めぐりあわせ
シャラララッと店内に響いた鈴の音に、振り返る。
明菜は早足でエントランスに向かい、そこにいた人物を見て、顔をほころばせた。
「北川さま、いらっしゃいませ。今日はお早いですね。お食事でよろしいですよね?」
レストラン「海の星」の常連客である小柄な老人、北川。予約をしないで飛び込みで来ることも多く、明菜も顔を見てすぐに対応をする。北川は、にこにこと笑って「はい、はい」と頷いた。
「どうぞ、お席にご案内します」
「今日はほら、あなた。どうなの?」
少し先を歩き始めた明菜に、北川はのほほんとした調子で謎掛けのような言葉を口にした。
明菜はすぐに、何を聞かれているのかあたりをつけて答える。
「ミュゼのオープンの影響ですか? もしかしたら少しあるかもしれません。今日はあちらへ行くとおっしゃっているお客様もいました。蜷川も応援に行っているので、ここにはいないんです」
北川は、もともと伊久磨を贔屓にして店に通うようになった、と明菜は聞いている。普段はランチのピークが終わった頃、伊久磨の顔を見てゆっくり話をするのを楽しみに来ている様子だった。
しかし、今日はオープン早々の時間帯。いつもと、行動パターンが違う。
まだ一組しか入っていない店内、窓際の席へ通す。明菜にすすめられるがままに腰を下ろしてから、北川が言った。
「あちらばかりが人気になったらどうなのかと心配になってね。私はこっちにしておこうかと思ったけど、そうなの。蜷川くんは二号店なの」
「いえいえ、今日だけです。もしかしたら、明日も向こうに出る可能性はありますが。普段はずっとこちらですので、ご心配なく」
明るく言ってから、明菜はもしかして、と思い当たる。
(今日は蜷川さんの誕生日で、しかも結婚することも知ってて、お祝いに来てくれたのかも……!?)
客と店員だが、二人の関係性を考えれば、そのくらいのやりとりがあった可能性は十分に考えられる。
どうしよう、確認した方が良いのかな? と明菜は逡巡した。もし違った場合は大変厚かましいが、違わなかった場合は、それこそ一言フォローしたい。
伊久磨の留守を預かっているからこそ。
悩む明菜に対し、北川は「いつもので」と簡単にオーダーをしてから、さりげない調子で続けた。
「あちらはクローズ無し、だったかな」
「はい! ランチの営業から、美術館の閉館時間三十分前のラストオーダーまでずっと営業中です」
「それじゃあ、申し訳ないけど今日はデザートはひとくちで大丈夫。散歩がてら向こうも見てくるかもしれないから」
つまり、ここで食事をした後に、ミュゼにお茶に行くという意味だと明菜は了解した。
(「海の星」から「ミュゼ」のはしご……! 筋金入りの海の星常連様、すごい。ファンになると、ここまでしてくださる方が本当にいるんだ)
北川は、店に来るときはいつもひとり。お連れ様との会話を聞く機会もないので、私生活や勤務先等は依然として不明のお客様、となっている。だが、常にぴしりとスーツを小粋に着こなしている様はただものではなく、店員に対しても変に馴れ馴れしくならず紳士の気高さがある。
たしかに、「海の星」はそういったお客様が気に入りそうな店ではある。しかし贔屓だからといって、オープン初日の「ミュゼ」にも足を伸ばしてくれるとは。
「ありがとうございます。北川様がお見えになってくださると、蜷川も西條も心強いかと」
重荷にならないよう気をつけつつ、精一杯の感謝を口にし、明菜は頭を下げた。
もし伊久磨にお祝いを言うなり、個人的なやりとりがあるのなら、そのときにしてもらえたら良いな、という希望も込めて。
「それにしても、『海の星』も何年もやってると顔ぶれ変わって来るね。一番最初は、元気な男の子三人でやってるなと思っていたけど。あのピンクの髪の子と……」
ふっと遠くを見て、北川が楽しげに言う。
その当時を知らない明菜としては、微笑みながら頷くにとどめた。
そのとき、ドアベルが鳴り響く。明菜がぴくっと反応したのと、北川が「ここはいいよ、いってらっしゃい」と言うのがほぼ同時。
「ありがとうございます。お食事ご用意させて頂きます。ごゆっくりなさってください」
一礼して、明菜はエントランスに向かった。
そこには、見覚えのある顔ぶれ。
身重の親友心愛。困ったような顔をしている長身の青年は、香織。その横に、オレンジ頭の男がひとり。メンバーからして、彼が真田幸尚、とすぐに了解する。
「ごめんね、裏口にまわった方が良かったのかもしれないけど……。もう営業が始まっている時間帯だし、春さんたちの邪魔しちゃいけないかと思って」
心愛が、心苦しそうに言った。そこに、オレンジ頭の幸尚が重ねて言う。
「ケーキ作ってて、あとは佐々木さんに相談してデコレーションしようかと思ってたんスけど……。出掛けにひっくり返しちゃって無になって。この時間帯のキッチン使わせてもらうのはマジで気がひけるんですが、やらないと間に合わないっていうか……。仕事も手伝いますんで。お願いシマス!!」
「仕事も!!??」
そこまで甘える気はない、と思いつつ明菜は「とりあえず事務室に……」と三人を先導する。
(そういえば、香織さんはなんでだろ?)
