咲く花の下に
「休憩きちんと取れよ。初日は初日で大切だけど、疲れが残ると後に響く」
十五時をまわったところで、伊久磨は聖から声をかけられた。
ちょうど店内を一周してきた伊久磨は、人の話し声でざわつく空間を振り返り、どこのテーブルも落ち着いているのを確認してからカウンターの内側に戻る。
「西條シェフが先にどうぞ。貴重な、オーダーが全部終わったタイミングです。会計や片付けは俺に任せてください。疲れを残してはいけないのは、俺よりも西條さんです」
美術館レストラン「ミュゼ・ステラマリス」は、一度店を開けると閉店まで通しの営業の為、ノーゲストになるタイミングがない。
助っ人で入った岩清水大豪は、ひといきついたところで政道と外へ食事に出ていた。まどかは美術館の業務に戻りがてら、静香と食事をすると連れ立って出て行っている。もちろんこれは、まかないを作る余裕が無いだろうという気遣いから。「何か買ってきますか?」と聞かれたが、聖が「とりあえず大丈夫」と断っていた。かくしていま店舗に残っているのは、聖と伊久磨のみ。
伊久磨としては、自分よりもまず聖に休んで欲しいと考えてしまう。
「朝も早かったし、明日の仕込みもありますよね。俺は、閉店後は仕事があるわけでもないですから」
「あのなぁ。蜷川は今日この後、仕事どころか結婚するんだろ」
「ああ」
そうだった、というニュアンスで伊久磨が答えたところで、聖は思い切り顔をしかめた。
「お前、その忘れっぽさどうにかしろ!」
「大丈夫です、仕事が終わったところで思い出せば問題ありません」
「いやそれ一回忘れてるだろ、完全に。大丈夫要素どこにあるんだよ。フローリストが聞いたら泣くぞ」
「慣れ……」
聖は早足で伊久磨に歩み寄り、鋭く睨みつけながら「阿呆」と低く呟いた。オープンキッチンでしかも営業中につき、ギリギリの理性が働いたようだった。伊久磨もまた、傍目には罵られたとは微塵も気取らせない笑みを聖へ向ける。
「さすがに今日は婚姻届出してきますよ。大丈夫」
「当たり前だ。なんのために由春と俺がミュゼのオープンを今日に間に合わせたと思ってるんだよ。偶然じゃない。二重三重にお前の物忘れ防止のためだぞ。Happy Birthday!」
耳元に顔を寄せて素早く言ってから、聖は伊久磨の肩に手を置いた。「冷蔵庫にサンドイッチ入ってる。夜は『海の星』だろうから軽めで良いだろ」さっと離れて、光と花の溢れるホールへと歩いて行く。
真っ白のコックコート姿の背を見送って、伊久磨は小さく吐息した。
(「なんのために」……)
記憶力が落ちた。大切なことも覚えていられない。伊久磨とて、その自覚は大いにある。
そうは言っても、仕事に関わることは別だ。一度顔を合わせたお客様、そのひとにまつわる情報は、入力しているデータを見ずともすらすらと出てくる。だからおそらく、問題は記憶力ではないのだ。
もっと根が深い。
思い出したくない何かに触れないようにしているうちに、忘れたまま生きられるなら、それで良いと思うようになった。いつだって、自分の扱いは雑。大切にする方法が見つけられない。今も、まだ。
聖とこれ以上言い合いはできないので、伊久磨はキッチンの隅の、業務用の冷蔵庫に向かった。中には、バゲットにトマトとマリネとスモークサーモンを挟み込んだサンドイッチがラップにくるまって置いてあった。こんな忙しい日は外で買ってきても良いはずなのに、聖の手製だ。
彼らは、当たり前のように伊久磨の場所を作り、頭数に入れて、休めと言ってくる。
誕生日に結婚記念日を重ねると言えば、ミュゼのオープンも重ねて。
二重、三重に。
伊久磨自身がどれほど忘れても、道を見失って迷っても。
