暗闇の中でこそ、星が見える
「静香さん、聞いてはだめです。ちょっと向こうへ行きましょう! まずは落ち着くのが肝心です!」
まどかの聞き取りやすい声が、ホールによく響く。
真正面から言われた静香は、真剣そのもののまどかの顔を見て、とっさに手を握り返した。
まずはこのひとを落ち着かせねば、と微笑みかける。
「大丈夫です、状況はわかっていますから」
「静香さん……! 私、何も知らなくて!」
焦った口調で言い募られて、静香はさらに柔らかい声を意識してゆっくりと話した。
「知らなくて当然です、もともと何もないんです。館長がいま考えているような悪いことは」
「あの、蜷川さんが、結婚しないって……!!」
ここで、静香の視線が伊久磨に流れる。目だけで「(伊久磨くん? 勘違いされてるけど?)」と素早く伝える。
正確に受け取った伊久磨は素直に「(ごめんなさい)」と口の動きで謝り、頭を垂れた。
それから、聖へと向き直る。
「西條さん、ここで『結婚しないのか!?』とボケるのはやめてくださいね」
釘を刺した伊久磨に対し、聖は腰に手を当て、胸をそらしてきっぱりと言い切った。
「俺をなんだと思ってるんだ。そこまで間抜けじゃねぇよ」
_人人人人人人人人_
>間抜けだよ!!<
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
(くそっ、言えたら言ってるっての。無自覚なところが質悪いんだって、悪気なさすぎだから)
いまこの場で口に出してはならない思いを胸に、伊久磨は笑みを浮かべて市長へと向き直った。
「『めでたいことはいくつ重なっても、いいものだ』ってすごく素敵な言葉です。本当にその通りですね。当店といたしましても、オープン初日に、こんなにお客様が来てくださるなんて嬉しい誤算でした。さらに市長からお祝いの言葉まで頂けて、スタッフ一同励みになっております。お席はいまの時間帯空きがございませんが、また何かの機会にお立ち寄り頂けたらと思います。本日はどうもありがとうございました」
さっと頭を下げて、一礼。
顔を上げると同時に、聖の腕を摑んで市長のもとへと引きずる勢いで進み、「何卒よろしくお願いします」と言って二人の手をぶつける。流れで二人が握手をしたところで、ぱらぱらと拍手が起きた。
伊久磨はまどかを振り返ってすかさず「館長も!」と呼びかけた。
そばにいた静香が「行ってください!」とまどかの背を軽く押す。自分の役目を思い出したらしいまどかが早足で駆け寄り、聖の横に並び立つ。
ほら、まどか、と聖の唇が声を出さずに動いた。
握手していない方の手が、まどかの背に軽く触れる。
そこで、まどかは市長をまっすぐに見つめた。
「このたびは励ましの言葉をありがとうございます。市民の皆様の憩いの場になれるよう、美術館とミュゼ・ステラマリスは一丸となって居場所作りに取り組んでいきたいと思います……!」
ぱらぱらと続いていた拍手が盛り上がるよう、伊久磨が強く手を叩くと、わあっと拍手も今一度盛り上がった。
うんうん、と頷きながら市長はまどかとも握手をする。
その背後で、てこてこ歩み寄った静香が、市の職員の女性に「結婚しますよ、大丈夫です」と笑顔で話しかけていた。「そうなの、おめでとう」と微かに会話が聞こえてきて、伊久磨は胸をなでおろす。
次の瞬間、ハッと悪寒に襲われてミュゼの店内へと目を向けた。
(ヒロシェフ、ひとりにしてきた……!)
せわしなく戻ろうとしたところで、視界の隅で行列客に椅子を渡している紘一郎の姿が目に入った。てきぱきとした動作で作業を進める姿は、頼もしい美術館のスタッフに見える。
店内では、「海の星」の常連客である女性二人が、レジの前で他の客と談笑していた。伊久磨と目が合うと、ウインクをくれる。「会計が止まっているから、時間稼ぎをしておいたわよ!」と言ったところだろうか。
大豪はカウンターの奥のキッチンで立ち働きつつ、客に何か話しかけられ、笑顔で言葉を返していた。
背後では、市長と話しているまどかと西條の声。
静香を目で探すと、少し離れた位置で市職員の女性と並んで立っていて、小さく手を振ってくる。
伊久磨は口元をほころばせ、頷いてみせてから店内へと足を向けた。
(いろんな人に、助けられている……)
初日。アクシデントは覚悟していた。どれほど備えていても、完璧にはできない光景を思い描いていた。
崩れたら崩れたで、リカバリーすればいい。アクシデントも含めて、お客様にとって「良い思い出」になるように動けば良い。
そう思いながらも、いざ崩れ始めたときの緊張感は並々ならぬものがあった。
取り戻せなければ? 怒って帰ってしまうひとがいたら?
