信じる道を行く
「車っていうか、救急車じゃなくて?」
裏口からひょいっと顔を出した幸尚が、冷静そのものの様子で口を挟む。
香織は「そうだよ!」と即座に叫ぶも、心愛が「そこまでじゃないから」と打ち消した。
「そこまでじゃないってなに? いま救急車を使わないでどうするの? いや、話している場合じゃない、すぐ車まわしてくるから!」
「心愛、立って大丈夫なの?」
幸尚の横をすり抜け、裏口から出てきた明菜が、心愛の横に立って手を貸す。それを見届けることもなく、香織はその場から駆け出していた。
由春は、明菜に向かって素早く声をかける。
「佐々木についていってくれ。戻ってくるのは、そっちの安全の確認とれてからで良いから。戻らなくてもいい、店は気にするな」
「わかりました」
明菜は、緊張した面持ちで答えた。
オリオンが抜けていて、伊久磨と聖はミュゼ。エレナのシフトは夕方から。
ランチタイムはまだ続いていて、由春だけでどうするつもりなのだと言いたいが、飲み込む。由春は、やると言ったらやる。これ以上の会話は必要ない。
(お店のお客様はもちろん大事だけど、心愛の一大事に、仕事を優先しているような言葉を聞かせるわけには……!)
明菜のその心配を正確に汲んだらしく、由春は厨房に戻ろうとしていた幸尚の肩に腕を回して告げた。
「幸尚がいるから、大丈夫」
「俺、たまたまここにいただけなのに、頼りにしてくれちゃって。ほんと運が良いなァ、うちのシェフは」
するりと腕から逃れて軽口を叩いた幸尚の目が「さっさと行ってください」と言っている。明菜はほっと胸をなでおろして、頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
* * *
そこまで我慢しなくても良かったのに、と言った産婦人科の看護師ののどかな対応に、香織と明菜は青い顔をしたまま「よろしくお願いします」と頭を下げた。
痛い、破水したかも、気持ち悪い、と病院までの道すがら心愛が呟き、付き添い二人はもはや生きた心地がしていなかったのである。
病院についたところで、明菜が受付に走り込み、車椅子を出してもらう。心愛が病院の奥へと連れていかれ、看護師に「ご家族の方ではないんですか?」と確認されて二、三受け答えしたところで、ようやくほっと一息。
受付前の待合のソファに二人でぐったりと座り込んで、脱力。
香織は背もたれに背を預け、天井を仰ぎながら両手で顔を覆った。
「怖かった。生まれたらどうしようかと」
「何事も個人差ですからね。心愛は『初産は時間がかかる』と言われていたのを真に受けていたみたいですけど、もういつ赤ちゃん出てきても不思議じゃないと、ドキドキしました」
明菜も震え声で応じ、二人で車中の恐怖を思い出して語り合う。
自分にはどうにもできない、人の命がかかっている、という事態に関わるというのは、実際のところかなり心労が大きい。
「看護師さん、落ち着いていたね……。こういう焦ったひと見慣れてるんだろうけど、こっちがこんなに焦ってるのにその対応!? って、俺びっくりしちゃった……」
「そうですね。そこまで見越してあの落ち着きなんでしょうけど、焦りが伝わってない感あって、話が聞こえてるのかなって心配になりました」
「毎日毎日、そういう患者さん相手にしているんだろうね。ほんと大変なお仕事だとは思うけど……」
ふー、と香織は大きく息を吐きだす。焦りながら、事故らないように気をつけて車を走らせた数分がまだ嫌な緊張感として残っている。今更になって手が震えていることに気づき、口元だけでふっと薄く笑って、座り直した。
「明菜ちゃんが一緒に来てくれて助かった。病院のひと、明らかに俺を『旦那さん』て呼ぼうとしていたけど、明菜ちゃんが『付き添いです、友人です』て言ってくれたから……」
おそらく、普段診てもらっている医師や事情を知っている看護師ならば、心愛が未婚であることは知っているはず。だが、状況が状況だけに香織が心愛の子供の父であると誤認される恐れは十分にあった。忙しいときに無用な混乱を招かず済んだのは、率先して明菜が動いてくれたおかげ。
「心愛があの状態だと、説明できなかったかもしれませんから。ここまで香織さんが運転に集中するのも難しかったと思いますし……。あとはご家族への連絡もありますからね。心愛から家の固定電話の番号聞いているので、連絡してきます」
まだやることがあった、とばかりに明菜が立ち上がる。
座っている香織に「少し休んでくださいね」と言って、出入り口の自動扉から外へと出て行った。身動きもできぬまま香織は目を閉ざす。
