この仕事に、失敗はありえない
「椅子……! パイプ椅子をできるだけ運んでください、どなたか手の……」
空いている方、まで言えずにまどかは言葉を飲み込んだ。
休憩に入っているスタッフがいれば、とだめもとで事務所に飛び込んだものの、無人。
(やっぱり、誰も休憩取れてない……!)
美術館内が、どこもかしこも混んでいるのだ。
まどかが働き始めて以来の盛況ぶりであったが、多数の来館者に慣れていないスタッフたちはどこで見かけても顔をこわばらせていた。中には、まどかを見つけると「これじゃ休憩まわせないんだけど!」と詰め寄ってくるほど気が立っているスタッフもいた。
(今日はミュゼのこともあるから、シフト上出られるひと全員お願いしていたし、落ち着いてあたれば休憩はまわせるはず。それはきちんとお話してきたから良いとして)
イレギュラーの用件は、頼めないことがわかった。他のスタッフを頼らず、まどかひとりで対応するしかない。
団体客がいるわけでもないのに、美術館が混んでいる理由は、もちろんミュゼ。
十一時を待たずにオープンしたが、そこからあっという間に余裕がなくなった。
店が開いた気配を察したか、二回転目にあたる客が「もう入れる?」と展示場から早々と戻ってきてしまい、店の周りで行列が出来始めてしまったのだ。
すでに伊久磨は中の接客でかかりっきりになっており、店外は政道が誘導してくれているが、行列の後ろに整理券を持たない客が並んでしまうと説明に追われることになる。政道はその対応を引き受けつつ、「お客様はここでお待ちになるみたいだから、今日のところは椅子を並べて座って頂いた方が良い」とまどかに指示を出してきた。
「さっさと椅子、運ぼう」
順路を外れた通路に走り込み、物品庫の奥から椅子を積み上げた専用カートを廊下へと引っ張り出す。本来ならその作業に危険はないはずなのに、まどかが焦りすぎていたせいか。
カートの車輪を何かに引っ掛け、バランスを崩し、椅子タワーを倒壊させてしまった。
ガシャガシャガシャーン、と派手な音がひとけのない通路に響き渡る。
「……っ!!」
声にならない悲鳴。
(ぶつかるようなお客様がいるところじゃなくて良かった……!)
とにかく、早く運ばないととしゃがみこんで椅子を拾い始めると、通路の先で、ひょいっと誰かがのぞきこんでいた。
「すみません! お騒がせしました!」
声をかけてはみたものの、そのひとはスタッフオンリーのロープパーテーションを軽く乗り越えてすたすたと近づいてくる。
「手伝います」
「いえあの、お客様にそんな」
「急いで使うんじゃないですか」
さっと椅子を拾い上げて積み込み始めたのは、受付でチケットを売った覚えのある、長身の男性。独特な雰囲気があり、覚えていた。
これはもう、言い争いをしている時間はないと腹をくくり、「ありがとうございます!」とお礼を述べてまどかも積み込みをする。
終わったところで、改めてお礼を言おうとしたら、「カートはこの一台だけ? まだ他にも運んでくる?」と言いながら、男性はすでにカートを押し始めている。
「わー……! 大丈夫です! そこまでして頂くわけには!」
追いかけて、パーテーションの前まで来たところで、今度は静香とばったり顔を合わせることになった。
「静香さん、まだ館内に残っていたんですか?」
「はい。オープンだけ遠目に見ていこうと思って近くにいたんですけど……、穂高先生何してるんですか? スタッフですか?」
静香が、カートを押す男性を不思議そうに見る。
穂高と呼ばれた相手は笑みを浮かべて「そのロープをよけてください」と静香に的確な指示を出していた。
「お二人は、お知り合いですか?」
「あっ、はい。館長はお知り合いじゃないんですか? 西條さんの」
静香がパーテーションをよけつつ何か妙なことを言いかけたが、穂高はさっさとカートを押して通り抜け、まどかを振り返る。
「運んでおきますから、次のカートもお願いします」
一瞬、静香が二人を見比べてから、「ミュゼの待合に並べる用ですよね? 私、手が空いているので先生についていきます。館長はお仕事何かあれば続けていてください」と素早く判断をくだし、その場を後にする。
とっさに「ありがとうございます!」と返事をしてしまってから、まどかは物品庫に引き返しつつ内心疑問でいっぱいになる。
(西條さんの? 西條さんの何? 私が知っていてしかるべき相手……?)
会ったことはないはずなので、忘れたわけではない。ただ知らないだけ。相手も、まどかが知らないことを気にしている様子もなかったので、罪悪感のようなものはない。
だが。
(手伝ってくれたし悪いひとではないはずだけど……、名乗ってください~~!)
