっていたのかもしれないが、もう「しない」という選択肢は溶け消えていた。エレナは香織の頬に手をあてて、ゆっくりと顔を近づけ――
遠くで、聞き覚えのある音がした。
ガタガタと引き戸を引く音、ドタバタと足音も高く廊下を進んでくる音。
あっという間にガラッと居間の襖戸が開かれて、西條聖が姿を現す。
「お前らが散々『この忙しい時期に朝帰りだなんて自覚が足りない』だのなんだの言うから、今日は早く帰ってきたぞ!! ほら、俺がいないと寂しいんだろ? ったく、俺に甘えるのもいい加減にして欲しいぜ。俺とこの家の住人は、単なる同居人で家族でもなんでもないって」
わーわー話しながら縁側に歩いてきた聖が、そこで言葉を切る。
「何してんだ?」
エレナは乱れた髪を整えながら座り直し、縁側に横たわっていた香織もゆっくりと身を起こした。
無言の二人をじーっと見てから、聖は「はあっ!?」と声を上げる。
「なにいまの、二人してなんかやらしいことしてた感じか? うわっ、いくら俺がいないからって羽伸ばしすぎだろ。まったく、油断も隙もねえな。帰ったそばからそういう空気って、俺がびっくりだ」
遠慮なくまくしたてられて、エレナは「西條くん、うるさい」と思わず言い返す。
「香織さんが酔って寝落ちしていたから! 寝るならお部屋へどうぞって、起こしていただけ! 最近ちょっと自分に彼女ができたからって、なんでもそういう話にするのやめてくれる?」
「藤崎、ごまかし方が下手! いま絶対、そういう空気になってたって。マジかよ……この家、俺も住んでいるのに、ちょっとは気を遣えよな」
二人の言い合いを横で聞いていた香織が「あのさあ」と口を挟んだ。
「そもそもここ、俺の家なんだけど。俺に少しも気を遣わない西條が、なに寝言を言ってるんだ?」
「言いがかりはよせ。起きてるから、これは寝言じゃねえよ。椿の目は節穴か? あ~疲れた疲れた。あっ、お前ら、俺の作り置き遠慮なく全部食ってるな。仕方ねえ、なんか作るか」
「自分の分だけにしとけよ、俺も藤崎さんもだいぶ食ったから。こっちはそろそろ解散だし、いまから飲むなら西條ひとりでご勝手に」
だよな、と香織がエレナに話をふってきたので、エレナもここぞとばかりに頷く。
「西條くんひとりでどうぞ」
二人がかりで言い返された聖は、顔をしかめて「絶対やだ!」と言い放った。
「俺はお前らが、俺がいなくて寂しい思いしてるかと急いで帰ってきたって言ってるだろ! 絶対付き合え! ひとりで飲むのは嫌だ!」
「西條、声でかい。窓あいてるから。近所迷惑」
ぎゃあぎゃあわめく聖に、香織はそっけなく言いながら、立ち上がる。「お前はさっさとシャワー使え」と言いながら、聖の背を押して歩き出し、エレナを振り返った。
「水かお茶持ってくるよ。頭スッキリさせておこ」
「あ、ありがとう」
一瞬、目が合った。
だが、聖がすぐに「今日暑いよな!」と声を張り上げて言い、香織はそちらに向き直って「西條は本当にうるさい」と言う。
聖はちらっともエレナを振り返ることもなく、香織相手に話を蒸し返し初めた。
「俺はなぁ、鋭いからわかる。お前ら絶対、変な空気になってた。暑さにやられたんじゃねえの?」
「はいはい。わかったわかった。西條は鋭い鋭い」
騒ぎながら、二人が去って行くのを見送り、エレナは深い息を吐き出した。
「西條くん……本当に……うるさい……」
相手がいなくなってから、むなしい文句を口にする。
どっと疲れていたが、その反面「椿邸のいつもの空気」にほっとしていた。
(さっきのあれは何かの間違いというか、酔いのテンションであって、私と香織さんの間でまさかそんな)
危うい空気になるなんて、ありえない。うちわを手にして扇ぎながら、夜空を見上げる。蚊取り線香の香りを吸い込む。
そして唐突に、自分の中に「ありえないとは言い切れない」という予感があることに、気づいてしまう。
「戻れる……?」
いままでの関係に。
未来は、ほんの少し先ですら、まったく見えなかった。
★これにて「Just trust yourself, then you will know how to live. 」終了です!
章タイトルつけたのがだいぶ前で……その……いま確認してゲーテの言葉なのだと思い出しました。
「自分自身を信じてみるだけでいい。 きっと、生きる道が見えてくる。」
生きる道見えないで終わってますけど大丈夫ですかね?
(Yes,平常運転のステラマリスです!)
いつも応援ありがとうございます。リアクション機能楽しんで眺めさせていただいております!
★★★★★もありがとうございます!!いついかなるときも両手を広げてお待ちしてます!!
(๑•̀ㅂ•́)و✧