過保護ですが、何か
岩清水由春は普段、仕事中にスマホが鳴っていてもあまり気にしない。
どうしても自分に連絡をつける必要があれば、「海の星」の代表番号に電話をかけてくれば良いだけだと考えている。私用のスマホに来る連絡は、仕事より優先されるものではない。
だが、いまの時期はそうとばかりも言っていられない事情がある。
姉の和嘉那の出産連絡が、いつ来るかわからないからだ。
(ただでさえ切迫で入院している上に、出産は命がけだというし、流血して血液が必要になることもあるとか。血液型同じだから、その面では水沢よりも全然役に立つ)
最悪の事態まで想定しておきながら、いざというときに「連絡がつかなかった」では、間が抜けている。そういうわけで、最近はスマホを気にしているのだ。
特に「海の星」の休日ともなれば、仕事場の電話を鳴らしても意味がないのは身内こそよく知っているので、連絡がくるとすればスマホである。
休み関係なしに実際はミュゼで働いてはいるが、すぐに反応する心積もりでいた。
“電話出られそう?”
まもなくオープンという時間帯、すでにドアの向こうには客が列を作り始めている。
そのタイミングでスマホのディスプレイに表示されたメッセージを見て、由春は一瞬だけ動きを止めた。
迷いなく、観葉植物の影に立って、通話にする。
コール音が鳴るか鳴らないかの早さで、相手が出た。
――おはよう。忙しいときに、すまない。和嘉那さんのことじゃない、由春に用事がある。お前以外に誰に言うか考えたが、伊久磨は新婚だし「気になる」程度の話で騒ぎにしたくない。
「おはよう。珍しく奥歯に物が挟まったようなこと言っているな、水沢。誰がどうしたって?」
――まず、藤崎さんが学校をサボって出かけたみたいだ。相手は樒。それと、香織も昨日から家出中。誰といるかは言わないけど、柳さんではないと言っていた。これは俺の勘だけど、あいつは付き合いが限られているし他人に気を許さないところがあるから、そんなに意外な相手じゃないはず。昨日だと、伊久磨は結婚だから無しとして、お前もミュゼのオープン時期に変なことするとは思えないし、他にいろいろ考えると、穂高先生じゃないかという気がする。
「ああ……」
――そして西條は朝帰り。出社しているならこれに関してはべつに。
「了解」
それ以上、ろくな言葉が出てこなかった。
三十歳児たちのサボりや朝帰りを報告されても、と思う反面、これが必要な連絡であることも由春には理解ができる。
彼らはたまたま一緒に暮らしているが、椿邸住まいの単身者で家族のサポートがあるわけでもなく、便宜上「会社」がセーフティーネットになっている面はあるのだ。
何かあったときに「出社しない」「連絡がとれない」といった形で、一番最初に異変に気づくのが勤務先ということは、往々にしてあり得る。「前兆らしきものについて、経営者も把握しておいた方が良い」という湛の判断は正解だと、由春も同意できる。
椿香織の件は、椿屋でどうにかしろ、と思わなくもないのだが。
目で探すと、伊久磨は聖と笑顔で話していた。「そろそろ時間ですね」とばかりに、壁の賭け時計を確かめる仕草。ついでに、目が合う。
早めに電話を切り上げねばと思いつつ、由春は伊久磨に背を向けると、難しい顔をして息を吐き出した。
「椿はあれで結構真面目だし、藤崎だって真面目だ。普段は石橋叩き壊して、渡らないタイプ。だけど、変に思い切りの良いところがあるからな」
――香織に関しては、俺の監督責任もある。自立した大人だからといって、社会生活を送っている以上、ひとりで生きているわけじゃない。常に他人との関わりの中にいるんだ、おいそれと道を踏み外されるわけにはいかない。最近、あまり口出ししないようにしていたが、どうも落ち着きがない。やっぱり、もう少し気にかけておけば良かった。