“たとえ百人が楽しかったと言って帰っても、たった一人でもクレームになったら、その日の営業は成功したとは言えない”
かつて由春は「海の星」での立ち居振る舞いを伊久磨に教える際に、二度三度、その言葉を口にしていた。
一日の終わりに、「一人とりこぼしたけど、今日はそれなりだった」と思ってその日の出来事を忘れるようになってはいけないと。
伊久磨は店内に戻り、待っていた客の会計を済ませ、心を込めて「またの来店をお待ち申し上げております」と口にする。
レジ横に用意していたノベルティ、一輪の花をひとりひとりに差し出し、笑顔で別れを告げて頭を下げた。
(初日だから、完璧にはできないだろうから。初めからそう諦めていなかったか? 自分を甘やかしていなかったか? 俺はきちんとお客様の顔が見えているだろうか)
思った以上の客入りで、「海の星」とは違うペースの速さに浮足立っていなかったか。
レジ前で待っていたのに、「忙しいでしょうから」と無駄話をしないで去っていった「海の星」からの女性客に感謝しつつ、話し声や笑い声の溢れる店内を見渡す。
そのとき、気配を感じて振り返ると、静香がそっと横に立ったところだった。
「配布用の花、二回転目はともかく、その先で足りなくなりそうだね。うちのお母さんに作ってくれるように連絡しておく、私が今から取ってくるから。足りないくらいなら余った方が良いでしょ」
「助かる。お願いします。静香が残っててくれて良かった」
静香はにこりと微笑むと、それ以上話し込むことなく背を向けた。
伊久磨は思わず手を伸ばし、静香の手をとる。
驚いたように振り返った静香に、早口に告げた。
「本当に感謝してる。ありがとう」
「う、うん。私も。ずっと、自分は仕事をする伊久磨くんにとっては他人みたいな感覚があったから、こういう形で『海の星』に関われて良かった。大切な場所に私をいさせてくれてありがとうね」
互いに、それ以上話している時間はないと了解しているので、そこで切り上げた。
静香はそのまま店を出ていき、伊久磨はレジに向かってきた客に声をかける。
乱れていた気持ちが、嘘のように安定を取り戻していて、伊久磨は穏やかに微笑んだ。
* * *
虫の知らせと、言うのだろうか。
オリオンを病院に送り届けた香織は、患部が足だけに帰りも送るつもりで治療を待った。
昼休みに入る前ぎりぎりであったが病院側が対応してくれたおかげで、全部が終わっても昼過ぎの時間帯。その後、オリオンを滞在先である岩清水邸に送り届けたところで。
「なんだろう……、何か落ち着かない。何か忘れてる?」
車を走らせながら、香織は思わず独り言。虫の知らせなのだろうか、妙な胸騒ぎがして、「海の星」へと向かう。
昼時に電話を鳴らすのは悪いから。
話せそうなら話して、忙しそうなら帰って来れば良い。自分に言い訳をして店舗に向かう。
正面から入ろうか悩み、「オリオンのことを岩清水に報告するのだから」と決めて裏口に向かう。
その従業員用のドアの前に、心愛がうずくまっていた。
「どうしたの……? 具合悪いの?」
「……陣痛かもしれない……」
「え……? それって、ここにいていいの? 病院に連絡した?」
陣痛、という響きに焦りを感じつつ、本人より動揺してはいけないと慎重に聞き返す。
心愛はふらりと立ち上がり、脂汗を浮かべた顔で香織を見上げて言った。
「前駆陣痛というのがあって、陣痛の練習みたいなの……。初産の妊婦さんは区別つかないですぐパニックになって病院に連絡しちゃうけど、前駆陣痛ならいずれおさまるから、十五分間隔になるまで連絡しなくていいですよって言われてて」
(陣痛の練習ってなに!? 出産って一発勝負じゃないの!? 誰が練習してるの?)
意味がわからない、とわめきたいのを堪えて、香織は聞き返した。
「陣痛が十五分間隔ってどういうこと? いまどのくらい?」
「……ずっと痛くて、もう何がなんだか」
「病院ッッ! とにかく病院に連絡しよう!! 車なら俺が出すから、ここにいちゃだめだって! ここで生むことになったらどうするの? 岩清水に赤ん坊取り上げてもらうの!?」
緊張が限界に達した香織が騒ぐと、心愛はスマホを取り出して「連絡してもいいかな」となぜかこの期に及んでもためらいをみせる。
耐えきれずに、香織は「いいから!!」とほとんど怒鳴るような勢いで言ってしまった。
声が聞こえたのか、由春がドアを開けて顔を出し「どうした?」と尋ねてくる。
心愛が手からスマホを取り落とし、口元を押さえて「もうだめ」とかすれ声で呟いた。
香織は由春への説明と心愛の説得を兼ねて「病院行くよ!!」と今一度叫んだ。