普通に混ざっているが、関係者のようであって、関係者ではない。
首を傾げながらホールを横切り、キッチンへと三人を案内して、明菜は「シェフ」と声をかけた。そこで動きを止めた。
床に、オリオンが倒れている。それを由春が助け起こしていたが、人の気配に二人揃って顔を上げた。
「おう、ずいぶん賑やかだな。幸尚、手伝え」
「イエッサー!」
「ええっ、そんな、仕事……、そこまでして頂くわけには。オリオンはどうしたんですか?」
「足捻った。今日は無理だな。幸尚がいて良かった。佐々木は無理しないで、この時間は事務所で待っててくれ。お前は転ぶと洒落にならない」
さくさくと話を進められて、明菜は目を白黒させるばかり。
しかし、オリオンは微笑もうとしているが、顔をしかめている。足が痛いなら無理をさせられないのはわかる。そして、幸尚はといえばさっさと手を洗っていて、「春さんのコックコートあります? 事務所?」と気安い口調で話していた。
心愛は心愛で「何もできずすみません。邪魔にならないようにしています」と幸尚に続いて手を洗ってから、事務所へと向かう様子だった。
え、え? と戸惑っていた明菜も、そんな場合ではないと我に返り、「北川さまがお見えです。料理はいつものランチコースで。デザートは少なめだそうです。たぶん、この後ミュゼにも行ってくださるみたいです」とオーダーを入れる。
「やっぱり、北川さまご来店されてますよね! なつかしいなぁ、さっき客席にいるのが見えました。俺、いまは接客の仕事してないし、ここの従業員でもないんで挨拶とかどうかなって思いますけど、お見かけするだけで嬉しいです。最近はこの時間帯なんですか」
ここの従業員でもないという、パワーワード。
(手伝ってもらうの、ものすごく申し訳ない。でも、いてくれて良かった!)
すぐに、またドアベルが鳴る。
明菜が「それでは、よろしくお願いします!」と声をかけると、すぐさま幸尚が「北川さま、以前と同じならファーストドリンクから用意しておきますからご心配なく!」と応える。
その返事に心強さを感じ、明菜はめぐりあわせに感謝しつつ笑みを浮かべてホールへと出て行った。
一方、キッチン。
すぐに動き出した由春が、突っ立っている香織に向かって、眼鏡の奥の目をわざとらしく瞬かせる。
「何やってんだ椿。入社希望か? 履歴書持ってきたか?」
「間に合ってるよ。俺は幸尚を送って来ただけだから、すぐに帰る……」
言いかけて、香織はふう、と息を吐き出した。
「オリオン、病院に行くなら車あるから乗せていくよ。いま誰も手空かないでしょ」
「悪いな。お前ほんと、いつも良いところにいるよな。才能あるよ、うまく人に使われる方の」
「うるせえよ! 岩清水はしゃべってないでさっさと働けよ!」
ホールに響かないように怒鳴り返し、壁にもたれかかっているオリオンに手を差し伸べる。
そういうわけで、行こう、と。
ほんのり寂しげな笑みを浮かべて。