最低なことを
見事な田舎道を車で二時間ほど走っているうちに、「日常」が嘘のように遠のいた。
すこんと晴れた青空の下、車の間隔は前後ともゆったりとしている。対向車とすれ違うことすら少なく、道路の両側には深い緑とまばらな民家といった光景が続いていた。
東京暮らしをしていたエレナにとって、その道程は「日本の田舎」概念そのものだった。
目的地の龍泉洞に近づいた頃、しばらく黙り込んでいたエレナは、しみじみと呟いた。
「運転の上手い方にお任せして、ぼーっと窓から景色を見ているだけって、すごく気持ちいいですね」
運転手の疲労を思えば、二時間はかなり負担のはずだが、そういった事情が無いならあと半日くらいドライブが続けば良いのにと思ってしまう。
「俺は運転が好きだから、自分が楽しいことをしていて、隣のひとにもそう言って喜んでもらえると嬉しい」
運転席の樒が、おっとりと笑う。
声につられてその横顔に目を向け、エレナはしげしげとながめた。
灰色の髪のせいもあって、第一印象は「年齢不詳」となるだろう。実際のところ、正確な年齢を聞いたこともない。
肌が綺麗で、目鼻といったパーツのひとつひとつが形よく整っている。
日頃、エレナは聖や香織といった手合を見慣れているが、樒もまた世間的な意味合いで言えば恐ろしく端整な容貌をしている、と思う。
エレナの好みの問題として言えば、樒こそまっすぐ見ているのが辛いくらいだ。つまり、非常に好みだ。
(観光地の喫茶店店主で、音大卒のチェリスト。収入はきっとそこまで多くなくて、一生大きく変わることもない……。東京の音大に行くくらいだから、ご実家は裕福なのかもしれないけど)
自分の恋人に対して、厳しい条件をつきつけようと思ったことがないエレナにとっては、決して悪い相手ではない。
学生でありアルバイトで間借り暮らしをしている現在「あなたに何かあったときは私が稼ぐから心配しないで」とは言えないが、それでもこの先数十年、ふたりで贅沢しないで生きていこうと思えばきっと不可能ではないはず。
それこそ、こうしてドライブしているだけで、お手軽に幸せになれる。それはきっととても尊い。
一緒にいれば、必ずいまより好きになる。
車はほどなくして目的地につき、駐車場に停めてからのんびりと切符売場に向かった。
途中、川原で釣りをしている人を見て「そのうち釣りもしたいですね」と話し、売店を見ては「イワナの塩焼きあるよ。食べる?」「岩泉ヨーグルトアイスも食べたいです」と観光客らしい会話をして、大人二人分の切符を買って鍾乳洞の中へと向かう。
外よりは明らかに温度の低い順路を歩きながら「ドラゴンブルーの地底湖だって」「一番深いところで水深98メートル? ビル何個? タワーマンション一個分?」なんて何気ない会話がとても楽しい。
ぐるっと順路をまわってから、日差しがまぶしい外に出て、あたたかい空気にほっと息をついたところでエレナは思わず声に出して言った。
「あーーーー楽しい。わざわざ観光地に行くとか、風景見るとか何が楽しいのかなって思っていたんですが、すごく満喫してる……」
並んで歩く樒が、あははと声をたてて笑う。
「修学旅行あたりで『旅の楽しさ』を感じなかったひとって、案外大人になってもそうなのかも。日常から離れるって本当はすごく満ち足りた体験なのに、『なくてもいい』とか『べつに家にいても楽しいし、出かけるとしても近所で十分』って思ってしまって」
「わかります、疲れるイメージが先にくるんです……。出かけたら出かけたで『ものすごくきちんと楽しまなければ』と思ってしまうから。遊園地に行ったら効率的に乗り物に並ぶとか。そのへんぶらぶらしようなんて、思わないんです、遊びに来たからには、遊ばないとって……」
「それ、遊ぶのが下手なんだよ。香織みたい。ああ見えて、あいつは羽目を外さないところがある」
樒は、特に含むところもなさそうに彼の名前を引き合いに出した。
相づちを打とうとしたエレナだが、うまく話を合わせることができずに沈黙してしまう。
羽目を外さない香織、よく似ている自分。
男女としての仲はどうにもならず、始まる前に終わったようなものだが、彼の生き方には共感するところがあった。いまでもある。
いつか羽目を外してみるべきだとか、人生は一度きりだと思いながら、思い切った行動を取ることのない、その生き様。
歩くペースが落ちて、樒が先を行く。置いてきた、と気づいたらしく少し前で振り返ったその顔を見上げて、ついには立ち止まっていたエレナは思い切って口を開いた。
「樒さん、最低のことを言います」
「どうぞ」
動じた様子もなく、やわらかい声で応えられる。
おそらく、自分が何を言おうとしているかはもう見透かされている。そう理解しながら、エレナは目を見て告げた。
「今日は、温泉には行きません。帰ります。いろいろ気を遣って頂いたのはわかるんですけど、やっぱり行けません」
