それは猫の手
珈琲の香りが好きだ。
手元から香る、丁寧にいれたドリップ珈琲。
美味しい珈琲が飲みたいと思っていた。
(カフェイン良くないかなと思って、ずっと飲んでない……。産んだら飲めるって思っていたけど、母乳気にして結局飲めないんだ……。喉乾いたなぁ)
痛い。
お腹周りだけではなく、体中がとんでもない痛さで、心愛は息をすることすら忘れるほどだった。どんな姿勢を取ろうとも、脂汗が滲み出る痛み。意識はもうずっと、朦朧としている。
これはいつか終わる痛み、多くの人が通り過ぎた痛み。
そう思う一方で、(私は乗り越えられない)という漠然とした思いに包まれている。
「……無理……痛い」
病院に着いて、分娩台で内診。助産師が「今日中に赤ちゃんに会えますよ」とさっぱりとした口調で言っていた。生まれるのだ。
日々重くなる体、お腹の中の命に気を使う日々がここで終わる。その安堵感を打ち破る強さで「ここから始まってしまう」という否定的な感情が膨れ上がってきて、目に涙が浮かんできた。
どこか想像の世界の出来事のように遠く感じていた「子育て」が、逃げようもなく迫ってくる。これまでの日々、不安に駆られて記事を検索して読めば読むほど、ニュースアプリもSNSも「もっと読め」とばかりに関連記事を表示してきた。否応なく、読み続けた。
子どもを育てられない親、傷つける親。複雑な補助金制度、楽ではない生活。知れば知るほど、未来に救いなどない。光はどこからも差さない。
なぜ生むことにしたのか。どこかから自分の人生は間違えてしまったのではないだろうか。
まさか、こんな直前までこれほど思い悩むとは考えてもいなかった。
全然、親になれていない。いつなれるのだろう。
実家を頼って地元に帰ってきた。決して良い顔をしない母親も、予定日近くなったら、あれこれ買い集めて新しい命を迎える準備をしていた。たとえ複雑な心境でも、受け入れようとしているのは感じていた。
恵まれているかいないかで言えば、頼る相手がいる時点で恵まれている方なのだ。
だからといって、これからの日々への恐怖が薄れるかと言えばそんなことはない。
喉がからからに乾いている。
カーテン向こう、隣の分娩台では「水飲む? 何か飲み物買ってくる?」という話し声がしていた。
少人数のスタッフで産気づいている妊婦全員を見回りやすくするためか、分娩室は大きな部屋に数台の分娩台が置かれていて、カーテンで仕切られているだけらしかった。そのため、陣痛に苦しむ他の妊婦の声も付き添いの声もすべて筒抜けなのだった。
(仕事のある明菜に帰らないでなんてお願いできなかったし……、お母さん来てくれるかな。喉乾いたぁ……)
陣痛の間隔から、数時間以内に生まれるだろうと分娩台に乗せられたまでは良かったが、助産師も看護師も忙しいようで、誰かがそばについていてくれるわけではない。水が欲しい、その一言のためにナースコールするのがためらわれて、心愛はひとりでひたすら耐えていた。あまりにも放置されるので、一瞬「出産前は水分摂取してはいけない」のかと思ったが、隣は水を飲んでいる。これが付き添いあるなしの違い。
喉の乾きは深刻だ。お腹の子に悪影響はないのだろうか。ナースコールを押すべきか。その決断が、できない。
助けて欲しいときに助けて欲しいと言い出せない自分。
「痛いよ……」
声に出すと、負の感情が膨れ上がり、涙が溢れて止まらなくなった。
* * *
「病院に来たからもう大丈夫ってわかっていたつもりなんですけど……。香織さんが残ってくれて安心しました」
産院のエントランス。
待合の椅子に並んで座って、明菜が深い息を吐き出しながらそう告げた。
――やっぱり、生まれるまで待とうかな。明菜ちゃんこそ、仕事どうする? 俺が残るよ。
