選んだ生き方
ランチの最後の客が席を立った後。
表の出入り口に鍵を締め、キッチンに戻ってきた由春が、すでにディナー用のケーキに取り掛かっている幸尚に声かける。
「何食う? なんでもいいぞ」
「フルコースでお願いします! 1万五千円の特別コースで」
顔を上げて、すかさず答えた幸尚。
由春は腕を組んで、眼鏡の奥の瞳を和ませた。
「いいけど、セッティングから料理運ぶところまでは自分でやれよ。俺は作るだけだ」
「あ~、いま時間無いんで、それはパス。味のはっきりしたのが食べたいです。エスニック」
「トムヤンクン?」
「Très bien!」
同意が取れたところで、由春は「やるか」とのんびりと声に出して呟き、キッチンを横切る。
その動きを視界の隅にとらえて、幸尚は顔を上げぬまま言った。
「相変わらずですね、この店。いっつも落ち着きなくて、家族ごっこしてる。ホームドラマでも見せられてんのかと思いました」
立ち止まらず、由春はステンレス台を回り込んで冷蔵庫に向かう。背を向け、食材を手に取りつつ答えた。
「そうだな。めぐりあわせとはいえ、スタッフの身内色が強い。本来、情に訴える関係がなくても、会社は成り立つはず。今は少し、バランスが悪いんだ、この店」
幸尚は手を止めて、由春の背中を見た。
「ハルさんはそういうこと、思っても言わないもんだと思ってた」
由春は手に抱えてきた海老や香草、スパイスをざらっと調理台に並べて、かすかに口の端を持ち上げた。
「お前だからだよ。もうこの店の人間じゃない。外から見れば、余計にそういう点は気になるだろ。人間同士の距離の近さが、仕事をする上で邪魔になってないかって」
「それはそうっスね。何もないとすごく自由ですよ。欲しいポジションに邪魔な奴がいれば、技術で圧倒してしまえば良い。相手が潰れても落ち込んでも知るか。海外行きたいなって思ったら、行けば良い。自分が抜けた後の店のことなんか気にしないで。そうやって、自分のことだけ考える人生は、本当に満ち足りてる。もちろんその俺が、どっかで倒れてもきっと誰も助け起こしてくれない。野垂れ死んで、そこまで」
しがらみがなく、縛るものが無いから、自分のやりたいことだけに集中できる。ただし、セーフティーネットからは、外れてしまう。
選ぶのは自分。
由春は海老の殻をむきつつ、幸尚が話し終えたところで口を開く。
「面倒なんだよな、人と人の繋がりは。自分は料理をしたいだけなんだ、余計な話とは関わりたくない。そう言えたら楽だし、そういう人間も実際この世界には多いよ。『自分は他の些末なことに時間を使うより、料理を作っていた方がよほど人の役に立つ』その確信があるなら、そう生きれば良い。家族も仲間も顧みることなく、自分の技術を磨き、知識を高め、最高の料理を作る。『好きなことを仕事に』した人間なら、誰だってそうしたいんじゃないか」
流水で、さっと手を洗っている。
幸尚はといえば、いまだ手を止めたまま、じっと由春を見つめていた。やがて、かすれ声で言った。
「よそに行って、わかることもありますよ。ハルさんは、そういうこと言っちゃって許されるひとだ。技術にしても才能にしても、ハルさんみたいなひと、あんまりいない。こんな田舎に引っ込んでないで、わがままに生きれば、もっと上に行ける。それなのに、どうしていろんなものを背負い込んで、がんじがらめになって身動きとれなくなってるんスか? 居場所のない奴なんか知るかって、全部突き放しちゃえばもっと楽になれるのに」
声には、悔しさややるせなさ、どうしようもなさが滲む。なんと言っても、由春がこの先そういう人生を選ばないだろうことを、悟ってしまっているから。
家族のような濃すぎる関係、ときに仕事の支障ともなるトラブルの種。自分の周りの抱えるいくつもの不穏当なものを、黙って引き受けてしまう。それが自分の翼の妨げになると、わかっていても。
幸尚の心情には気付いているだろうに、由春はのどかな声で答える。
「そうだなぁ……。俺、案外二周目なのかも」
「なるほど? 死に戻りチート? 一周目で栄達極めて名声欲がなくなって、二周目はスローライフしながら街づくりしたい感じ? ハルさんと愉快な仲間たち。実際さ、俺ひとり抜けても周りにいっぱいいるっスよね。ハルさんを慕う子どもたちが」
