朝スタンバイ
「秋になったら、紅玉でアップルパイ良いと思いませんか。クランブルをたくさんのせて、ザクザクした食感と甘く煮たりんごにサックサクのパイ生地で。絶対、西條さんが作ったら美味しいと思うんですよ」
ミュゼ・ステラマリスの床にモップをかけながら、伊久磨が楽しげな口調で言った。
「バニラアイス添えだな。キャラメルアイスもいいかも。あとは大人向けのワインケーキとか、エディブルフラワーで飾ったカッサータあたりも『花』の美術館のイメージとして良いんじゃないか」
フロアのテーブルの上に、補充を済ませたカスターを配りながら、由春が答える。
手を止めた伊久磨が「いいですねー!」と笑顔で同意した。
カウンターの奥でキャベツを刻んでいた聖は、そこで呆れたように「あのな……」と二人に向かって言った。
「『海の星』定休日だからこっち来てくれるのはありがたいけど、蜷川は新婚だろ。昨日結婚したんだよな? 結婚できたんだよな? 休日出勤して働いている場合なのか?」
「今日、奥さんも仕事なんですよ。結婚式場のトータルコーディネート受けることになったそうで、その打ち合わせです。忙しそうです」
結婚しましたアピールで、静香を「奥さん」と呼んでみた伊久磨であるが、聖はそこをあっさり無視していつものように小言を繰り出してくる。
「忙しいのは良いことだけど、あんまり仕事優先してると、絶対すれ違うぞ。良いか、この業界は結婚が早くて離婚も早いやつがたくさんいる。思った以上にいるからな。気をつけないと、あっという間だぞ」
「うちが、ですか? 俺で『忙しい』って言うなら、岩清水さんはどうなんですか」
新婚早々の忠告に、ぴんとこない顔をしたままの伊久磨が由春の名前を出したものの、聖は「わかってねえなあ」とばっさりと切り捨てた。
「由春はまた事情が違うだろ。奥さんが職場にいるんだ。あれはあれで大変。職場の女性に手を出したりした日には普通の修羅場じゃないぞ……」
「職場にいる女性って、藤崎さんですか?」
そもそも由春に限って女性トラブルはありえないと思いつつ、伊久磨が邪気のない様子で具体的な名前を挙げたところで、聖は不機嫌そうに顔をそむけた。
「藤崎はそういうんじゃない。あれはなんというか……、美人な上に幸薄そうな顔しているせいか、誤解されやすそうだけど、不倫はねえよ。そういう性格じゃない」
エレナのことになると、聖は露骨にムキになる。こういう話題にふさわしくない、というある種の潔癖さを思わせる態度で、話を打ち切ろうとするのだ。
(藤崎さん、幸薄顔かな……? そんなふうに思ったことはないけど。ここ最近、少し元気なかったかもしれない)
伊久磨は、手を休めずにキッチンで立ち働く聖へと目を向けた。
昔なじみのよしみで、いわゆる恋愛感情ではなく、友情よりも身内意識に近い「何か」が二人の間にはある。どちらかと言うと、聖からエレナへの感情の方が重い、と伊久磨は感じている。
それだけ取り出して「浮気」とは言えないものの、この先聖が恋人と良い関係を築いていきたいというのなら、やはり少しだけネックになるだろう。伊久磨と静香が付き合うにあたり、静香と香織は「友だちだから」という言い訳を捨てて決別した。少なくとも、以前のように二人で会ったり、家を訪れたりすることはない関係を選んだ。
香織には、そのとき散々「静香を一番に考えろ」と言われ、いまは聖から「家庭を大事にしろ」と言われる。
「家庭を持つと……。あちこちから、家庭を大事にしろって言われるんですね。人間にとって『家庭』ってすごく大事なものなんだなと思います。茶化したり、適当でいいよって言うひとが全然いない」
伊久磨が独り言として呟くと、横で聞いていた由春が「それはな」と言葉を挟む。
「お前の周りがそういう人間だらけだって話だ。自分で選んでいるんだろうよ、価値観の合う相手を」
「そうなるんですかね? 岩清水さんは、そうかな。実家も和嘉那さんの家族も、自分の家庭も大切にしてそう」
「姉貴の話はいい。水沢のことは……」
珍しく、由春が言い淀んだ。
だが、二人が悪い関係になるはずもないであろうことは、伊久磨もよくわかっている。義兄弟としてそれなりに付き合っているのは、会話の端々からわかる。気に入らない、という態度はただのポーズだ。いきなりは仲良くなれないという意味での。
「そういえば、和嘉那さんのところも、出産そろそろですよね?」
伊久磨としてはさり気なく話を振ったつもりであったが、由春には「そろそろと言えばお前だよ」と返される。
「フローリストが結婚式場の仕事受けているのは結構なことだが、お前はどうするんだ」
「どうって?」
「結婚式。するんだろ? 『海の星』で良いのか?」
すかさず聖が「いまならミュゼもありだぞ!」と会話に割り込んでくる。
「あー……シェフは? シェフより、俺が先で良いんですか?」
「俺は、聖がミュゼ始めたからいまは難しい。休みがずれているから、どっちか臨時休業にしないと」
「それって、西條さんが参列できないのはだめってことですか? それとも、その日は西條さんが料理作るからって意味ですか? あ、どっちもか。料理はいざとなったら大豪シェフもいますよね」
思わず、人使いの荒いことを言ってしまった。
由春は珍しく溜め息をつき、そうだなぁ……と遠い目をする。
「俺の場合は人付き合いも含めて考えることも多いけど、お前はそうでもないだろ。やるならさっさとやってしまえ。姉貴のところみたいに、出産してからってなる前に」
「うち、家族いないですからね。何も調整いらない……顔合わせもでしたけど」
「んなこと言ってたら、北川さまが黙ってないぞ。親族席に座ってるんじゃないか?」
何かと伊久磨のことを気にかけている客の名前が出て、伊久磨は口元をほころばせた。
聖は二人の様子を見ながら「遊びに来たなら帰っていいんだぞ、そこの二人!」と声を張り上げる。
ふとひとの気配に顔を向けると、入口にまどかが立っていて、ガラス戸越しにミュゼの店内を覗いていた。気付いた伊久磨が「おはようございます!」と声をかけると、なぜか妙に慌てながら「おはようございます」と言うものの、その場から動こうとはしない。
「……どうしました?」
「あっ、いえ、お忙しそうなので。また後で顔を出します。事務所で仕事しています!」
はい、と答えてから見送り、しっくりこないものを感じながら伊久磨は聖へと顔を向けた。
(何かあったのかな? 何か……何かってなんだろ)
いつもながらに端整な聖の横顔には、ほんのりと笑みが浮かんでいるように見えた。
★いっぽう、その頃……のひとたちでした(*´∀`*)