帰るのをとりやめて、院内に戻った香織。
明菜はその笑顔を見て、脱力したように椅子に座り込んだ。かすかに震えながら香織を見上げた目には、うっすらと涙が滲んでいた。自分でも気づいたのか、その顔を隠すように下を向く。
香織も無理に声をかけることなく、隣に腰掛けて、長い脚を持て余し気味に組んだ。
ややして、明菜が言ったのだ。「本当はすごく不安だったんです」と。
そこで、持ち直したようにまっすぐに背を伸ばして、前を見つめる。
「生むのは私じゃなくて、心愛なのに。心配してもどうしようもないのに。いま心愛ひとりなんだなって思ったら、隣についていなくて良かったのかなって。一緒に病院まで来たのに。だけど、他人の距離は、ここまでじゃないですか。友達が出産に付きそうわけにはいかない、そこまでは入っていけないって気持ちも強くて。友達ってなんなんですかね」
声が濡れている。
香織は腕も組み、背中を背もたれに押し付けて「そうだねえ」と言った。
「良識みたいなものがあると、子どもの頃から言い聞かせられた常識に逆らうのが大変だよね。『命には責任がつきまとう。最後まで面倒見られないなら中途半端な情けはかけるな』って。いざというとき、代わってやるくらいの気持ちになれる相手じゃない限り、そこには踏み込んじゃいけないって自戒が。他人だから」
確かめるように、言葉にして口にする。
自分自身が何度も何度も考えてきた、他人との距離。一時の同情や施しに、なんの意味があるのかと。
(だけど俺は知っている。どうしようもないとき、ほんのひとときそばにいた誰かの手を借りられれば、あとは自分で歩いていける。そういうひとだって、世の中にはいる。……その確信を俺にくれたのは伊久磨だ)
亡骸のようになってしまった以前の姿を、覚えている。その伊久磨が、そこから這い上がってきて、今では簡単に倒れることもなく、誰かを支えて毎日笑って生きている。それが。
迷い、戸惑い、何度も立ち止まる香織の足を、前へ前へと進ませる。
誰かを助けたいと思ったこと、寄り添いたいと思ったこと。その願いを決して「偽善」という言葉に置き換えさせない。
肯定をくれる。背中を押してくれる。
「他人ってつらいです。何かしたいのに……何をすれば良いのか」
鼻をすすりながら、明菜が呟いた。
香織はその様子を横目で見た。
なぐさめを口にすることなく前に向き直り、口を開いた。
「他人だから手助けできないって感情は俺もわかる。同じくらい、『他人に助けを求めちゃいけない』って感情のブレーキの強さも、わかる。助けてって言うのはすごく勇気がいるよね。心愛ちゃんの性格考えてどう? 言えると思う?」
「……言えないと思う……。だけど私も……自分は壁を作っていないつもりでも、いますごく幸せで。そういう私が、いまの心愛からどう見えるかと思うと……。助けるって仕草が上から目線に感じないかなって思うと、怖くて。嫌われるんじゃないかと」
涙声で言われて、香織は前を向いたまま苦笑した。「あのさ」と低い声で呼びかける。
「岩清水に怒られそうだから、なぐさめるのはやめておく。泣いている女の子放っておくのは俺も辛いんだけど、明菜ちゃんは大丈夫だと思うから。いま幸せだって。それ百パーセント混じり気なしでしょ」
「はい」
躊躇のない返事。その強さに、香織は笑みを深める。二人の間にはどんな間違いも起こりようがない、その感覚が心地よい。「信頼」が、そこにあるのを感じられるから。
目には見えなくても。それは無数の糸のように周囲に張り巡らされている。