「それは、考えすぎじゃないか。水沢は、家のことで忙しい。このあと産休・育休もとる。その前提で、自分がいなくても会社がまわるように下準備をしてきたんだから、今更椿のプライベートで後ろ髪ひかれてぐずぐずする必要は何もない。藤崎さんに関しては、俺も伊久磨も気にして見ておく。『海の星』と『ミュゼ』で仕事場が分かれたけど、聖も」
気にするメンツ多すぎねえ? と文句のひとつも言いたい気分の由春であったが、電話の向こう側で湛が笑っている気配を感じて「なんだよ?」と尋ねる。
――面白い。伊久磨が他人を気遣う側にいるのが、もうそれだけで面白い。ひとって、変われば変わるものだよな。あの伊久磨が。
言っているうちに、笑いが止まらなくなったらしく、くぐもった笑いが続いた。険しい顔でそれを聞いていた由春であったが、気持ちはわからないでもないと、つられてふきだしてしまう。
「水沢、笑いすぎ。あいつはもう大丈夫だよ。いや、大丈夫かな……。いまは大丈夫。だけど、大丈夫って永遠じゃないから、明日にはだめかもしれないし、次にだめになるのは自分かもしれないし。そう考えると、危なっかしい奴を『大人なんだから』で突き放してばかりもいられない。は~、椿と藤崎さんか」
言いながら、由春としては「あれ、さりげなく聖も朝帰りって言ったか?」と会話を思い出してみたものの、ひとまず保留とすることにした。
遅刻することなく出社して働いている聖に対し、経営者としていますぐ口出しをしたいことは特にない。それよりも、エレナのことは気に留めておくことにする。
(ひとまず伊久磨にも、気づいたことがあるように言っておこう。接する時間は、あいつの方が多いし、いざとなったらいろいろ見ているから、異変があればわかるだろ)
――忙しいときに悪かったな。香織のことは俺がどうにかと言いたいところだけど、和嘉那さんのこともあるから、どうにもならないかもしれない。最近の伊久磨が頼りになるってのは異存はないけど、負担かけすぎてもいけないから、お前で。
「俺かよ。まあ、了解。わかった。目が届く範囲のことは、気にかけておくようにする」
そこで通話を終えた。
(水沢のよく気がつくところは、損な性分かもしれないが、あのくらいじゃなきゃ、山奥隠遁生活の姉貴を人里まで連れて来るのは無理だっただろう。うちの家族は、結局水沢には感謝しているから)
どこまでが誰の責任という話にして、自分は関係ないと言うのは簡単な話だが、その簡単な話をあえて自分事として引き受けるのが湛であり、自分なのだと由春は了解している。
仕事をするにあたり、大きな有名店ではなく、「海の星」という、すべてが目の届く範囲の店を選んだ。目の届く範囲には、従業員ひとりひとりも、含まれる。
「岩清水さん、オープンしますよ!」
電話が終わったことに気づいたようで、遠巻きにしていた伊久磨がタイミングをみはからったように声をかけてくる。
スマホをスラックスのポケットに滑り込ませて、由春は「おう」と返事をした。そして、やけに表情の明るい伊久磨を目を細めて見て「元気そうだな」と言う。
伊久磨は、にこにことしながら答えた。
「普段の『海の星』での仕事も好きなんですけど、こういうカフェっぽい店で働いてみたい気持ちもあったんです。『ミュゼ』は、幸も好きそう」
本当に、何も考えずにその名前が口から出てきたのだろう。昨日、結婚祝のケーキを贈られて心に余韻が残っていたせいかもしれない。
離れても、道が分かれても、仲間だった事実が消えたわけではないのだ。
由春は、ことさらからかうこともなく、さらっと応じる。
「ま、死んだわけじゃないからな。生きていれば、またどこかで一緒に働くこともあるんじゃないか。もう会えないとか、仲間じゃないとか、考えを狭める必要はないし。健康でいればなんとかなるから。体とメンタル」
そして、聖の「オープンするぞー!」という掛け声にウィ、と返事をした。