導きの星――帰る場所は、ここにあると。
振り返ると、聖が客席で年配の女性客に声をかけられ、笑顔で応じていた。笑い声が響く。
採光の加減が「海の星」とは違うので、店内全体が明るい。「夏は暑そうだな。対策しないと冷房代がきつい」と聖が苦笑いをしていた。細かいことを全部後回しにしてオープンにこぎつけた分、これからたくさんの問題にぶつかるはず。
観葉植物が店内あちこちに置かれているのは「海の星」に通じるものがあるが、天井から吊るされたピンクや水色の淡い色合いのドライフラワーが、雰囲気を柔らかいものにしている。
花の美術館の中に、溢れるほどの花に包まれたレストラン。
絵的にインパクトがあるから、口コミでの評判は期待できそうだ。価格帯や立地条件もあって、客足は今後も途絶えないだろう。この日の賑わいを見て、伊久磨はそういった、楽観的な見通しを持つことにした。
最悪の、打つ手のない、先の見えない予測を立てることも経営していく上では必要だ。しかし、それが行き過ぎてしまえば、不確定の未来に怯えて萎縮して、新しいことは何もできなくなる。
いっそのこと「なんとかなる」「うまく行く」と思ってしまうことが、いかに大切なことか。
目の前の光景を眺めながら、伊久磨はそっと胸に手をあてた。祈りをこめて。
ミュゼ・ステラマリス。
ここが「海の星」と同じく、多くのひとの出会いと憩いの場になりますように――。
(美術館っていうのが良いよな。予約が必要な一軒家レストランより、ふらっと立ち寄りやすいから、観光客の需要も……。旅の途中……、あれ? 何か忘れてる。俺、絶対忘れちゃいけないことを何か)
胸の上に置いた手で、心臓を握りしめるようにシャツを握る。ドキドキと鳴り始めた鼓動に焦りを覚える。完璧に忘れていることは忘れたことすら忘れていられるが、意識の表層にあるけど思い出せない状態はかなり心臓に悪い。なんだなんだと冷や汗すらかきながら思考をたどった瞬間、ある光景が頭によみがえった。
聖の育ての親が、来ていたはずなのだ。聖が気付いていないとすれば、すれ違いかねない。これは忘れている場合ではなく、必ず伝えねば。
「西條シェフ!」
思った瞬間、声に出た。幸い、歩いて戻ってくる途中だった聖が伊久磨の様子に気づき、「どうした?」と尋ねてくる。
伊久磨は「すみません」と断りを入れてから、口を開いた。
「オープンのゴタゴタのときに、あのひとを見かけました。まだ食事にご来店されていないようですが、近くにいるかもしれませんから、ぜひ連絡を」
「あのひと? 誰だ、椿か?」
「違います。そっか、香織と一緒の可能性もありますね。香織……来るかと思ったけど来てないか」
思わぬ名前が出たことで、緊迫感が一瞬薄らいだ。伊久磨は念のため、確認するように店内に視線を向ける。その横で、聖が笑いながら話していた。
「椿なら、そのうち来るだろ。あいつの義理堅い性格からすると、よほど手が離せない事情が無い限り。それこそ、水沢のところが産気づいて急に抜けて仕事立て込んだとか……」
伊久磨はそこで、「海の星」の常連客である北川の姿を見つけた。入り口に立ち、興味深そうに中を覗いている。聖も気づき「蜷川、行って来い」と素早く指示を出してきた。
スタッフ同士でそれ以上話している暇はなく、伊久磨は北川へ笑顔を向けながら、聖へは最小限の言葉で告げた。
「穂高先生が、来ていたんです。混んでいたから中まで入らなかったのかも。店を見たいはずですから、閉店後でも大丈夫って一言伝えてください」
紘一郎が? という聖の呟きが耳をかすった。伊久磨は「必ず連絡してくださいね」と念を押してから、北川の元へと向かった。