いったい誰だったんだろう、と思いながら物品庫の奥まった位置にあったカートに手をかけた。
よほど積み方が悪かったのか、ぐらりと傾げて椅子がいくつかが落ちてしまい、まどかは「うっそ」と言いながら積み直し作業にあたることになった。
* * *
料理人や、給仕、レストランで働く者はだいたい誰もが口をそろえて言う。
――この仕事に、失敗はありえない。たとえ舞台裏で何が起きても、お客様は何も知らず、すべてが予定通りだったと疑いもせず、満足して帰路につくのだから。
「伊久磨、海鮮ナポリタン。米屋のお二人様分」
「ありがとうございます」
ミュゼ店内は、すでに満席。
話し声と熱気の満ちる中、聖から出された料理の皿に、足早に戻ってきた伊久磨がさっと手を伸ばす。
頭付きの海老やムール貝など、パエリヤの具のような魚介類がごろごろとのった、真っ赤なナポリタン。粉チーズとタバスコを添えて。
「オープンに来てくれたのはありがたいことだが、また婿に来いって言われてんのか?」
「今日結婚なんですよって言ったら、『籍入れてないなら、まだ間に合うの?』って言われました。そこはおめでとうじゃないのかって思いました」
一瞬、軽口を叩き合い、皿を受け取った伊久磨は「海の星」常連客である女性二名の席へと向かう。そこでも冗談まじりのやりとりをしてから、ふと入り口へと目を向けた。
先程から待機客と新規客の対応に入っていた政道が、伊久磨と目が合うと困ったような目配せをくれた。
(なんだ……?)
少しなら余裕がある。いざとなったら、聖が料理を運ぶだろう、と伊久磨は入り口に向かった。
そこに、スーツ姿の初老の男性と、同年代で化粧厚めの女性が二人。
どこかで見たことあるなと思った伊久磨に、すでに表情に余裕を浮かべた政道が紹介してくれる。
「市長が開店祝いに駆けつけてくださったんだ」
「ありがとうございます。おかげさまで、順調です」
反射で、伊久磨はお礼を言って微笑む。
頭の中は忙しい。
(なんでこの一番忙しくなる時間帯に? 席は空けられないぞ?)
顔には出ていないはずだが、政道がさらっと説明を付け加えた。
「市長は美術館の先代館長と懇意になさっていて……」
「オープニングセレモニーでもあるかと思っていたんだが、無いのかね? 声をかけてくれれば、挨拶のひとつやふたつ」
伊久磨は目だけで、政道に伝えた。もうオープンしているんですが? と。
善意かパフォーマンスかわからないが、市内の美術館における革新的事業ということで、来賓祝辞のつもりで来てくれたらしいとわかった。招待に気が回らなかったのは、少々抜けていたかもしれない。
だが、そういったセレモニーは開催していないし、店はすでにオープンしていて、満席。二回転めのお客様もびっしり並んでいる。少しの余裕もない時間帯である。
見ればわかるはず。
「ずいぶん評判の良い若いシェフが来てくれたんだってね。ちょっと顔見させてもらっていいかね。激励をさせてもらおう」
市長は、首を伸ばすようにして入り口から店内をのぞきこんで言った。
混雑が見えているはずなのに、見えていないようなのどかな口ぶり。
(いま西條さんがキッチン抜けるのは無理です……!)
と言いたいところであるが、初日に大勢のお客様の前で揉められないし失言もできない、と伊久磨は深呼吸。
「わざわざ足を運んでいただいてありがとうございます。シェフはただいま調理中なので、ご挨拶は私が承ります。後ほど、しっかりと伝えさせて頂きますので」
「あ、いたいた、西條さぁん! ちょっといいかしら~!」
市長と一緒にいた女性が、店内に身を乗り出し、キッチンに向かって叫ぶ。
(ちょっともよろしくないんですが! この方見たことある。「海の星」に来たことあるな)
すべてのお客様が、すべてのタイミングで料理人の仕事を尊重してくれるとは、限らない。むしろ、その過剰に愛想のよい呼びかけには、「評判の若手シェフと顔見知り」ということに興奮して周囲の客に対して見せびらかすかのような意図を感じた。
伊久磨は、さっと辺りを見回してまどかを探す。
こういうときこそ、美術館側の責任者が対応してくれるのが一番角が立たないのに、と。しかし、察した政道に「館長は少し、席を外している」と告げられてしまった。
「わが町の文化を支える貴重な場であるこの美術館に、新しい風が……」
市長は長い話の始まりを予感させる出だしを話し始め、女性は「西條さぁん! 顔貸してくれるだけでいいからぁ!」と店内に向かって叫んでいる。
ここはもう、自分と政道で乗り切るしかないのか、と伊久磨が気持ちを切り替えようとしたそのとき。
「おっ。サンキュ」
すっと横を通り抜けた相手に、政道が声をかけた。
この期に及んで誰が来たのかと、伊久磨も視線を向けると、ニカッと笑って返される。
太陽みたいな笑み。
「コックコート持ってきてるから心配すんな。ミュゼの新メニューは全部把握してる。なにしろ、監修・俺」
力強く言われて、伊久磨は安堵の微笑を浮かべた。
「お待ちしてました、ヒロシェフ。地獄に仏……!」
「俺はまだホトケさんになる気はないぞ~。言葉に気をつけろ?」
さらっとかわしながら、岩清水大豪が店へと入って行った。
★オヤジ率高……ッ!