「いま大丈夫じゃないのは心愛ちゃんだよね。大丈夫じゃないって俺も明菜ちゃんも思ってるんだもん、これは絶対確実に大丈夫じゃない。本人がどう強がったとしても、人手は足りてないし将来だって不安だろうし。それがわかってるなら、遠慮する必要なくない? 友達って他人だけど、友達の距離にいられる時点で無力じゃないよ。嫌われたらそのときはそのときで。何かしたい気持ちの方をいまは優先しようよ」
「自己満足じゃないですかね」
はあ、とそこで香織はため息をつく。
そして、猛烈な早口で言った。
「この世の中には、真理ぶった猜疑がまかり通りすぎている。『誰かが死んで涙を流すとき、それはそのひとを失った自分を悲しんでいるのだ』とかさ。どんな意地悪な奴が考えついたんだろうって俺は思うよ。なんで自分の悲しさまで偽物扱いされなきゃいけないんだ。助けたい気持ちだって、そうだよ。相手が必要かもしれない、そう思うのは自分の押しつけかもしれない、悩むよ。だけど、べつに見返りなんか求めてないんだ。やりたいように生きようよ」
言うなり、香織は立ち上がった。「来た」と鋭く、囁く。
ガラス戸の向こうにひとりで荷物を持って立った女性が、心愛の母親だと、すぐにわかった。
こわばった表情でエントランスに足を踏み入れ、明菜を見てほっとしたような表情をする。明菜もまた立ち上がった。香織は「行こう」と明菜に声をかけた。
「連絡ありがとう、明菜さん……」
控えめに話し始めた心愛の母の前に立ち、その手からさりげなく荷物を受け取りながら香織は歩き出した。
「どうも、こんにちは。行きがかりで心愛さんを病院に運んできた椿といいます。家族じゃないんで奥まで入るのは遠慮したんですけど、いまにも生まれそうでしたよ! 急ぎましょう!」
その堂々たる態度に、心愛の母は道案内してくれると了解したらしく、素直に従いながら「そんなにすぐ生まれるものかしらね」と言った。
肩を並べた明菜が「もう頭出てるんじゃないかってくらいの緊迫感で!」とまくしたてる。
三人で話しながら受付をすませ、分娩室に向かう道すがら、香織が自販機を見つけて「ここにあるってことは差し入れ用だと思う?」と明菜を振り返った。
「どうでしょう?」
「何飲みたいかわからないから、いろいろ買っておこう。妊婦の体に悪いものはないよね? 紅茶はやめておいた方が良いかな。カフェインが」
ひとりで言いながら、さっさと水やスポーツドリンク、リンゴジュースのボタンを押す。
呆気にとられている女性二人に、「俺、荷物持ちしてるからドリンク頼んでもいいですか?」と言って買い込んだペットボトルを渡した。
分娩室に近づくと「佐々木さん! 良かった、付き添いの方ですね!」と看護師が心愛の母に気づく。
浮足立ったままの心愛の母は「あの、荷物」と落ち着き無く言ったが、「俺と岩清水さんでみてるから大丈夫です、行ってください」と請け負った香織の言葉に押されるように、ペットボトルを数本抱えたまま去った。
その後姿を見送って、二人で廊下のベンチに座り込む。明菜がそわそわとしながら口を開く。
「ここまで来たのに、何かできた気がしないんですが」
座っていた香織は、「大丈夫!」と明るく笑って、破顔した。
「荷物見てるし、差し入れもした。意外とそれだけのことが、めちゃくちゃ助かったりするんだよ。人手がないから全部自分でやらなきゃ、て思うときに害にも毒にもならないささやかな手助けがあったりすると」
「猫の手……」
「そうそう。後はここで待っていて、いの一番におめでとうとお疲れ様言おうぜ。生まれてきた子どもに、ここは怖い場所じゃない、生まれてきて良かったんだ、待ってたって言えば良いんだ。他人とかどうでも良い」
いつになく強く言い切った香織は、ふとスマホの振動に気づいてポケットから取り出した。
ちょうど、医者らしき男性がばたばたと分娩室に入っていく姿が見えて、明菜は祈るように「そろそろですかね……!」と呟いて、胸を手で押さえた。