おとなの休日
香織が「日本海を見に来てる」と言ったとき、電話越しの湛は柄にもなく戸惑った様子だった。
何かひとこと言うべきか、黙って受け入れるべきか考えているような、沈黙。
結局、選んだのは後者で「わかった、今日は休みだな」と。続けて「まさか従業員と一緒じゃないよな?」と確認された。柳奏のことを心配しているのはすぐにわかったので、違うよと答えて電話を切った。
(一年前の湛さんなら、問答無用で大喝だったよな。俺の保護者を辞めて、大人同士の関係に切り替えている気がする。俺がもう「三十歳」だから……)
あまり気にしないようにしていたが、三十という数字は重い。
年齢以外にも、湛が家庭を持って香織のことを「家族でも親戚でもない」と改めて自覚したのも大きいだろう。
呼び名が定まらないまま濃密な関係であった湛が、少しずつ他人になっていくのを感じる。
人間は最後はひとりと言うが、意識して「ひとりにならない」努力をしない限り、本当に周囲から誰もいなくなっていくのかもしれない。
たとえばあのひとはどうなのだろうと、香織は離れた場所を歩いている、背の高い人物へと視線を向けた。
すっきりと晴れ渡った空の下、朝の空気に身を浸して田沢湖を眺めていた穂高紘一郎は、すぐに気づいて顔を向けてくる。
「連絡、つきました?」
「はい。職人は朝早いので、メッセージじゃなくて直接。日本海見に来てるって言ってしまいました……まだ海までたどりついていないんですけどね。ここ、内陸の湖だし」
言ってから、香織が微妙な表情をしたのは、すぐに紘一郎に気づかれてしまった。
「嘘をついたこと気にしているなら、いまから行けば良いんじゃないですか。運転は僕がしますよ」
見抜かれたことに苦笑して、香織は素直に答える。
「『日本海に行こうと思っていたけど、いまはまだその手前。引き返そうと思えば引き返せるし、少し遅刻はするけど仕事はできる』って、長い説明をするのが急に面倒になって……。最近、サボり癖がついてんなぁって湛さんには呆れられていると思います」
実際のところ、何度かこういった不意の休みが続いているのは、香織の十年余に及ぶ社会人生活の中でも、珍しい事態だった。
(今日は、全然休むタイミングじゃなかった。俺は元気だし、用事だってあるような無いような。これは完全なサボりだ)
前日、偶然紘一郎と出会ったことで、予定が変わってしまったのだ。
夕方から闇雲に車を走らせ、適当な店で食事をした。街中に戻ることなく、夜道を進んで星を見て話し込んだりしつつ、宿泊施設を探す時間でもないからと、そのまま駐車場で車中泊をしてしまった。
記憶にある限り、香織の人生においてそういった目的のない外出がまったくなかったわけではないが、夜は家に帰っていたし、翌日は仕事にも出ていた。
着替えもせずに外泊をして、明るくなったからと湖畔を散策するなど、せいぜい十代か二十代の遊びだろという気がしなくもない。
「サボりといえばサボりかもしれませんけど、香織君は経営者なので、自分で自分に休みを出さない限りは休めないのではないですか? ただの休みを『サボり』と後ろめたがるようでは、この先何十年も、ろくに休めないかもしれませんよ? 今のうちに、もっと『休む』ことと向き合ったほうが良いと思います」
香織がぐずぐずと悩んでいることなど、紘一郎は見透かしているらしい。
とても耳に優しい含蓄ある言葉の数々に、香織は思わず呻いた。
「辛いときに寄り添ってくれるのは、天使ではなく悪魔だとどこかで聞いた覚えがあります」
「ああ、香織君はいま辛いんですか? 何が?」
躊躇なく、踏み込んだようなことを聞かれる。どう答えようか悩みつつ、香織は車中泊に蓄積疲労のダメージを受けた様子もない年上の相手を見つめて、質問で返した。
「大人はこういうとき、他人の事情に関わらないよう、当たり障りのないことを言うんじゃないですか?」
「それは、香織君が僕は大人であると、認めているってことですか? こんな平日の朝から仕事する様子もなく、真面目な社会人にまで仕事をサボらせ『海まで行きましょう』という僕は、大人ですか?」
真顔で確認されて、香織は言葉に詰まる。
(大人……? 大人ってなんだ……? たしかに、このひとの行動は責任感とか社会性がない。十代か二十代みたいな時間の過ごし方をして、ケロッとして連日の遊びの予定を立てているのは、大人と言えるのか……?)