勢いに任せて幸尚が言い募ると、由春は破顔した。
「お前もう、ここに帰って来んなよ」
「ひでぇ。今日これだけいいように使っておいて」
「どこへでも行けるんだ。行ってこいよ」
目を合わせて話すと情緒がかき乱されてしまいそうで、幸尚は慌てて目をそらした。
こんなはずではなかったのに、と胸の中でさかんに言い訳をする。茶化しただけで、重い話をしようとしたわけではなかった。出て行った自分が、いまさら。
それなのに、由春はここぞとばかりに語る。
「人の繋がりとか、家族的な経営とか。いまの時代、そんなのブラックの隠れ蓑で、やりがい搾取とパワハラ横行を口当たり良く言い換えただけだよなァなんて俺でも思うよ。そういうのを大事にする奴がいるから、いつまでも無くならないんだ、って。いっそ壊してしまえば良いのに。だけど、それだけじゃないだろって頭のどこかで気付いていて、どうにかうまくやれねぇかなって考えている俺もいるんだ。そういうのが無くならないのには、理由があるんじゃないか。自分が価値なしと判断したからって、他の誰かが大切にしているものを簡単に壊して良いのか。一度とことんその『面倒くさいもの』に付き合ってみたら、世界が違って見えるんじゃないか……。今の俺がやってるのは、そういうこと。それに、幸尚まで付き合う必要はないし、自由に生きられるなら生きれば良い。貫き通せよ」
一緒に働いていたときでさえ、ここまでの話をしたことがあっただろうか、と。
話してもらえるようになったのは、「出て行った人間」だからか。「成長して、話すに足る人間になった」と見てもらえているというのは、思い込みだろうか。
幸尚は自分の手元に目を落とし、作業の続きを頭に描きながら、声に感情が乗らないように気をつけて言葉を紡いだ。
「そういうの含めて、俺はハルさんにはなれねえなって思うんスけど。俺は俺なんで」
「良いんじゃないか。俺だってな、自分がもう一人いたら面倒くせえよ。俺よりさらに面倒くせえことに首つっこむ椿見ていると、ほんとあれは無理だなって思うし」
「ああ……。あのひと、なんで毎回ああなんスかね? こう、蛇口の壊れた水道みてえな……、いや、もっと適切なたとえが何か……」
香織は突然現れた幸尚に、工場を貸し、宿まで貸してくれた。その後、「海の星」まで送ってくれたと思ったら、負傷したオリオンを病院につれていき、さらには産気づいた心愛の世話まで。
香織がいなかったらどうなっていたんだと言いたい反面、「あのひとがいたから問題が起きたんじゃないか?」という気持ちも捨てきれない。いつも事件現場に居合わせる名探偵のようなもので、彼がいなければ事件は起きなかったのでは? と思ってしまう現象だ。
「まあいいんだ、あれはあれで。本人は蛇口きっちり締めてるつもりなんだろうけど、水道管からぶっ壊れてるの気付いてないんだろ。いっつも他人を気にかけて、結局首突っ込んで。見返りとか考えてないから危なっかしいけど、知らねえ。俺に泣きついてくることはないだろ、その前に応援団がたくさんいる」
「ニナさんとか? 仲良いスからね。ズッ友」
適当に受け流すような返事をしながら、幸尚は作業を再開。
面倒事に突っ込んでいくひと、面倒事そのものの人間関係。よせばいいのに、そういうのにリソースをとられてしまう天才シェフの生き様。
全部が自分とは違って、理解の外で、何年一緒に過ごしてもしっくりくることはなかった。
だけど結局嫌いじゃないし、こうしてふらりと戻ってきたときにまだ、自分の居場所があることにほっとしたりもする。
「そのケーキ良いな。伊久磨泣くぞ」
幸尚の手元を見て、由春が笑いながら言う。
「い~や~、気づかないんじゃないスか? ニナさん鈍感だから。あ、言わなくていいですからね。感動されると面倒なんで。男泣かせてもつまんねぇし」
軽口をたたきながら、幸尚は目の前のケーキに集中しようと深呼吸。
連絡待ちの心愛の出産、由春との会話。そのすべてを意識から締め出し、自分ひとりでどこまでも高みを目指す。
その世界の扉を開き、思い切りダイブした。