(岩清水の機転に助けられたな……。「旦那さん」なんて言われてあれこれ用事を頼まれたら、俺、断りきれないで、今頃分娩台で心愛ちゃんの手を握っていたかもしれない)
ひとりで生むと決めた心愛の心情を思えば、できる限り協力してあげたい気持ちはある。一方で、その援助が一線を超えないように、自分を厳しく律していなければ。他人の出産を、感動もののように消費するなどもってのほか。
この先、バランスを崩さず長い期間見守っていこうと思ったら、一時の同情ではなく距離感を見極めた友情こそが大切なはず。
それこそ、男女であれば簡単にその関係性はグレーなものとなり、自分や相手の未来に暗い影を落とす。エレナの葛藤を聞いたこともあり、香織もそれを強く自覚していた。
(伊久磨をそばに置いたときは、そういう計算何もしなかった。自分が、目の前の相手にしたいこと、全部できた。若かったのかな……。ああいう関係はもう、誰とも……)
相手のすべてを引き受けられない自分を知っていてなお、長く付き合うために、敢えて深入りしない距離で付き合う。
それはおそらく、いま香織の周囲にいるひと皆の態度でもある。
誰も悪くなくて、正しくて。そのおかげで、香織は誰かの一番でなくとも、二番以下として気にかけてもらえているのだ。
それは、感謝しこそすれ、責めるようなことではない。
自分の中で、折り合いをつけること。
「香織さん、お待たせしました。心愛のお母さんと連絡がとれて、着替えとか入院セット持って向かってくれるみたいです。私はこのまま引き継ぎがてら待ちますけど、香織さんはどうしますか? 何か用事があったんじゃないですか?」
戻ってきた明菜に声をかけられ、香織はとっさに笑みを浮かべる。立ったままの明菜を見上げて「お母さんがくるなら安心だね」とつとめてのんびり言った。
「俺は、用事というほど用事があったわけじゃないけど。心愛ちゃんのお母さんと面識があるわけでもないし、不審者だろうから帰ろうかな」
「不審者ではないですよ、命の恩人です」
明菜に訂正されたが、香織は言い終えた勢いで立ち上がる。
(この場にはいない方が良い。未婚の心愛ちゃんのそばに男がいると、お母さんだって気になるだろう。子どもの父親なんじゃないかとか、産後一緒にやっていこうと誓った恋人なんじゃないかとか)
娘の先行きが不安なだけに、先走って考えてしまうことは十分ありえる。誤解が発生する前に、すみやかに立ち去らねば。
香織は明菜に微笑みかけ、軽い口ぶりで言う。
「今日生まれたら、伊久磨と同じ誕生日だね」
「そうですね。お誕生日、毎年一緒にお祝いできますね」
儚い未来だ。
彼らは皆、会社の仲間というつながりでしかない。伊久磨はともかく、心愛がいつまで「海の星」にいるかもわからない。幼い子どもを抱えて、仕事に本当に復帰できるかすら、おぼつかない。
未来はまだ何も見えていない。
明菜とてわかっているだろうに、精一杯明るく言っている。
その気持ちを無下にしないよう、香織は「そうだね」と頷き、ひらっと手を振ってその場を後にした。
病院を出ると、日差しの明るさに思わず立ち止まり、目を細めた。
(ひと一人の生き死にに関わるような騒ぎがあったのに、考えるのは「踏み込まないようにしよう」「余計なことは言わないようにしよう」ばっかりだな……。人間と人間の関係って、そこまで脆くて繊細なんだろうか。俺はいったい、何に遠慮して生きているんだ)
頭ではわかっている。これが正しい。少なくとも、自分の充実感や達成感のために、感情的になって他人を振り回すのは、間違えている。
そういう関わり方がしたいのなら、それを許しあえる相手を自分で見つけなければならない。
「あ~……まぶし……」
強い太陽光を避けるように目元を手で覆い、香織は一人呟く。
車の方へと歩き出しながら、今日の予定はなんだっけ? とぼんやり考えてみた。朝からの行動を順番に思い出して、ようやく記憶がよみがえってくる。
ミュゼに行こうとしていたのだ、そういえば。
「手土産も何もねえけど……ひやかしになる……どうしよう」
迷惑かな、という言葉がよぎった。
その次の瞬間に、頭を振ってその考えを払った。
そればかり考えていると、癖になる。たまには、自分がやりたいことをしなければ。
決めた足先が向いたのは、いま出てきたばかりの病院。
ためらう前に、歩き出す。
(他人の出産で感動しちゃいけないとか、節度ある距離感でとか、そんなこと知るか。生まれてきたときにおめでとうって言う人間がひとりでも多い方が、その子の先の人生に少しでも光をもたらすかもしれない。そう信じたっていいだろ)
信じる道を行くことを、自分に許す。この瞬間、そう決めたのだ。