三十歳なのにこんなことをしている場合じゃない、と噛み締めていた香織とは、次元が違いすぎる。
「穂高先生って、何なんだろう……。西條の育ての親で、西條と俺は同じ年齢なので、ということはつまり俺の『親』でも不思議はないくらいの大人だと思っていたんですけど、そういえば全然、大人じゃないかもしれない」
思わず、声に出た。そこまで素直に言うつもりでもなかったのに、言ってしまったのはもう仕方ない。
言われた紘一郎はといえば、ごく普通に穏やかに笑って「気づいた?」と悪びれなく口にした。
そして、急にすたすたと早足で歩き出すと、香織の横をまるで通り過ぎるようなタイミングで足を止め、肩に手をかけて言った。
「ぐずぐずしていると、時間がなくなる。お腹も空いたし、コンビニで朝飯買おう。今日は海行って、それから日帰りの温泉もいいかな。遊ぶと決めて仕事を休んだなら、きっちり遊んだ方がいい。ああ、でもこういうとき、遊び慣れていない真面目な大人は予定詰め込みすぎて、かえって疲れを溜め込んだりするから、ほどほどにね」
予定を詰め込むっていうのは、たとえば北海道旅行をするときに函館と札幌の観光を一日に詰め込むようなもので……と話しながら、紘一郎は通り過ぎて行く。
(温泉っていう穂高先生は、年相応……? というか、遊び慣れていないから「きちんと遊ぼうとして疲れる」ってそれ俺のことか?)
すぐに振り返って、その背を追いかけながら、香織は思ったままに口にした。
「穂高先生は、大人じゃないわけじゃなくて、大人の遊び人!」
振り返った紘一郎が、ニコっと笑う。
「そうだよ。僕を真面目だと思い込むのは、受け取り側の錯覚や勘違い。僕はそんなにまともだったことないですよ。他人の子どもを引き取って育てたり、海外の秘境や紛争地帯をふらふらしたり、国内だって行きたいときに行きたい場所に行く。どう見ても地に足のついた生活を放棄していると思いませんか?」
ああ、そうか。
このひとはそういう、自分とは違う世界のひとなんだ、と香織は痛感した。
今までなんとなく知ってはいたが、正視しないようにしてきたことだ。
(住む世界が違う相手と出会うなんて、現実では普通にありえることだ。そういうときは結局、どこかの時点で相手との関係を諦める。そして相手が去ったり、自分から去ったり……。そうでなければ、こっち側の人間になってもらいたくて、相手を変えようと働きかけたり)
香織にとっての伊久磨も、そういう相手だったのかもしれない。大学生と和菓子職人として出会ったときは、住む世界が違った。その後、ぼろぼろになっていたところを拾い上げて一緒に暮らし始めたときも、伊久磨は心を閉ざして遠くにいた。
友達として話すようになり、笑って一緒に過ごした期間は、実はそれほど長くはない。そして、いまは伊久磨も家庭を持ち、また香織の住む世界とは、違う世界の人間になりつつある。もう二度と以前のような気安い関係になれないことも、ありえると覚悟している。
住む世界が違うのだと知りながら、関係を持とうと手を伸ばすことは、人生できっとそんなに多くない。
(穂高先生は遊び人……遊び人か。たちが悪い。本来なら関わりたくない相手だ)
わかっているくせに、どうしてもひかれてしまう。
それはきっと、伊久磨を拾ったときの自分、奏を引き受けた自分の性分なのだと、香織は自覚している。
生まれたときからずっと同じ場所で生きているからこそ、どうしても「違う世界」にひかれてしまうのだ。たとえいつか別々の道を生きていくとわかっていても。
「俺は、地に足がついてますけどね。だから、こういうのはたまにだとは思いますけど、休日の過ごし方を遊び人に教えてもらうのは、良い機会だということで」
香織が遊ぶ言い訳を考えながら言うと、紘一郎はすぐさま笑って「そこが『真面目』の限界かな」と、茶化してきた。