「わかった」
「ごめんなさい」
顔を見ていられなくて、頭を下げる。樒からは顔を上げてとも言われなければ、フォローするような言葉もない。
(せっかくすごく楽しい空気だったのに。私が、台無しにしてしまった。こんな空気にしなくて済む方法なんて、いくらでもあった。それを選ぶことだって、できたのに)
自分の身勝手さを自覚しつつ、エレナはここは逃げられないと覚悟を決めて、顔を上げる。
樒は、ぼーっとした様子でエレナを見ていた。わかりやすい表情ではないだけに、何を考えているかわからない。
「本当にすみません。あの……、ここから別行動します?」
「ええと……。藤崎さんが嫌でなければ、帰りも一緒が良いと思う。俺は藤崎さんをここに置き去りにする気はない。それとも、一緒の車に乗るのは気まずい?」
大人すぎる対応をされて、エレナはその場にしゃがみこみたくなりながらもう一度「すみません」と繰り返す。樒は、表情を変えぬまま「謝ってばかりだと、話が進まないから」と言った。
「藤崎さんに振られるのは何回目か数えてないけど、この展開を予想してなかったわけじゃない」
実にさっぱりした口ぶりで言われて、エレナは自分でも持て余す感情のままに言い返す。
「振った……つもりはないと言うと虫が良すぎるんですが! 私、樒さんのこと好きなんです!」
これこそ、決して他人からは理解されないことを言ってしまった、と自分でわかっている。恋愛下手で、好きという感情がストレートに男女交際とは結びつかない、自分でも言い表しにくい感情。
「一緒にいると、樒さんのことを好きだと思います、楽しいんです。温泉に行ってもきっと楽しい。私が嫌だということがあれば、樒さんは無理強いしない。全部わかっているのに、私の心が『まだ』って言うんです。まだ……そういう関係に落ち着くのは違うって」
付き合えるかもしれないという餌をちらつかせて、ちやほやしてもらおうと思っているわけではないのに、最後の決め手に欠けてどうしても踏み出せない。そんなことしているうちに、相手は自分の元を去るかもしれない。チャンスなんて何度もない。わかっているのに。
樒は「うん」とあっさり頷いた。
「ここで俺が物わかりの良い、優しい言葉をかけると、この関係はどん詰まりで泥沼になるってことはわかっているよ、俺も。それでも藤崎さんにはこの程度のことで、そんなに困った顔してほしくないって思っている」
「この……この程度?」
目を瞬いて聞き返すと、樒は飄々とした態度で認めた。
「この程度のこと、だよ。男と女がいて、フッたりフラレたりって、特別なことじゃなくて日常茶飯事だ。『最低なことを言います』なんて、いちいち重く考えているのは藤崎さんの側であって、俺としては『そっか、今日は温泉行きたくない気分になったか』くらいの話なんだよ。わかるかな」
「全然わかりません」
エレナは首を振って、不思議なことを言う樒の口元を見つめた。いったい、何を言われているのか理解ができない。
その反応もまた、わかっているとばかりに、樒はそこでようやくほんの少しだけ笑った。
「たとえば宿泊施設の最高のホスピタリティを表す言葉に『自分の家のように過ごしてほしい』ってあるけど、あれって『自分以外の大人のいる、子ども時代の我が家みたいに過ごしてほしい』って意味なんだよ。自分が大人としてあれこれしなくても、誰かが掃除をしてくれて、食事の世話も風呂の準備もしてくれる気楽さ。俺が、今日の藤崎さんに対して持っていた感覚ってそれに近いかな」
「最高の宿泊施設のようなホスピタリティ?」
どうにも話を飲み込めないまま首を傾げたエレナに対して、樒はそうそうとこだわりのない様子で頷いた。
「ひとことで、保護者って感じ。俺のことは好きになるかもしれないけど、恋愛はしたくないって気持ちになるのもわかる。むしろそうなるってわかっていても、俺はこうしたかった。藤崎さんには安心して車に乗って、修学旅行の延長みたいに遊んでほしかった。それでリフレッシュしたいからもういい、家に帰りたい、そう言われても『まあ、そうなるだろうな』って」
エレナは、自分の言い分はたいがいわがままだと自覚はあるものの、樒の感性はお人好しの度が過ぎていて、受け入れて良いのか悩むほどだった。それはそれで、エレナの理解を超える。
「下心がないにもほどがあるといいますか……本当に?」
「本当に。引率の先生みたいな気分になってたから、あったはずの下心もどこかへ……。だから、謝られることじゃないし、あまり気にしてもいない」
さっぱりとした態度でそう言い切ると、樒は「ということで、何かうまいものでも食べて帰ろう」となんでもない様子で言った。
それに対して、異を唱える立場ではないエレナは「わかりました」と答えて、歩き出した樒の後に続いたのだった。
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